日本での同級生との再会

于展
その于展は日本の近代教育史を研究したいと、東京大学大学院に留学し、通訳や翻訳のアルバイトをしながら勉学に励んだ。1989年5月には、日本船舶振興会(現日本財団)の姉妹団体である「日本吟剣詩舞振興会」が北京、西安で開催した公演に、通訳として随行したこともある。約100人という代表団を北京で待ち受けていたのは、民主化を求め激しさを増す学生運動と、戒厳令であった。公共交通機関は麻痺し、学生たちがバリケードを築いていた。天安門事件のいわば「前夜」ともいえる様相を呈していたのだ。
「代表団が大型バスに乗り、宿泊していた釣魚台迎賓館から天安門広場に近い公演会場に向かっているとき、学生に『どこへ行くのですか』『乗せてください』と止められた。代表団に何かあるといけないので、私は『学生万歳』という中国語を皆さんに教え、声をかけたり拍手したりしたら道を開けてくれた。運転手も学生に同情していて、バスに乗せてあげた。当時は社会が大きな悩みというか、病気を抱えていたんです」
この年の12月、笹川平和財団は特別基金として、「笹川日中友好基金」を設立した。ほぼ時を同じくして、于展に現日本財団理事長の尾形武寿から電話が入る。修士課程の1年目が終わったところだった。
「笹川平和財団に日中友好基金をつくりました。これは日中間で最大の交流基金です。于展君、一緒に働いてみませんか。週に2、3回来てくれればいいです」
修士課程を修了し博士課程へ進んだ後の1995年10月、笹川平和財団の職員になった。「ごく自然なことで、それまでも半分職員になっていたようなものでしたから。何より、中国に特化した仕事ができる」
市長訪日交流、中国農村リーダー育成、中小企業セミナー…。于展は笹川日中友好基金による数多くの事業を手がけた。佐官級交流もそのひとつである。
佐官級交流は2001年に始まり、同年4月、中国人民解放軍の代表団19人が初めて訪日した。10カ月後の2002年2月には、自衛隊の代表団が訪中した。于展によると「人民解放軍では兵役に服している間、海外旅行は禁止で、個人旅券でも海外には出られない。ましてや外国の防衛・国防関係者と交流したり、基地を訪問したりすることは、佐官級交流以外にはまずありえない」という。
胡一平は2003年の3回目から、この事業を担当している。主任研究員だった于展が、いったん休職する形で米コロンビア大学に留学する少し前の同年6月、笹川平和財団の職員となった。于展が留学するうえで、条件がひとつだけあった。それは彼の後釜を据えるということだった。そこで于展は胡一平に声をかけたのだった。
「私もそれまで10年以上、ずっとフリーランスでやっていたから、職員になることに最初は不安がありましたけれども、来て仕事をしてみたら、やりがいがあるなと思いました。通訳はただ単に、相手が言っていることを伝えるだけで、自分の意思も何もない。財団の仕事は自分で開拓し、計画を立てる。日中友好基金なので、日中関係の事業で同行したり、いろいろ企画したりするところもいいなと感じた」
于展が留学を終え財団に戻ったのは、2007年のことである。それまでの約3年間、胡一平は于展が渡米した後の空白を埋めた。同級生2人は今も健在である。