ミクロネシア講座

ミクロネシアン・セミナー

[第9回講義]ミクロネシアの社会問題調査に対する人類学の貢献

- フランシス・X・ヘーゼル、S・J - The Price Of Education In Micronesia [1989]
文化の大きな変動と人類学

ケネディ政権時代に始まった活発な開発が10年間続いた後の70年代初期、ミクロネシアは人類学者レオナルド・メイソンが指摘したとおり、「2つの世界」に分断された。この「2つの世界」とは、初期の人類学者の注目は集めたが行政府からは無視された結果、社会的、経済的に停滞の度を増していった遠隔の島々から構成される世界と、行政サービスが積極的に提供されて開発計画の中心となった町とその周辺の地域から構成される世界だ。中心地では人口が爆発的に拡大し、無視できないほどのさまざまな社会的動きに晒されるようになった。カロリン諸島やマーシャル諸島の賃金労働者の数は1962年から1965年までの4年間に3000人から6000人へと倍増した。そしてさらにその後の10年間に12,000人へと再び倍増した。60年代になると高校教育が急速に普及し、高卒者の数は年間100人から10倍の1000人へと増えた。さらに1973年には米連邦政府が補助金を支給したため、大学に進学する生徒の数が爆発的に増えた。ミクロネシアでは人々が雇用と教育チャンスを求めて町に集まり、その結果、町の人口が急増した。この現象が最も顕著に見られたのがクアジャリンで働く人々とその家族や親族のベッドタウンだったエベイ島だ。その後「太平洋のスラム」として知られるようになったエベイ島の人口はその後間もなく8,000人に達した。

このような新しい世界はミクロネシアの人々にそれまで想像もつかなかったようなチャンスを与えたが、同時に問題も与えた。たとえば、ポナペに住んで現金収入で裕福になった人々はそれまで手で漕いでいたカヌーにエンジンを付けることができるようになったが、同時にまたコロニア・タウンにある21軒のバーにも通えるようになった。ミクロネシアの各地で、酔った若者の婦女暴行や、給料が支給される週末の騒乱、無意味な自殺、このような混乱にどう対処して良いのか分からないコミュニティの狼狽など、暗い話が聞こえてくるようになった。

このような現状のうえに、ミクロネシアの戦争直後の生活が重なって見えた。当時、人々はタロを植え、パンの木の実を収穫し、村々では食糧を山のように積み上げてお祝いをし、長老には敬意を払った。50年代や60年代にさまざまな変化が見られたにもかかわらず、島の生活は一部の地域や時代には何も代わらなかったとするような幻想が見られた。

誕生した時から人類を向上させることを目標の一つと宣言してきた人類学は、第二次世界大戦時から研究の対象としてきたミクロネシアの島々の救援を期待された。人類学は当初から、自らの目的は異質な社会に関する情報を集め、文化的規律をまとめる以上のことにあると考えてきた。他の科学同様、人類学は実利的側面を持つものと考えられていた。人類学は文化力学への理解にもとづき、支援を必要としている社会に技術を導入することができるものと期待された。その後、人類学が文化的変化の研究に改めて重心を移し始め、問題に焦点を当てた研究を優先させるようになると、人類学はさらに多くの期待を集めるようになった。本論文ではこれ以降、人類学者が与えた影響とミクロネシアにおける社会問題研究の展望について論じる。

若者に関する問題

70年代になるとミクロネシアの若者の飲酒と無秩序という問題が拡大するように思われ、強い懸念を招いた。若者たちの好ましからぬ行動が急増するに伴って、若い男性は社会環境から疎外され、島社会の価値観から急速に離脱していくように思われた。彼らは社会の犯罪者として成長していくかのような恐怖を招いたため、若者の好ましからぬ素行は脅威と受け止められた。若者の社会からの逸脱を前提とした論文が数多く書かれ、米国における似た内容の研究の指針となった。この時代の社会的見解を代表するのがマイケル・ケニーの長論文「1970年代のミクロネシアの若者」だ。

ケニーは研究論文のなかで若者が非行に走る理由として、伝統的な家族の崩壊、若者向け組織活動の欠如、社会的抑制の消滅、の3つを挙げている。なかでも特に注目しているのは2番目の理由で、若者向けの雇用の欠如を問題視している。ケニーは多数の人々へのヒアリングにもとづいて、若者が落ち着かず問題を起こすのは、若者たちが退屈しているからだ、と指摘している。要するに若者にはすることがないのだ。若者たちにバスケットボールのコートやスポーツリーグ、特に収入が得られる手段を与え、事態がどのように改善するかを注視すべきだ。ケニーの論文は3部構成になっているが、最大の章では何ページにもわたって表を使い、若者のための雇用チャンスを創出するにはどうすべきかを論じている。ケニーは従来のアノミー(社会的基準や価値が見失われたり混乱している状態)の定義にもとづいて、若者は経済的目標を達成する合法的なチャンスを奪われれば、他の手段に訴える、と指摘している。

ケニーは若者が非行に走るもう一つの大きな理由として「家族の崩壊」を挙げているが、この表現は家族内のさまざまな問題を表現するために使われる汎用句であり、具体的にどのような状態を指しているのかをこの表現から読み取ることは難しい。一般的に言って、「家族の崩壊」とは、両親が仕事で忙しすぎるため、あるいは子供の数が多すぎるため、あるいはその両方の理由で、両親が子供たちに適切な指導やしつけができない状態を指すようだ。だが「崩壊」とは離婚率の上昇や崩壊家族の数を指す場合もあるようだ。だがどちらにしても言及の対象となっているのは核家族であり、近代化の波に晒されている大家族ではない。ケニーや他の識者たちは、大家族制がミクロネシアの社会組織の核となっていたことは理解しなかった。彼らはミクロネシアの若者の問題を探り、分析するモデルやツールとして、米国の若者問題を探る時に使ったであろうモデルやツールを使った。

ケニーに情報を提供した多くの人々が「文化の不一致」に注目するよう述べた。急激な近代化が若者の行動に大きな影響を与えていることに疑いを持つ人はいなかった。昔の社会とは対照的に、若者と成人との間の亀裂が拡大し、若者と成人とが全く異なる世界を持つようになった事実を指摘する人が少なくなかった。若者たちは外国の制度に従って教育を受け、家族の支配の外で人々と触れ合うチャンスが増えた。このような理由から、若者たちは大人たちが重視してきた価値観を重視しなくなった。世代間に価値観の相違が見られるようになった。

地域の施策を担当する人々も、70年代の後半に米連邦政府から若者正義法にもとづいて資金を要請するに当たり、同じ仮説を立てている。この時には若者の非行という場合の若者の定義のなかに30才までの社会人が含められたが、誰もが、若者の非行が「深刻な問題」あるいは「非常に深刻な問題」であると指摘している。ケニーは若者の非行の原因として人々が指摘した内容を論文のなかで詳細に引用している。彼は若者の非行を抑える対策として次のような提案を行っている。まず、全ての島での若者向けサービスの質を高め「若者が昔のように町をうろつかなくなるようにする」。そして2番目に、司法制度を改め、若者の犯罪者により適切な対応がとれるようにする、である。

私たちの研究機関であるミクロネシア・セミナーが1977年に地域全体を対象とする若者に関する会議を行った時、若者問題の原因を探る調査が再び行われた。私たちは、人々は特定の社会的状況を創り出した社会的潮流そのものを理解しない限り、特定の社会的状況を改善することは出来ない、という見方をしていた。従ってまず何よりも先に、ミクロネシアの若者をめぐる社会文化的分析を行うことが必要だった。

会議はまず、アルコール中毒、仕事の欠如、学業不振、レクレーションのチャンスがないことから起こる退屈、世代間のコミュニケーションギャップ、家族の崩壊など、若者問題に関するいつものような説明から始まった。そしてこの説明をもとにさらに深い分析へと進んだ。参加者に対して、このような「原因」は過去にも見られたにもかかわらず、なぜ今になってこれほど深刻な影響を与えるのだと思うか、との質問が出された。次に参加者たちに対して社会文化的変化のプロセスが紹介されたが、この部分が1週間にわたる会議のほとんどの割合を占めた。レン・メイソンの指導のもとで、参加者たちは従来の文化の働きについて検討し、社会的変化をもたらしている大きな潮流の見直しを行い、このような変化から生じた「触れ合いの文化」のイメージ画を描いた。

従来の文化のなかで若者が占めていた地位と、また変化を続ける現代の世界で若者が占めている地位の比較が行われた。若者の地位の不安定さを招いている要因として3つが挙げられた。まず若者が果たす役割が昔ほど明確に定義できなくなり、役割間の摩擦が昔と比べてはるかに多く見受けられること。2番目に若者が昔ほど高い評価や報酬を受けられなくなったこと。3番目に、昔なら社会的に認められない行為に対するチェック機能として働いた権威制度や社会的制約が崩壊したこと、だ。だがこの会議の重要性として指摘できるのは、この会議が若者をめぐる問題を文化的変化を背景に論じた最初の機会となったことだ。暫定的で実験的な試みではあったが、目前の問題に対する文化的変化の影響を明らかにする機会が持てた。問題を定義する言葉として、米国の社会学に従うのではなく、文化人類学的表現を使うアプローチが選ばれた。家族や若者や家族を取り巻く変化から若者を切り離しては、若者を理解できないことが繰り返し指摘された。

人類学者たちは、1977年の会議で「若者の問題」を適切な文化的背景のもとで論じさせるという重要な役割を果たしたが、その後、人類学者たちの指導のもとで、若者の非行に関する調査や分析が行われるようになった。ファイスでの調査を終えたばかりの人類学者、ドン・ルビンスタイン博士が、若者の非行の社会的側面を調査するプロジェクトの責任者に選ばれた。

ルビンスタイン博士は調査報告書のなかで、それまでミクロネシアの若者の非行に関する話し合いが行われた時にはほとんどと言えるほど論議の基盤となってきた「非行になりやすい性格」や「非行に走りやすい仕事」という漠然とした仮説に真っ向から疑問を投げている。同博士は、調査の対象となった若者のなかに決まったパターンが見られることを裏付ける証拠はないと述べ、「若者の非行はミクロネシアでは広まっていないし、深刻な問題ともなっていない」と結論づけた。暴力は意図して行われてはおらず、レクレーション活動中に偶然に暴力に発展している場合がほとんどである、と同博士は主張した。同博士はまた、非行に走った若者もやがて結婚し、落ち着いて、コミュニティの責任あるメンバーとなる、と記している。彼は「ミクロネシアの若者の非行は成長の1段階と見るべきであり、まじめな仕事からの逸脱の始まりと見るべきではない」と結んでいる。

ルビンスタイン博士は、ミクロネシアの若者の間で混乱を招いている3つの社会問題として、教育、社会の流動性、家族の変化、を挙げている。社交機能の大きな割合を占める学校は、若者を地元コミュニティから疎外させている。村々や島々の間の流動性の拡大も小さなコミュニティの社会秩序の維持という通常のプロセスに悪影響を与えている。同博士は、それまで行われた調査の報告書のなかで何度も指摘されてきた、親の役割の放棄あるいは親としての怠慢に触れ、親としての役割の放棄は離婚や核家族制度が原因というより、大家族制度の崩壊や子供に対する責任が一人一人の親の肩に移ったことが理由である、と指摘している。同博士は、複数の親が存在する家族制度や両親が揃った家族の消滅に言及しているが、この点は、その後に行われた調査でも繰り返し指摘された。

人類学者や、人類学的手法を採る人々は、それまでのほぼ10年間にわたって一般的に言われてきた暗い予想を一蹴した。警察の詳細な調査の結果、逮捕者のほとんどは20才以下の若者たちであり、しかも軽罪で逮捕された若者たちがほとんどであることが分かった。当時一般的に言われていたこととは反対に、1975年にザビエル高校の3年生が行った調査では、逮捕者に占める高校中退者の割合は特別大きくはなかった。従って、高等教育を受けるために進学しなかった若者たちが必ずしも非行に走ったわけではない。また非行に走った若者たちが必ずしも重罪人になったわけでもない。暴力事件を起こしたり、あるいは殺人さえ犯した若者たちは、過去は過去として乗り越え、成人して社会の一員として尊敬される人生を送った。

ルビンスタイン博士は、非行に走る若者は昔ながらの社会的抑制が崩壊しはじめた中心部や大コミュニティに多いことを発見した。コミュニティの規模が小さく、まとまっているほど、非行に走る若者は少なかった。昔ながらの社会的抑制が部分的に崩壊しても、文化的力が働き、ミクロネシアの若者たちがいっせい非行に走るのをくい止める役割を果たした。若者の非行がコミュニティにとって問題であることに変わりはないが、かつてのように脅威とは見られなくなった。

アルコール中毒

ミクロネシアでは1960年になってようやく飲酒が合法的に認められたが、以来、若者による暴力はアルコール飲料の消費が理由だと言われてきた。18才未満の若者による犯罪のほとんどと、18才以上の成人による犯罪の過半数が、多かれ少なかれ何らかのかたちでアルコール飲料と関連していた。ミクロネシアの若者に反社会的行動を採らせている主な理由の一つがアルコール中毒であることは明らかだった。そこで、ミクロネシアの若者のアルコール中毒という、新たなテーマの調査が必要になった。

まず1973年、フランシス・マホニーがミクロネシアにおけるアルコール消費に関する調査を行った。人類学者であり、パラオの人々のパーソナリティをテーマとする博士論文を書き上げた経験を持つマホニーは、酔っぱらいの行動パターンそのものを研究の対象にするのではなく、「若者のアルコール中毒に対する一連の意識」をテーマとする調査を行った。マホニーはミクロネシアの文化に関する自分の知識をもとに、ミクロネシアの若者は昔から30才になる頃まで長い「遊びの期間」を与えられてきた、と述べた。ミクロネシアの若者はこの歳になるまで「見習い的存在」と見なされ「家庭でもコミュニティでも意志決定という責任」は与えられていなかった。マホニーは、昔、この歳の男子は「若い兵士」だった、と記している。したがってミクロネシアの人々の定義では、「若者」とは20代から30代前半までを指す。マホニーは、飲酒パーティとは遠隔の島々に住む男たちの音楽サークルのようなものだ、と述べている。男たちは夜、くつろいで集まることで、グループの社会的結束を壊すのではなく、強化したのだ。色っぽい話をし、踊り、歌ったりしたが、暴力は行使しなかったし、他人を傷つけるような言葉は使わなかった。この点で、遠隔の島々に住む男たちの飲酒パーティは、町の男たちの飲酒パーティとは趣を異にしていた。

マホニーはミクロネシアの人々へのヒアリング調査によって集めた情報のみをもとに、アルコール中毒を招く社会的理由をいくつか挙げている。彼が若者が飲酒に走る理由として挙げたもののなかには、法の甘さや非効果的な裁判制度などもあるが、このような理由は若者の行動を規制するはずのメカニズムが正しく機能していないことを示している。だがなかには文化的側面から判断して、非常に鋭い理由もある。例えば、若者が酒を飲むのは、飲めば女の子といちゃついたりダンスができるなど「露出狂としての性格を見せる」ことができたり、「反社会的行動を採る言い訳が得られる」からだ、というのだ。つまり、若者は酔っぱらうことによって文化的規制から逃げることができた、とマホニーは指摘している。

特にヤップ、パラオ、チュークではアルコール消費量と暴力犯罪発生率が高く、マホニーはこの2つの間にある関係を探ろうと試みた。彼は、ヤップ、パラオ、チュークは「欧米世界と文化変容型接触を持ってきた、ミクロネシアのなかでも最後の地域」だと述べている。彼は、時間が経てば、ミクロネシアの他の島々同様、ヤップ、パラオ、チュークでも酒はたしなむもの、という考え方が広まろう、と述べている。

人類学者のマック・マーシャルは、チュークの若者の飲酒に関する研究論文を書くに当たり、チュークのアルコール中毒についてさらに詳しい調査を行った。彼は1979年に発行した著作「週末の戦士」のなかで、外の世界との接触が密になる前と後の基本的行動に連続性があることを実証しようと試みた。彼は、酔っぱらって喧嘩をするのは昔で言えば戦うことと同じであり、時代が変わって若者は戦う代わりに酔って喧嘩をするようになったのだ、と主張した。この仮説を受け入れるか入れないかは別にして、マーシャルの本は、アルコール中毒という問題に対して全く新しい、すがすがしい展望をもたらした。

当時発表された出版物のなかで、研究者たちはアルコール依存を激しく批判したが、アルコールがなぜ若者の生活のなかで非常に大きな部分を占めているのか、その理由に関する洞察力ある見方を展開した研究者はほとんどいなかった。マーシャルは、アルコールがチュークの人々(ひいてはミクロネシアの他の島々の人々)にとってどのような機能を果たしているのか、という重要な疑問を取り上げ、回答を試みた。アルコールがもたらす主な機能の一つとして、飲酒が人々の文化的定義を変えることが挙げられる。人は酒を飲むと別のカテゴリーに入り、必ずしも自分の行動全てに責任を持たなくなる。酒を飲むということは、「文化的休みをとる」ことを宣言することと同じなのだ。だがマーシャルは、酔っぱらいとなって文化的休みをとったとしても、それはそれなりに限界がある、と述べている。酔っぱらいが採る行動もあらかじめ決められており、酔っぱらいが取れる行動にも限界がある。彼は若者が酔っぱらった時に見せる行動についてかなり詳細に述べ、ほぼ型通り決まっているが、暴力に走るリスクが全くないわけではない、と述べている。マーシャルの本は、ある一つのミクロネシアの社会の文化的背景のなかで飲酒が何を意味しているかを示している。彼は若い男性が酒を飲む理由を理解しようと試みているだけでなく、彼らの行動や、彼らの行動の限界も探ろうとしている。

1981年、ミクロネシア・セミナーではこのような人類学者たちが書いた論文や出版物にもとづいて、若者の飲酒をテーマに3日間のワークショップを行った。このセミナーには、各島を代表する20人以上が出席した。我々はマホニーとマーシャルの指導に従って、ミクロネシア各島の若者の飲酒形態と理由を探ろうと試みた。このワークショップではアルコール依存を単なる「個人的な社会不適応の症状や社会不安」としてとらえ、アルコール依存という問題をいかに取り除けるかを考えるのではなく、アルコールを文化の一部、文化に組み込まれた一つの要素ととらえ、アルコール依存の意味やアルコール依存をめぐる状況などを理解することに照準を置いた。ワークショップでは、「アルコールは島社会でどのような役割を果たしているのか?」「アルコールはどのように利用され、どのような目的を果たしているのか?」などの質問が出た。このワークショップは、「もしミクロネシアの人々がアルコールの社会的役割をより明確に、健全な方向で理解できれば、若者のアルコール依存という問題を解決するために採るべき対策を決めることができよう」という前提に立って行われた。

ワークショップで確認できたり、取りまとめることができたのは、マホニーやマーシャルの初期の論文にすでに明記されている範囲にほぼ留まった。ワークショップの報告書によると、大半のミクロネシアの社会で飲酒が果たしている機能には3つある。まず、若者は酒を飲むと、自分の考えや感情、特に否定的な感情を自由に表現できるようになる。若者が酔っぱらっているから喧嘩をするのが事実だとすれば、喧嘩をするために酔っぱらう若者が多いことも事実である。2番目に、若者は酒を飲むことで注目を集められる。たとえ人々が酔っぱらっている若者に恐怖感を持つことによって注目するのだとしても、また、酔っぱらった若者が引き起こす破壊的行動が注目を集めるのだとしても、注目を集める機会の少ない若者は飲酒によって注目を集めることができる。3番目に、飲酒は日常からの逃避であり、スリルや危険を感じさせてくれる冒険である。ワークショップの短い報告書は全体を通して、若者の飲酒は、飲酒をめぐる状況や深酒をする若者の行動の双方に適応される社会的規範によって、表面的に感じられるよりはるかに強い抑制を受けている、と指摘している。

人類学的アプローチが採られたおかげで、アルコール中毒と若者の非行は、カウンターカルチャーの底にある行動ではなく、ミクロネシア文化を構成している主要要素のいくつかを反映したものであると思われるとの理解が広まり始めた。このような視点に立てば、アルコール依存と若者の非行はかつて考えられたほどの深刻な問題とは思えなくなる。

自殺

1970年代になると新たな社会問題が浮上した。若者の自殺だ。それまでは年間自殺者数はほんのわずかだったが、1970年代の初期になって増加しはじめ、1974年には年間20人を越えた。自殺者の大半が15才から30才までの男性だった。この年代では自殺が最大の死因となった。

自殺者のほとんどが、家族との衝突によって自殺に走ったとする記録が残っている。だが不可解なのは、自殺の引き金になったと言われる出来事が非常にささいな性格のものであることだ。父親から5ドルもらえなかったからとか、お腹を空かして帰宅したのに家に食事が用意してなかったからといった理由で若者が首を吊った。自殺者の自己イメージが弱かったことは認められるが、ミクロネシアの人々は、自分の能力で達成できることより、人生において最も重要な人々と好ましい人間関係を維持することによって自尊心を満足させてきた。ミクロネシアの人々は、仕事で失敗したからとか、退学になったからとか、失業したからといって自殺などしないことは分かっていた。家族との関係が不安定なことを苦にして自殺する若者が増えたとしたら、これはコミュニティ同様家族の絆が近年になって弱まったことが理由だろう。近代化という文化的変化は家族に犠牲を強いることになった。家族が果たしていた役割は他の組織に移り、若者への支援提供という家族がそれまで果たしていた役割は衰退してしまった。

ミクロネシアの自殺は米国や欧米諸国の自殺とは大きく異なる。自殺と結びつけて考えられることの多い臨床的抑鬱はミクロネシアでは見られない。ミクロネシアでは若者の自殺率が非常に高く、年長者の間では低いが、米国では年齢が上がるとともに自殺率が高くなる。ミクロネシアの自殺は、家族との間の特定の問題、あるいは家族のなかの特定のメンバーとの間の問題に対する反応として起こるようだ。欧米では自殺の原因と言われる実存に対する苦悩や漠然とした空しさが原因であることを裏付ける証拠はミクロネシアにはない。自殺者のなかで深く悩んでいたり、感情が乱れていたり、精神的にバランスを欠いていた人は非常に少なかった。従って、ミクロネシアにおける自殺率の急増を理解するうえで米国や欧州で書かれた自殺に関する研究論文や文献はほとんど役立たない。

ミクロネシアの人々のなかには、自殺に対する関心の高まりを快く思っていない人も少なくない。ミクロネシアが好ましくない理由で注目を集めていることや、ミクロネシアの社会は乱れており、多数の若者が生よりも死を選んでいるとする遠回しの批判に憤りを感じている人も多い。また自殺が大きな問題になっていることが納得しきれない人々もいる。近親相姦などで家族の名誉を傷つけた場合など、状況改善が不可能な場合には、自殺は許される、あるいは昔から使われてきた戦略だ、と指摘する人もいる。このような人々にとって、自殺は悩ましい問題なのではなく、家族のなかで発生した解決のつかない困難な問題に対する一つの解決策なのだ。では自殺は地域病なのだろうか、伝染病なのだろうか?若者の飲酒や非行のように伝統的価値観や慣習が続いていることを示す文化的反応だったのだろうか?それとも社会の欧米化に伴って生まれた新たな社会的問題だったのか?

ミクロネシアの全域で自殺者が急増したことから、当時イースト・ウェスト・センターのフェローだったドン・ルビンスタインは、自殺者の医生態学的調査を行った。一方、私は引き続き最近の自殺者に関する個々の情報の収集を行っていた。1980年にはカロリン諸島とマーシャル諸島における自殺者は年間40人に達した。自殺についてほかにどのようなことが言われていたにしろ、自殺率が驚くべき速さで急増していったのは疑う余地はなかった。1960年代初期にはミクロネシア全体で年間5人から10人ほどだった自殺者は、地域によっては10倍にも増えた。チュークやその他の地域の自殺発生頻度は世界でも最悪の水準に達し、特に16才から25才の男性の自殺率は10万人当たり200人を越えた。

ルビンスタインと私は調査を行うに当たり、民族誌学的アプローチを採用した。私たちは協力してワークショップを何度も行い、チュークの若者や若いリーダーたちの意識を探ることに努めた。あるワークショップで、参加者たちがチューク語のamwunumwunという表現を教えてくれたが、この言葉が自殺者の精神力学を説明する貴重な言葉であることが分かった。Amwunumwunとは、文化的に強い感情を直接的に出すことができない場合、その感情を表現する手段として自らを他の人々から引き離すことを指す。否定的な感情は、自己を孤立させることから他人と口を利くことを拒否すること、さらには自らの命を断つことまで、さまざまな自己卑下のかたちとなって現れる。問題に直面するより身を引くのが個人としての基本的戦略であり、このような戦略はミクロネシアやポリネシア全体を通して見られる。

アメリカ人の精神科医は自殺を「内攻的憤り」、つまり自殺者が憤りを自らに向ける結果起こる行動、と見なすことが多い。だがルビンスタインと私はチュークの人々の自殺に対する見方を少しずつ理解するにつれ、欧米の心理学的枠組みには重要な限界があることを理解するようになった。当初私たちは自殺は攻撃、家族に対する復讐と反抗を示す最終的な行為だと理解していた。だがチュークの自殺未遂者たちは彼らの自殺の試みに対する私たちのこのような解釈を純粋に意外に受け止め、復讐の意図など全くなかったと強く否定するのだった。そこで私たちは次第に、自殺は憤りを示す反応としての行為であることが多いが、この世では修復が難しいと思われる、長引く鬱のからむ愛情という要素を含むものであることを理解するようになった。この感情は、チュークでほぼ絶え間なくラジオから流れてくるラブソングの感傷的で自分を卑下する内容の歌詞に明確に反映されている。自殺者は悲しみ、心の傷、欲求不満などを劇的に表現しながら、苦しい状況から身を引くのだ。

1982年、ルビンスタインはナショナル・インスティチュート・オブ・メンタル・ヘルスから財政支援を受けて、チュークの自殺者に関するさらに詳細な情報を得るために、チュークの家族に関する民族誌的調査を3カ年の予定で開始した。事例研究の内容をさらに深めるために、彼は自殺者の友人や家族に二度も三度も会い、ヒアリングを行った。家族との間に長年にわたる摩擦があったことを裏付ける情報が得られるに伴い、最初は衝動的なものと思えた自殺が全く異なるものであることが次第に明らかになってきた。確かに家族とのちょっとしたもめ事が原因で自殺に走った人もいたが、このような例は当初予想されたよりはるかに少なかった。例えば、ある若者が自殺をした時、その若者は両親が彼のもとを去っていった妻を取り戻すために彼のために仲裁として2人の仲をとりなすことを拒否したことが理由で自殺に走ったと思われていた。だが新しい情報が集まるに伴い、実際には、彼と妻、彼の両親の間には長年にわたる問題があったため、両親が彼のために選んだ妻を彼が捨てたことが明らかになった。この若者は自殺した夜、自分の思い出にと、家族の憩いの棟の床のまだ濡れたセメントの上に自分の足跡と署名を残した。

1960年代後半からはじまった自殺の急増は何が原因なのだろうか?多くの人々はダークハイムの有名な理論に従って、ミクロネシアの急速な近代化で価値観が消滅してしまったからだ、と指摘した。だがルビンスタインはこのような見方に異議を唱え、自殺と都市化やアメリカ式ライフスタイルの急速な普及の間には直接の相関関係は全く見られないと主張するとともに、自殺は文化的変化が最も顕著な地域より都市の周辺地域で最も頻繁に見られることを実証した。伝統的なライフスタイルが残っている遠隔の島々や近代化が最も進んだ都市部では自殺率は相対的に低い。自殺は近代化への途上にある地域で最も頻繁に見られる現象だった。

また自殺と近代化の間に直接的な相関関係はないことを裏付ける理由がもう一つ挙げられる。自殺は摩擦が見られる特定の状況に対する文化的反応である。自殺は特定の種類の人間関係の乱れに対してミクロネシアの人々が選ぶ解決法である。ある人が自殺という手段を選んだという事実そのものが、伝統的な価値観が生きていることの証であり、従来の価値観に照らし合わせて正常な行動なのである。自殺者は伝統的な家族間の人間関係を重視しており、年長の親族に向かって否定的な感情を口に出すべきではないとする昔ながらのマナーを守っているわけであり、対立を回避するために身を引くという昔ながらの戦略に従っただけなのだ。自殺者がたとえ社会の欧米化をある程度経験していたとしても、彼らは死を選ぶことによってミクロネシア人としての基本的な価値観を持っていることを主張したのだ。

社会の急激な変化による漠然とした不安が自殺急増の原因ではないとしたら、ほかに具体的な原因があるのだろうか?ルビンスタインと私は、自殺が家族との問題や喧嘩が起こった時に発生していることから、自殺の急増は伝統的な家族構成の崩壊と関係があると確信した。一般の人々同様、私たちはミクロネシアの家族構成が急速な変化を見せていたのは感じていたが、変化の度合いには確信が持てなかった。世代間に深刻な緊張があることを示す証拠はあったものの、世代間の緊張はミクロネシア社会にいつの時代にも存在していたはずだった。ルビンスタインは、若者の教育や社交の場所として利用されてきた男の家やその類の組織が消滅して以来、若者の社交生活が大きな変化を遂げた、との仮説を立てた。私は、学校のような近代的な組織が出来たために若者の家族離れが進み、伝統的な大家族のなかに若者が以前ほどしっくりと溶け込めなくなったのではないか、と考えた。

ミクロネシアに長年にわたって居住してきた外国人は、自殺の急増は家族の無関心が原因だと考えていた。仕事が忙しい両親、あるいは他のことで頭が一杯の両親は、子供たちに十分な注意を払っていないのかもしれない、とも思われた。だがルビンスタインと私はヒアリングを行い、集めた文化に関するデータを分析した結果、全く逆の印象を持った。ミクロネシアでは従来から、両親と子供たちの間に「快適な距離」を保つことが認められていた。大家族制度のもとでは、両親以外の年長の親族が権限を行使し、若者の社交に責任を持った。最近の変化に伴って、このような家族のなかの責任が生物学的意味での両親に集中する傾向が見られ、親のような責任を果たす人が2人以上いる大家族制度が崩壊して、両親を中心とする家族が増えている。

ルビンスタインと私は自殺の急増の原因に関してそれぞれが立てた仮説の裏付けを始めた。私は、自殺の主因の一つは大家族制度の衰退にあると考えていた。昔ながらの大家族制度には親代わりになる親族が何人もおり、子供に支援を提供していた。子供が一人の「親」から厳しい扱いを受けた時には、子供たちは慰めてくれる別の親や必要な支援を提供してくれる別の親をすぐに見つけることができた。今日の核家族制度のもとでは、父親と母親の子供に対する責任が増しており、その結果、両親と子供たちの間の緊張が拡大している。私は現金経済の普及が血族を中心とする素朴な社会システムの崩壊の主因であると考えていた。仕事を持ち、現金収入を得られるようになって、代替収入源が生まれ、これが土地を中心とする経済・社会システムの衰退を招いたのだ。

ルビンスタインは部分的に私の説明に合意したが、彼は私の見方とはやや異なる、独自の見解を持っていた。彼は、血族や村を単位とする組織の崩壊による社交プロセスの崩壊を重視していた。急速な社会変容による政治や経済の変化、とりわけ通貨の普及は伝統的な大家族制度に構造変化をもたらした、という点ではルビンスタインは私と同意見である。だが私が近代社会で親が果たすべき役割の拡大にともなう親と子供たちの間の緊張の高まりが問題の発生源だと見ているのに対して、ルビンスタインは若者の社交にまつわる広義の問題点に注目した。彼の主張はこうだ。昔なら子供は大家族のなかで成長することによって社交の各段階を終了するごとに体験する緊張を緩和することができた。子供は成長するにともなって次第に親族の大きな輪のなかでの社交という経験に晒されていった。だが親族や村レベルの社会構造の崩壊にともなって、若者はかつて持っていたような文化的支援が失われ、このような社交プロセスを経験することが出来なくなってしまった。若者たちは、昔なら多数の親族に囲まれ、支援を受けていた年代に、父親と母親から食事と小遣いをもらうようになった。

ルビンスタインと私は、柱となる部分が異なるものの、本質的には非常に似た考え方をしているが、ルビンスタインの説明にも私の説明にも問題が残されている。どちらの説明でも、過去10年間にパラオやマーシャルで増えた「恋愛感情のもつれによる自殺」、つまり異性に対する嫉妬や配偶者や恋人への怒りが理由で起こる自殺の原因が、ルビンスタインの見解でも私の見解でも説明できないことだ。だがミクロネシアの自殺に関する研究は、社会研究のアプローチを進化させるうえで貢献した。それまでに社会学的、心理学的仮説にもとづいて行われていた研究では、自殺のような社会問題の原因は社会的変化から生じる混乱にあると考えられる傾向があった。自殺とは個人的な破滅であり、これは急速な近代化によって生じる社会的混乱や没価値状況(アノミー)によって起きる、というのがそれまでの仮説であった。したがって社会的問題の原因はすべてマクロ社会的変化にあると考えられた。マクロ社会的変化のなかにはどのような変化が含まれているのか、マクロ社会的変化が家族のような重要な社会的単位にどのような影響を与えてきたか、などをテーマとする研究はほとんどなされなかった。太平洋地域の社会的変化に関する多数の論文が書かれたが、どの論文も社会的変化を細分化することも、さらに深い研究への仲介としての役割を果たすこともなかった。だが社会的変化は進み、人々の生活に影響を及ぼしはじめた。ルビンスタインと私は、人類学的技法とコンセプトを駆使して、ミクロネシアの自殺に関する研究を行うに際し、単純な没価値状況説明を受け入れようとは思わなかった。我々の研究にも限界はあるが、我々は、個人の生活を直接左右する家族のような組織に対してマクロ社会的変化がどのような影響を与えたのかを詳細に把握することに努めた。

幼児虐待と配偶者虐待

1985年、当時はミクロネシア・セミナーをチュークで行っていたが、トラック・オフィス・オブ・コミュニティ・アクション(TOCA)の要請に応じて幼児虐待無視に関する仮調査を行った。また仮調査が完了して間もなく、ミクロネシア・セミナーではカロリン諸島とマーシャル諸島の幼児虐待・無視に関する大規模な調査を行うよう依頼を受けた。このような調査の実施が依頼されたのは、米国で幼児虐待に対する懸念の高まりが見られ、深刻だと思える問題に対する法的対策の強化の裏付けとなる調査が必要となったことが理由である。家庭における子供の権利と子供を親による虐待から守ることは、先進国で重要な課題となりつつあった。そこで幼児虐待という問題がミクロネシアでも見られるものと推察された。

広義の「子供虐待」に関する調査は、1985年1月にデニス・キーンがマーシャル諸島で家出した若い女性を対象に行ったものが最初である。人類学者だったキーンは、調査の対象としてマジュロで非常に注目を集めていた下位集団、つまりコーカン(トレーダー)と呼ばれていた、家出をした後、どこでも身を寄せられるところに住んでいた若い女性たちを選んだ。このような女性たちは年齢は15才から20代初め、アルコールを飲み、タバコを吸い、男と逃げ歩き、なかには売春をして金を稼いでいる者も少なくなかった。皆、他の地域からマジュロに出てきた女性たちばかりだった。学校を中退したものが多く、家族との緊張が高まった時には、親に髪の毛を切られたり、家から追い出されることがしばしばあった。キーンは、このような女性の淫らな性生活は家族への反抗と考えることもできる、と述べている。

ミクロネシア・セミナーではチュークのコミュニティを対象とした調査を行い、1年後には調査の対象をミクロネシア以外の地域にも拡大したが、ミクロネシアの家族に問題が見られることを裏付ける新しい証拠が発見された。ミクロネシアの育児やしつけの習慣を考慮に入れるために「子供虐待」や「子供無視」の定義を調整したが、それでも調査の結果、虐待がかなりの頻度で見られることが明らかになった。ある家庭では子供のなかの1人か2人だけを粗末に扱い、食事を与えなかったり、他の子供には与えるものを与えなかったりした。またある家族は子供をいじめ、小さなことで子供をののしり、子供が耐えられなくなって家出をし、他の親族や友人のもとに身を寄せるようになるまでいじめ続けた。ある父親は娘を生まれた時から好まず、何年もないがしろにしたあげく、ついに娘を家から追い出すことに決め、隣人に5ドルで売ってしまった。

また、ミクロネシアの比較的甘い基準に照らし合わせても子供に対する肉体的虐待だと判断できるケースもあった。ある家庭では伯母が姪の女の子が洗濯をしないからといって井戸に投げ込んだ。またある親は子供を木にくくりつけたり、木から吊り下げたりして子供を木の棒や金属の棒でなぐったと言われている。さらに、泥酔した父親が赤ん坊を自宅のセメントの床に放り投げたり、窓から外に投げた、という話も時折あった。また若い父親が酒を飲んだ後で妻や子供を叩くことも決して少なくはなく、妻はいやいやながらもじっと耐えるしかない場合も多い。このようなケースは全て、子供があまりにも頻繁にしかもひどく殴られたため、コミュニティの人々が虐待と判断した。

調査によって発覚した無視や虐待よりさらに懸念されるのは、家庭内で無視されたり虐待される子供たちの状況に一つのパターンが見られることである。好ましくない扱いを受ける対象は継子や里子に出された子供である場合が多い。再婚して連れ子をした女性は深刻な問題に直面する場合もある。連れ子にとって新しい父親となった男は自分の子供をあからさまに依怙贔屓し、自分の子供にチキンなどを与えても、継子には与えなかったりする。だが逆のケースも見られ、父親が再婚した妻に対する愛情を証明するために、自分の子供より継子を大切にする場合もある。パラオでは私生児が非常に多いが、若い母親が自分の子供の育児を自分の親に押しつける場合が多い。孫の育児という余計な負担を負わされた祖父母は憤りを感じ、孫をいじめ、2人で家を出ていく場合もある。その結果、孫が命を落とすことになっても、である。ヤップ島では父方の祖父が、島の習慣では祖父の義務と見られているにもかかわらず、男の子を家に引き取り、世話するのをいやがった。最終的にはいやいやながらも家に入れたものの、男の子をひどく殴り、男の子は耐えきれずに逃げ出し、他の家に身を寄せた。

このような調査から分かることは、伝統的なミクロネシアの家庭にあった子供を守る「安全ネット」に大きな穴が開いた、ということだ。昔なら、片親が死亡したり、あるいは両親が離婚したりして、親が再婚したとしても、子供は大家族制度のなかで安心して暮らせたため、不安や懸念はほとんどなかった。同様に、一族が里子を受け入れたり、一族外から養子を受け入れたりすることは一般的におこなわれており、子供にとってほとんど問題にはならなかった。だがこれが今になって問題となっているのは、大家族制度の崩壊が進み、核家族が増えていることを物語っているものと思われる。

また今回のコミュニティを対象とした調査から、ミクロネシアの社会では近親相姦が厳しく禁止されているにもかかわらず、性的虐待が非常に多いことも明らかになった。未発表の報告書によると、パラオの性的虐待発生率はグアムと同じほど高い。ミクロネシアの他の島に関しては調査方法的に問題があることから断定はできないが、不完全なデータから判断して性的虐待発生率はかなり高いものと思われる。父親、継父、伯父などが性的関係を強いる場合が多く、女の子が家出をするか結婚するまで数年間にわたって続くケースも見られる。マーシャル諸島で最近行われた子供への虐待に関する調査によると、エベエ島で3年間を越える性的虐待が7件報告され、その全てが7才以下の子供を相手にしたものだった。父親と娘の間に適当な距離を置くための制約の多くが近年になって機能しなくなった。これが性的虐待の増加の理由かどうかはまだ定かではない。

2人の人類学者、カレン・ネロとラリー・カルーシは最近、家庭内暴力に関する調査を行った。ネロはパラオ島で見られる妻への暴力をテーマとする論文のなかで、パラオ島で核家族が増えていることが、妻への暴力が増え、暴力の程度が強まっていると思われることの理由の一つかもしれない、と述べている。大家族から核家族が物理的に切り離されたことによって夫婦が以前より2人だけでいる時間が増え、その結果、以前なら家庭内暴力を仲裁した老人の存在がなくなったのだ。チュークで配偶者虐待が見られるのも同じ理由だと思われる。以前なら妻の親族が妻があまり殴られないよう守る役割を果たすものと期待されていたが、今では妻の親族は若夫婦が解決すべきと思われる家庭内の問題に干渉するのを避けるようになっている。本章で論議した他の多くの問題同様、妻を虐待するケースが増えているのは家庭の構造や機能が変化していることに大きな理由があるものと思われる。

社会問題に関する調査は今後も、今日のミクロネシアの生活の新しい側面に関するものへと調査対象が拡大していくだろう。家庭に見られる変化が近年になって発生してきた社会問題の重要な要因であることを裏付ける証拠が山積していることから判断して、ミクロネシアの家族の変化に関する本格的な調査がもっとかなり早い段階で行われてしかるべきだったと思われる。ミクロネシア・セミナーでは6年前、ドイツのミゼレールから財政支援を受けて、ポンペイとチュークの家族の変化に関する調査を行った。この調査は地元社会に詳しい人にヒアリングを行い、1950年と現在の家族構成などに見られる相違点を中心に調べた。この調査は大成功と呼べるものではなかったが、それでもポナペとチュークの家族の変化に関する調査報告書が何冊かまとまった。この時の調査のテーマとなったのは財政源、食糧の配給、家庭内労働、育児、養子縁組である。

ミクロネシアに関して新たな調査が必要だと思われる分野は、男女間に見られる相違だ。ミクロネシアの男性と女性はそれぞれに毎日、種類も程度も異なるストレスに晒されているように見えるとともに、ストレスに対する対処の仕方も男性と女性では大きく異なる。すでに申し上げた通り、ミクロネシアの若い男性はストレスを酔っぱらうことで発散させることで悪評を得ており、なかにはストレスのあまり自殺に走る若者も少なくない。女性には文化的にこのようなストレスの発散方法が認められていないが、それでも女性ならではのストレス発散方法が1つか2つある。なかでも最も有名なのは「魔がつく」ことだ。これは死んだ親族の魂が女性に乗り移り、女性がその魂の声を通して語るという行為を指す。この女性は何を言っても自分が言っているのではなく、死んだ魂が語っていると解釈されるため、彼女は彼女の「病い」の原因となっている家庭内の問題に関する自分の感情を自由に述べることができる。チュークでのこのような慣習を分析した本が最近出版されたが、他の島で行われているこのような慣習に関する調査が現在進められており、報告書や論文が近いうちにまとまろう。

トーマス・グラッドウィンをはじめとするCIMA人類学者のなかには数年前から、ミクロネシアでは女性より男性の方がより多くのストレスに晒されているのではないかとする疑問を呈示する人がいた。グラッドウィンのチュークのライフサイクルに関する民族誌学的研究や、サラソンのチュークの人々に関する心理学的研究から判断すると、男性の方が女性より多くの社会的プレッシャーに耐えており、また女性より受けるサポートが少ない。最近、ミクロネシアでは深刻な精神病に関する医生態学的調査が行われ、その結果、深刻な精神病に関する限り男性の罹病率が女性の罹病率の3-4倍に達していることが分かり、上記の疑問が再び浮上した。この調査の結果報告書のなかでは、精神病の罹病率が男女間でなぜこれほど差があるのかに関する説明はされていないが、原因と想定される項目がいくつか挙げられている。例えば、男性の方がドラッグに依存する率が高いことや、社会環境が女性に優しく、男性に厳しいこと、などだ。

結論

70年代後半になってはじめて、調査員や研究員たちは10年間以上にわたる急激な近代化にともなって明確に現れてきた社会問題に関心を払うようになった。これを受けて、70年代後半以降、米国の人類学が、ミクロネシアの社会問題に関する調査が行われる際に中心的役割を果たすようになった。米国の人類学の影響が拡大するにともなって、それまでミクロネシア社会の分析に使われてきた米国や欧州の社会学をもとにした社会モデルは不適切として無視されるようになった。人類学者や人類学的考え方をする人々は、調査のテーマである問題に対して文化的アプローチを採り、人々の行動を地元文化を背景にその意味や価値を判断するようになった。その結果、非行や飲酒、自殺、子供や配偶者の虐待に関する調査を見ればわかる通り、このような社会問題に対する理解が深まった。将来は、ミクロネシアの他の社会問題に対してもやはり人類学的手法が採られることは確実であり、本調査に対する人類学者の関与も深まろう。

最後になったが、本調査から相反する内容の教訓を引き出すことができる。人類学的視点に立った社会問題に関する調査は、過去20年間以上にわたって、ミクロネシア社会が変化するなかで行われてきたが、それにもかかわらず、この調査によって、ミクロネシアの文化に安定と継続が見られることが明らかになった。ミクロネシアの近代化に伴って見られる付帯現象は最近懸念を招いており、ミクロネシア文化が全面的に崩壊するのを予兆しているかのように見える。だが、我々が社会問題を個々に分析した結果、基本的な文化構造や価値観が根強く残っていることが明らかになった。若者の間に見られる飲酒は社会的規範の放棄ではなく、抑制を求める社会で自己表現の経路を見つけようとする若者が採る管理された戦略である。若者の非行を詳細に調査すると、非行は自由な精神を持つ若者の社交プロセスの最終的な勝利であることが分かる。どんなに扱いが難しい若者でも、大人になる頃には例外なく自分が属すべきグループや組織に戻る。幼児虐待は好ましくない結果を招いているが、ミクロネシア社会では愛情を図る一つの目安として依然として食糧や物資が重要な役割を果たしていることを明確に物語っている。社会問題のなかでも最も破壊的と思われる自殺でさえ、伝統的文化が根強く残っていることを示すものだ。今日の自殺は、自殺者が伝統的な価値観(家族の絆を尊び、年長者を敬う)を持っていることを示す自己主張であり、身を引くとともに自分を卑下し、自分のなかにある痛みを伴う感情を誇示するという、長年にわたってミクロネシアの人々が採ってきた戦略が依然として重要性をもっていることを裏付けている。

本論文のテーマとなった問題をもたらした社会の構造変化、特に大家族制度の変化は、今後さらなる問題を生んでいくだろう。だが新しい問題が生まれたとしても、人々が文化的背景を考慮したうえで問題を明確に把握し、近い将来に社会が崩壊することを示す兆しだと解釈しなければ、これまでに見られた問題ほどには不安を招くことはないだろう。この意味でも、ミクロネシアの社会問題に関する調査はこれを境に大きく変わったのである。

1995年3月

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