ゼミ

第1回やしの実大学報告書

[記念講演]ポリネシア考古学一 ハワイ人のルーツを探る
篠遠喜彦

この度は、第1回のやしの実大学という集まりにお招きいただきまして、たいへん光栄に存じます。ご紹介にあずかりました篠遠です。実は昨晩、懇親会の席でやしの実大学の名の由来が話題になりました。その際、私はこのように話ました。
みなさんもご存知のように、やしの実は島にあったものが何かの拍子に海に落ち、海上を漂いながら、ほかの島へ漂着します。しかし、漂着したビーチの上では芽は出ますが、芽が出たやしの実を内陸の方へ誰かが持っていって植えてやらなければ、やしの木には育ちません。したがって例えば無人島へ行っても、もしそこにやしの木が生えているようでしたら、かつてそこに人間が住んでいたということがわかるわけです。ですから、このやしの実大学もこれからいろいろな島に漂着しますが、島の人々や私共の努力によって育てていくものと思います。やしの実大学という名前に、我々はやしの実の漂着と成育を重ねて考えてゆきたいと思います。

アジア大陸から船出した人々は
長い年月をかけてハワイに

さて、私は、まったくの偶然からハワイに留まるようになり、それから40年以上、ハワイ人のルーツを探るということを一番の主題にして、太平洋の島々、ことに仏領ポリネシアを調査してまいりました。今、みなさんのお手元には太平洋の地図があると思います。これからお話しします中には、あまりみなさんには馴染みのない島も出てきますが、知らない名前の島が出てきましたら、地図をご覧になって、その島の位 置を確かめてください。
太平洋を見ますと、西側に北から日本、小笠原そしてニューギニアの北側を通 ってニュージーランド、オーストラリアまで続く安山岩の地質学的な境界があります。これは大陸系地質といいます。ここから東に広がる太平洋は玄武岩を中心とした地質になり、大陸系の地質とは大きな違いがあります。


遠博士の説によるポリネシア人類の拡散

違いは地質学的なものだけではなく、人の移動ということも異なります。太平洋の島々にどのように人が住むようになったのかといいますと、ふたつの大きな移住の波がありました。ひとつはおよそ今から50000年前にさかのぼるもので、おそらく粗末な船か筏使って東南アジアから太平洋に乗り出したと考えられます。現在のオーストラリアのアボリジニやニューギニア高地の人々は、こうした太平洋を最初に渡った人々の子孫であろうといわれています。
ところが、太平洋の東の玄武岩の島々に移り住んだ人々は、太平洋を最初に渡った人々とはまったく違います。海を渡ったのも今から約5000年前のことなのです。出発点もまだはっきりしたことはわかっていませんが、おそらくアジア大陸、中国の南部あたりだろうといわれています。結論から申しますと、この人々がハワイ人の遠い祖先となるのです。 ニューギニアの少し北にあるビスマルク諸島から南のニューカレド二アにかけての海域で、ラピタ土器と呼ばれる太平洋最古の非常に美しい模様を持った土器が発見されています。この土器を作った人々は土器と黒曜石を交易品にして、さらに東方の島へと渡った航海民だったのだろうといわれています。この航海民をオーストロネシア人といいます。この人たちはオーストロネシア語を話していました。西はマダガスカルから東はイースター島までの広大な地域に広がる言語です。彼らはビスマルク諸島からソロモン諸島、ニューカレドニアを通 ってフィジーに、さらにトンガまで非常な勢いで移動していきました。ビスマルク諸島で発見されたラピタ土器の年代が約3500年前、トンガで発見されたものも約3500年前です。 さて、当時としては驚くほどの勢いで東へ移動したラピタ土器を持ったオーストロネシア人ですが、彼らはなぜか、トンガ、サモアまでたどり着くと、」そこで一旦移動をやめてしまいます。このあたりに約1000年間留まったとみられています。そして、このあたりに留まった間に土器を作ることをやめてしまうのです。どうしてやめてしまったのかは、まだはっきりとはわかりませんけれども、おそらく調理法の変化が関連あるのだろうと思われます。
まず、このあたりで一番重要な食物であるタロイモ、ヤムイモ、サツマイモですが、こういった根菜類、それからパンノキの実のようなものを料理するのは、石焼きを使えば簡単にできます。ですから面 倒くさい土器作りなどしなくても料理ができるので土器作りはやめたのではないかという説に私も賛成です。沖縄の調査をしたおもしろい報告がありますが、土器を作っていた時代から土器を作らない無土器文化の時代になると、石焼きの竃が増えるというのですね。

一辺が8000kmにもなる
大きな三角形内に
共通の文化を持った人々が住む

沈みゆく火山島の典型
ソサエティ諸島のボラボラ島

ところで、ポリネシアですが、これはどこを指すのかといいますと、北のハワイ、南西のニュージーランド、太平洋の東の果 てのイースター、この三つを頂点にした三角形内の文化圏です。そしてトンガ、サモアに約1000年ほど留まった人々は、その留まった期間にポリネシア文化と呼ばれるものの基礎を作っていったのではないかと考えられます。おもしろいことに、オーストロネシア系言語の分布とアウトリッガー・カヌーの分布が全く一致していることです。
次はこうしたポリネシアにある島の地形の話をいたします。ポリネシアの島々の多くは海底火山の噴火でできた火山島です。この火山島は雨や波に侵食され、また島自体が沈んでいくのですね。まず島の周囲にサンゴ礁 が発達しますが、その島が沈むと島と一緒に海中に沈みます。サンゴは60m以下の海底では生きられないので、上へ上へと成長してゆきますが、沈んで行く島とサンゴ礁 との間が礁瑚あるいはラグーンと呼ばれる場所です。そして島が完全に海中に没すると環礁 、アトールだけが残ることになります。これはチャールズ・ダーウィンの学説です。中央ポリネシアにツアモツ諸島がありますが、ここには環礁 が100余りあります。
それでは、ポリネシアの島々の地形的な特徴を知ったうえで、本題であるハワイ人の起源についてさらにお話しいたします。ハワイに人が住み始めたのはポリネシアに人が拡散していく歴史の中では、後期のことです。つまりハワイ人の起源を辿っていくためには、他のポリネシアの島から島に行って、その島にいつ頃から人が住み始めたかを調べなければなりません。 考古学的な発掘の前にまず伝説を調べてみました。ハワイに残る伝説では自分たちは「ハワイキ」から来たとなっています。また、タヒチの伝説でも同じくハワイキであるという。ニュージーランドのマオリの人たちも同じです。ところが西ポリネシアのサモアに行きますと、ハワイキはここだとなります。これをハワイキ伝説といいますが、伝説ではサモア、トンガから来た人々が、タヒチに到着し、タヒチを蛸の頭にたとえて足を延ばすように東ポリネシア各地に広がっていったというのです。

こうした伝説に対して戦後すぐに「いやポリネシア人の起源というのは南米だ」といった人がいました。ノルウェーの人類学者のヘイエルダールですが、彼が自説の根拠にしたのは、サツマイモです。南米原産のサツマイモが西欧人の到着以前からポリネシアにあるということで、彼はポリネシア人南米起源という説を立てたのですね。さらに、彼は自説を裏付けるために「コンティキ号」というバルサの筏を仕立ててペルーからツアモツ諸島まで渡って見せました。このコンティキの快挙は、多くの民族学者や考古学者の目をポリネシアに向けさせ、各地で発掘調査が進んで、結果 的には彼の説は覆りポリネシア人はやはり西から来たのだというのが現在の定説になっていいます。

無土器文化の中で編年材料を探し
釣針に辿り着いた

右が単式、左が組み合わせしき釣針

私がポリネシア調査に関るようになるのはコンティキの快挙の後、数年しか経っていない時でした。それからもう40余年も経っているわけですが、現在、私が主張している東ポリネシア文化圏での人の移住に関する説は、伝説にいわれているタヒチ分岐ではなくてマルケサス分岐説というものです。この説を裏付けた私が行った発掘調査のことをお話しします。
最初に発掘しましたところは、ハワイ島の最南端にある岬、サウスポイント遺跡です。私はここにアメリカに留学する途中に、ほんの少しだけ見るつもりで滞在したのですが、結局ここでの調査をきっかけにポリネシアに留まることになってしまいました。発掘はビショップ博物館のドクター・エモリーによるもので、私は彼に拉致されたんです(笑)。
発掘を進めていますと、日本では編年に土器を使いますが、その遺跡からは一向に土器が出ませんでした。そこでドクター・エモリーに聞きました。「全然土器が出ないけど、どういうわけですか」と。すると彼は「ポリネシアには土器はないよ」というんです(笑)。それでは何を使って編年をするのかと尋ねますと「そんなものはない」と言われました。私は仰天して、土器がないなら何を使って編年を立てようか考え発掘を進めていますと、釣針が非常にたくさん出てくることに目が止まったのです。私はそこで釣針を、まず大きく3つに分類していきました。1は単式釣針。これはひとつの素材だけで釣針すべてを作るものです。2は組み合わせ釣針で、これは柄と針先を別 々に作り、基部を糸で結び付けたものです。さらに3は複合式釣針といいまして、いくつかの異なった素材を複合して作るタコ釣り用やカツオ釣り用の疑似餌鉤、ルアーです。

れらの釣針の形は非常にバラエティに富んでいまして、単式釣針だけでも61形式もありました。私はこの形の違いが時代による流行ではないだろうかと考え発掘を続けました。するとある遺跡で、組み合わせ釣針で針先の結合部に刻みを付けて結ぶタイプと、突起を作って結び付けるタイプの2種類が出てきました。しかも遺跡の下層からは刻みが、上層からは突起が、さらに中間の層からは両方が約半々に出てきました。これで、ハワイにおいては刻みを付けて結合するタイプの釣針が出る層位 が古いということがわかったのです。
では組み合わせ釣針はどこから来たのかとなりまして、まず、タヒチに行きました。ところが中央ポリネシアでは組み合わせ釣針が出ないんです。せっかくのハワイでの発見も役に立たなってしまったところに、ニュージーランドの考古学者ロジャー・グリーンさんが、単式釣針の釣り糸を結び付けるいわゆるチモトの形の違いで、編年ができるのではないかといいだしました。そこで、私もハワイの釣針で彼の仮設を試してみると、確かに編年に役に立つことがわかりました。
単式釣針で重要なのは、チモトの刻みが内側(針先側)と外側の両方につくもの、これが一番古いタイプです。そして、このタイプがすたれていくのと反対に、外側に突起の付いた釣針が出てきます。そしてこの型式がタヒチ後期の釣針と一致することがわかってきました。ではハワイの古いタイプはどこから来たのかということになるのですが、次に私はマルケサスに行きました。 最初に行ったのは'63年で、マルケサスには南の諸島と北の諸島がありますが、南の諸島のひとつヒバオア島に行き、南海岸近くの遺跡などの発掘をしていましたが、釣針は1本も発見されませんでした。ヒバオア島からの帰路、北にあるウアフカ島に上陸し、ハネ湾の砂丘を歩いていたらありました、たくさんの釣針が。この年はひとまずハワイに帰りまして、翌年、翌々年に半年ずつこのハネ湾の発掘を行ったのです。
そして全部で2000本近い釣針が出ました。時間がありませんので結論をいいますと、ハワイの古い釣針とマルケサスの古い釣針が非常によく似ていることがわかりました。それで私はハワイへの人の移動は、2回あったと考えたわけです。つまり、伝説でいわれるところのタヒチーハワイの移動は後期で、それ以前にマルケサスーハワイの移動があったと考えました。
マルケサスの発掘では土器が出ました。しかしハネからわずか2片で、他の遺跡から4片。今までマルケサスで出土した土器片は、他の人の発見も含めると14片です。遺跡を10数カ所も掘っているのに14片というのは、もしマルケサスで土器を作っていたとすれば少なすぎます。ですので私は、サモア、トンガからマルケサスに渡って来た定着期の人々が、土器を持って来たのだろうと私は主張しているわけです。しかし、土器を分析した人は中にはマルケサスの土を使って作った土器もあるといいます。こちらへ来る1カ月ぐらい前にも、この問題が再燃しまして、分析をやり直すことになりました。

伝説にいわれていたカヌーの発見
フアヒネの水没遺跡調査

現代ハワイ人が復元したカヌー、ハワイ・ロア

次の話は、ポリネシアの人々はどうやら西の方から渡ってきたようだけれども、どうやって渡ったのかということです。あれは1972年です。場所はソサエティ諸島のフアヒネという島で、ホテル・バリハイの建設中に盛り土用の土を取るためにブルドーザーで池を掘っている時にたくさんの鯨骨が出てきました。私はちょうど近くのマエバ村というところで、昔の集会所の復原をしていました。鯨骨が出たというので早速に現場を見に行きました。責任者のスピーン氏は「これはどうみてもただの骨ではない」と言って、見せてくれたものは、パツというニュージーランドマオリの武器でした。これがニュージーランド以外で初めて出たのですが、当時、ニュージーランドの考古学者は、それはタヒチにもともとあったものではなく、キャプテン・クックがマオリのチーフからもらったものをタヒチで落としたんだというんです(笑)。
しかし、キャプテン・クックがタヒチに来た頃には、このような型式をしたパツはもうなかったんです。ですから、フアヒネの方がニュージーランドよりも先ではないかと私は考えましたが年代を知ることにより、マオリよりずっと古いことがわかりました。その遺跡の発掘を続けてみると、そこが水没遺跡でしたので木製品が出始めました。後にカヌーの一部が出土し、しかも側板だけで長さ7m、幅が50cmもあり、それが2枚も出たのです。さらに12mの長さのマスト、4mのかじ取り用の櫂、巨大な水あかとりが出ました。これらをもとに考えてみますと全長は約20mのダブル・カヌーが浮かび上がりました。ポリネシアの人々はこうしたカヌーで島から島を行き来していたことが、伝説だけではなく考古学でも立証できたわけです。
そうして考えてみますとトンガがB.C1500年、サモアがB.C1000年,マルケサスが西暦0年、タヒチ、クック諸島がA.D.850年、マンガレバ、イースターがA.D.900年、ニュージーランドはやや遅れてA.D.1000年。多少の誤差はありますが、この辺りの年代に人が移り始めたのではないかと考えています。では彼らは、なぜ新しい島を求めて船出していったのであろうかということです。
やれ、政治的な理由で住んでいた島を追いだされたとか、人口が増えたので新しい島に渡る必要が生じたとかいいますが、私にはどうもそうしたことだけとは思えません。ポリネシアの人たちは、遠洋航海できるカヌーを作る技術と、星や海流を読みながら航海する航海術、長期航海をする食糧の保存する技術を持っていました。
そうしたところに島には毎年、渡り鳥が飛んでくるわけですね。鳥が飛んでくる先には必ず陸地があります。航海に関するあらゆる技術を持った人がまだ見たことのない陸地の存在を知って、果 たして黙っていられるでしょうか。「鳥が飛んでくる先に行ってみたい」そう思うのではないかと私は考えます。少しロマンチックかもしれませんが、ポリネシアの人の航海の動機には、ポリネシア人の気質ということがあるのではないかと私は、思います。ごくかいつまんで、お話をしましたが、ハワイ人のルーツは、古くはマルケサス(A.D.700)後にタヒチ(A.D.1200)の大移動があったと考えられます。


タヒチを訪れたキャプテンクック一行

若い人への期待は南太平洋で
発見された縄文土器の謎の解明

縄文土器の出たエファテ島メレ村

だいぶ話が長くなりました。以上でポリネシアに関する話は終えますが、最後に南太平洋で見つかった縄文土器について話をします。30年ほど前、フランスの考古学者のジョーゼ・ガランジェという人が、メラネシアのバヌアツ共和国のエファテ島メレ村から、地元の土器とは違う変な模様の土器を発見したとの論文を書きました。彼はその論文を出版前に私に見せてくれたのですが、私はたいへん驚きました。彼が見つけたのは模様だけ見ると日本の縄文土器なんですね。その中には縄文早期の青森近辺、北海道南部から出土する円筒下層土器の文様とそっくりなものがありました。
これはたいへんだと思い、私は騒いだのですが、当時、私はポリネシアの仕事で忙しく他の人に調査を薦めました。ところが、どなたも腰をあげませんでしたので、3年ほど前からカナダの考古学者とアメリカの地質学者とともに調査を始めたんです。すると、まず土器の分析ですが、粘土に含まれている添加物が青森県の土器に含まれているものと一致しました。続いて年代ですが約5000年前と出て、縄文早期と一致しました。つまり、ヴァヌアツの土器は日本製の縄文土器にまず間違いないという結果 が出たわけです。

メレ村で見つかった
円筒下層式土器のハヘン

そこで昨年、私はボランティアの人たちを募って現地のメレ村で発掘を行いましたが、縄文土器は発見されませんでした。しかしどうして日本の古い土器がバヌアツで発見されたのでしょうか。大きな疑問です。いろいろな可能性が考えられますが、そのひとつは日本からの漂流、漂着です。日本からミクロネシアへの漂流、漂着の記録はたくさんありますが、ミクロネシアからバヌアツへの漂流、漂着もあったのです。1951年にマーシャル群島から出帆した長さ8mのボートが嵐にあって漂流を始 めました。どこの島も見ずにヴァヌアツのエファテ島のすぐ隣のエピという島にたどり着いたとの記録があるんです。 ですから、私は案外、縄文人がバヌアツまで漂流、漂着した可能性があるのではないかと考えているわけです。三内丸山などの事例を見てもわかるように、縄文人はわりと活発に海上交通 をしていました。その中から漂流したものがいて、6000km離れたバヌアツにたどり着いたのではないか。人はその時、生きていたのかどうかはわかりません。私はこの問題に今後も取り組みますが、だいぶ年もとりました。そこで今後は、日本の若い方に調査を行ってもらいたいと思っています。それでは長い時間ありがとうございました。

「第1回やしの実大学報告書」(1998年4月)
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