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[第11回講義]ミクロネシア政府はなぜ機能しないのか?

- フランシス・X・ヘーゼル、S・J - "Why Don't Our Government Offices Work?" May 1998
今日の問題

ミクロネシア政府の各機関はなぜ目的通りに機能しないのだろうか?コンサルタント、外国人投資家、外国人住民などはこの質問を胸にいだきながら欲求不満に陥ってきた。またミクロネシアの行政官たちもこの問いを長年にわたって自らに問いかけてきた。この質問は太平洋諸国だけでなく、アフリカ、アジア、ラテンアメリカのほとんどの地域に関しても当てはまるものだろう。非効率な政府が世界のあちこちに存在するという事実を見れば、島の人々が政府のサービスとして何を提供すべきかを理解していないという現実の裏にさらに根深い理由があるものと思われる。

政府サービスの非効率さを物語る例は枚挙にいとまがない。校長たちは自分が自分の学校の教員に配布した就労規則を守らせることさえできない。教員は具体的な説明をせずに長期間職場を留守にして戻っても、校長から無責任な行動を採ったとして叱責を受けるわけでもないし、減給処分になるわけでもない。与えられた仕事ができないことが明白な公務員が解雇されることはない。むしろ雇用側はもともとその公務員が一人でやるべき仕事を進めさせるために人件費をさらにかけてアシスタントを一人か二人さらに雇ったりする。管理ができない管理者が解雇されることはなく、彼を雇用しつづけるために作られたポジションに異動になるだけだ。

さらに保守管理の欠如という長年にわたる問題もある。過去40年間にわたって政府の行政に関して書かれた報告書のなかでこの問題に言及していないものはない。発電所の発電機は基本的な保守管理も行われずに放置されたままとなり、通常の製品寿命の何分の1かで処分されていく。病院、トラック、警察本部、公営住宅など全てに保守管理の不備による悪影響が見える。「機械設備や建物は通常の保守管理をせずにできるだけ長く使用した後、処分して新しいものを購入する」というのが一般的な考え方のようだ。

コピー機から学校制度、保健制度にいたるまで、本来発揮すべき効率を発揮しながら機能しているものは何もない。折りに触れてこの不幸な実態が認識され、現実を変える決定がなされ、従業員に知識を授ければ問題が解決するだろうとの期待のもとに教育やトレーニングが行われる。だが知識を授けても問題の解決にはいたらない。無知が根本的な原因でない以上、トレーニングが問題解決につながるわけはない。悲しいことに、我々は管理の欠如の底にある問題を正しく認識することさえしてこなかったのだ。新しいテキストや保健に関するマニュアルを与えたり、昇給やトレーニング・ワークショップなどのインセンティブなどを次々と与えても、何の効果もなかった。だが本当の問題を理解していない以上、期待した反応が得られるわけはないのだ。問題の根は情報にあるのではない。問題は人々の意識にあるのだ。

数年前、アジア開発銀行の委託を受けてFSMが大規模な教育調査を行い、学校が抱える問題の多くは、教育資材の不足、教育方法の悪さ、不適切な教育方針などが原因であるとの結論を下した。しかしこの調査の担当者は明白な事実を見逃していた。それは、有名校でも最低水準の学校でもこのような点に関してはほとんど相違がない、ということだ。明白な相違が見られるのは、管理者の資質と学校が採用している管理慣行だ。管理が行き届いている学校では、どのような教科書を使おうが、何歳から英語教育を始めようが、そのようなことには関係なく、勝れた教育成果を挙げている。対照的に、管理が行き届かない学校では、悲惨な結果を出している。グレッグ・ディーバー博士はポナペのパシフィック・ベイスン・メディカル・スクールの学生たちに「ミクロネシアの死因の第一位は組織の乱れにある」と語った。

私が長年にわたって教育や医療上の問題と受け止めてきた問題の多くは、実は管理の問題であった。教育や医療上の問題をはじめ、ミクロネシアの外国人が嘆く問題の多くは、私たちにとっては呼吸するのと同じくらいごく当然だと思われる質の高い管理が欠如していることが原因だと思われる。では、質の高い管理が「ごく当然」のことなら、ミクロネシアの人々はなぜ管理システムを導入するのにそれほど手間どるのだろうか?

質の高い管理とは何だろう?現代に生きる私たちは、質の高い管理と聞いて、官僚が効率的に仕事を片づけていく様子をイメージする。役所のなかは整理整頓が行き届いており、役人は配布されたガイドラインにしたがって免許の発行、税の徴収、などの仕事を決められた通りに行うものと私たちは考えている。仕事に関しては明確な決まりがあり、組織的にも命令系統としてもヒエラルキーが確立している。壁に貼られたフローチャートには、誰が誰の上司なのかを示す組織体系がすべて明記されている。しかし各部署は個別のセルを構成し、独自の作業進行手順を持つとともに、日常的な作業は単独で処理しているため、官僚組織のなかの命令系統は外から見えるほど重要ではない。

官僚組織のなかで働く人々は特別な教育を受けた公務員であり、我々の誕生地、職業、母方の両親、肩書などには関心を持たない。官僚組織には顔はなく、役員は個人的な感情を仕事に持ち込まないため、このような情報は彼らにとっては全く意味がない。政府のサービスを求める人には、社会的ランクや住むところに関係なく、全て平等にサービスを提供しなくてはならない。重要なのは役所の決まりにしたがって、満足のいくサービスがサービス申請者に提供されたか否かだ。

官僚組織に関する理論通り、サービスを要請する人は顔も形も持たず、サービスを提供する側も顔や形はもたない。官僚組織は、特定の仕事をするために必要な資格を持つか否かだけを条件に選ばれた人々から構成されている。公務員は交換可能な一種の部品として仕事をしている。これは公務員なら官僚組織のなかのどのような仕事でも、あるいは全ての仕事ができるという意味ではなく、どの公務員も、必要とするスキルを持つ人なら組織外の誰とでも簡単に入れ替えることができ、しかも組織全体には何の影響も与えないことを意味する。人が変わっても組織はそれまでと同じように効率的に機能する。

以上を聞いて、身近な島の役所のことを言っているようだ、と感じただろうか?個人的感情を交えない?顔や形を持たない?社会的地位には関係なくサービスが提供される?規則が優先され、人間は二の次?

ミクロネシアではそうではない。グアムでも多分違うだろう。グアムの人々は役所のどの部署に用事がある場合でも、役人を「プリモ(いとこ)」と呼ぶ。

私たちが勝れた管理体制として認識しているものは官僚制度における事務処理システムである場合が多いが、これは近年になってから米国で確立されものである。マックス・ウェーバーが官僚に関する有名な自著のなかで指摘した通り、官僚制度とは長い歴史を持つ制度ではなく、中東、ドイツ、モンゴルなどの帝国支配後に作られた巨大な政治構造のなかでさえ例外的な制度であった。将軍の補佐官や宮廷の召使い、つまり官僚制度のなかの役人たちより暫定的で自由な権限を持つ個人によるサービスの提供の方がはるかに一般的な行政府のかたちであった。つまり、官僚制度や官僚制度にもとづく管理という考え方は古代の帝国や欧州の王室、帝国や王室に依存した政治体制のなかにさえ存在しなかったのだ。私たちが世界的に昔から存在したものと時折考える管理システムは、今日私たちが世界中で目にする周囲の事象、つまり民主政治体制や人権に関する言葉と同じように、現代の産物なのだ。管理システムは現在、世界中で受け入れられているが、ある1つの特殊な社会経済環境の産物にすぎないのだ。

ここで登場するのが、「c」で始まる恐ろしい言葉、つまり文化(culture)だ。本論文の冒頭で言及した欲求不満一杯の外国人たちは、地元の人々に対する批判が展開されるたびに持ち出される、彼らが、お馴染みの手っ取り早い言い訳だと考えていることにもろに憤りを表すだろう。「あなた方は私たちの文化を分かっていない」という言葉は、彼らにしてみれば、多数の過ちを隠す言い訳にすぎない。だが太平洋の島社会に持ち込まれた制度のなかで文化の影響を受けていないものなどはほとんどない。教会にしても、学校にしても、病院にしても、政治制度にしても、行政制度にしても、一部の人の目にはとても「自然」なものと映っているものでも、文化の影響を色濃く受けているのだ。

もう一つの文化に関する見解の相違に言及するなら、ミクロネシアの人々は時々、欧米諸国から受け継いだ政治制度と同じくらい島の社会にそぐわない欧米式行政制度のなかで何もできない、と反論する。ミクロネシアの人々は、欧米で発達した行政制度や政治制度を破棄し、もっとミクロネシアの価値観を反映した制度と入れ替えるべきだ、と指摘する。しかしこのような「太平洋方式」を支持する人々は、すでにそれが実現していることに気づかない。現在のミクロネシア政府内で見られる機能は、純粋な欧米の官僚制度や、マックス・ウェーバーなどが社会学の論文のなかで指摘した事象ではなく、ミクロネシア社会に適するように修正された管理マニュアルにもとづくハイブリッド政府機能なのだ。

ミクロネシアにも外国の行政制度に見られるようなさまざまな装飾機能の付いた制度があるのかもしれないが、ミクロネシアの行政制度は外国の行政制度のようには機能しない。政府省庁が規則で縛られているとしても、非常に緩やかな規則であり、例外を受け入れる余地も大きい。ミクロネシアの人々は政府省庁への入り口は1つだけではないことを知っている。裏口や窓から入る人は多いし、コネのない人たちは正面入り口からでさえ入れそうにない。本当の意味での官僚制度のもとでは、個人の身分やコネなどによって対応に差がつくはずはない。重要なのはあなたが何を必要としており、あなたが必要としているものが官僚制度の規則とどのように合致するか、だ。ミクロネシアの島社会がこのような体制になっていないのは明らかだ。

政府が目標としているのは効率であると本気で主張できる人などはいない。政府が効率追求を目標としているなら、書簡やファイルが紛失することはなく、申請手続きはスピーディに処理され、電話での伝言は伝わるべき人にきちんと伝わり、昼食は昼食時間中に終わり、報告書は速やかに提出され、残業は減るだろう。仮の社会、例えばマックス・ウェーバーが書いたドイツの社会なら、無能な公務員を解雇することもできようが、ミクロネシアでは解雇は最大の裏切り行為と見なされる。無断欠勤が続いたり、自分の職務を全うすることに関心がない、あるいはそれだけの能力がない公務員を解雇するようなことはミクロネシアでは起こらない。ただし、上司に対して甚だしい不信の態度を取る公務員は解雇されるかもしれない。(サイパンで以前の政府を支持しなかった人々が「ファックスで解雇された」例もある。)ではミクロネシアでは非効率にどのように対応しているのだろうか?担当者ができない、あるいはやろうとしない仕事をすることのできる人を1人か2人加えるのだ。

ミクロネシアの管理制度のなかでは、何か機能しない部分が生じた場合、それを直したり、入れ替えたりするより、プログラムや人員を追加して問題を解決する方法を好む傾向が強く見られる。白蟻が食った柱を除去するのではなく、その柱を新しい、頑丈な板で囲むのだ。非生産的な公務員を解雇するのは文化的に難しく、上司は責任感のある人間でその非効率的な公務員を囲み、本人の能力を補ったり、部署が上手く機能しているような印象を与えようとする。貧弱なプログラムの影響を改善しようとする時にも同じ戦略が採られる。政府役人は問題を分析し、解決しようとするのではなく、元のプログラムの不備を補うために新しいプログラムを追加して好ましくない影響を抑えようとする。例えば、小学校や高校など、学校制度の大手術をして問題の原因をつきとめ、学校制度が好ましく機能するように指導するのではなく、生徒たちが中学校を卒業してから参加できるプログラムを作り、子供たちがもっと早期の段階で提供されるべきだったスキルや情報の提供を行う方を好むように見受けられる。もちろん、この戦略には文化的に好ましい理由もある。他人の職域への侵略とも受け取られかねない手段を避け、教育制度を全体的に改善すれば非難されたと感じたかもしれない人が出るような局面を回避することができるのだ。欧米人の目には、このような戦略は問題を直視することを避けている、と見える。ミクロネシアの人々にとっては、回りくどいが無難な問題解決法なのだ。

保守管理の無視も、上層部から村レベルまで、政府関連組織の全てに関して頻繁に聞かれる批判だ。ミクロネシアでは機械設備の保守管理がほとんど行われてこなかったのは、ミクロネシアの人々に長期的視点が欠けていることだけが理由だろうか?太平洋の島々の人々もラテンアメリカの人々同様に、「明日に延ばせることをなぜ今日しなくてはならないのか」という意識を持っているのだろうか?このような説明に逃げるのは簡単だが、実際にはより深い理由があるように思われる。ミクロネシアの学校制度を担当する役人は年度始めには、予算の10-15%を機械設備の保守管理費に割り当てる決意で取り組むようだが、資金が欠如しはじめ、雇用状況に悪影響が出始めると、最も切りつめやすいのが、ほとんど目に見えない、長期的な保守管理費という項目になる。欧米人は、学校の建物などを定期的に修理したり、保護策を採っていれば、将来必要になるであろう大がかりな改修工事などを避けたり、先送りすることができる、と考えるが、ミクロネシアの人々にとっては学校の施設の改修工事などよりも、公務員の雇用を維持することの方が緊急性から見ても、個人的にも、はるかに重要なのだ。そして、保守管理を犠牲にして雇用が確保されることになる。太平洋の島々の人々にとっての常識とは、長期的なものより目先のことが重要であり、物より個人的なことが重要なのだ。

また島の人々は、政府の役割としては、島の生活にとって非常に重要なサービスを提供することより、雇用を提供する方が重要だと考えているようだ。信託統治の時代から現在まで、太平洋の島々では政府が最大の雇用者だ。グアムと北マリアナ諸島では観光産業の急成長に伴って、政府が最大の雇用者ではなくなったが、太平洋諸島の人々の大半は今でも、政府が安定した高給職をいくらでも提供してくれるものと考えている。ミクロネシア連邦で、予算と公務員数の削減(小さな政府)に関する討論会が開かれた時に、人々が政府に対してこのような期待を持っていることが明らかになった。政府高官たちは一般の人々を主導して、サービスの効率的提供を図るためではなく、公務員や彼らの家族を優先させた削減措置を導入せざるを得なかった。雇用や予算の削減を行うときには、公務員への悪影響を最小限に抑え、悪影響が避けられない時には影響が平等に出るような配慮がなされ、各部署にとってどの人材やスキルが必要か必要でないのかはほとんど考慮されない。

「非効率な政府」と呼ばれることへの文化的説明は、少なくともミクロネシアの島々の人々の考え方を知っている人々にとっては数多くあるし、また明白でもある。非効率さをもたらしている原因の多くは単なる無能力さでもより好ましい行政体制を導入することへの拒絶でもなく、官僚制度が島の生活に順応していることから起こる文化的価値観の不調和が原因と考えられる袋小路状態である。政府の行政制度は、自由連合州だけでなく、北方の裕福で近代化が進んだ島々でもミクロネシアの文化に十分に適合している。

島の行政に対するアプローチは、イデオロギー的視点から言えば理解できるし弁護の余地もあるが、深刻な欠陥を抱えている。政府のサービスの質は、ミクロネシアの人々の判断基準からしても、とうてい受け入れられないほど低い。他の分野は言うまでもなく、医療保険制度や学校制度のレベルの低さは島民が期待している人材育成に大きな障害となっている。しかし新しいプログラムを導入しても管理体制の効率化が進まない限り、無駄になる政府予算が増えるだけだ。さらに、マリアナ連邦やマーシャル共和国のような国が深刻な予算削減や協定解除後の不透明な展望に直面している現在、今の政府制度はあまりにも金がかかりすぎる。ミクロネシアの国々は1人分の仕事をさせるために3人も雇ったり、基本的プログラムが達成すべき目標を達成するために補完プログラムを導入しつづけることなどは財政的理由からもはや不可能である。

生活が単純で、資金が潤沢だった昔なら、横を向いて、管理上の問題が時間の流れとともに自然に解決するのを待てばよかったかもしれない。しかし発展に向けての競争が始まった今、このような贅沢が許されるのだろうか?少なくともミクロネシアの指導者たちは、問題をあるがままに受け止め、行政制度の抜本的な改革が必要かいなかを本気で検討すべきだ。改革が必要なら、改革を効果的に進めるための大胆な措置を導入し、必ずや投げつけられるであろう石や非難から身をかわすしかないだろう。

1998年5月

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