調整のプロセス
これまでに23回の相互訪問が実施され、計371人が参加している佐官級交流では、数多くの要人に対する表敬訪問や、基地をはじめとする防衛・国防関連施設への視察が重ねられてきた。例えば、人民解放軍の代表団は元首相の中曽根康弘と橋本龍太郎、現職の防衛相、統合幕僚長などを、一方、自衛隊の代表団は国家副主席や中央軍事委員会副主席、国防部長、副総参謀長などである。
人民解放軍には陸上自衛隊の各方面総監部や、驚くことに富士総合火力演習、海上自衛隊の観艦式などが公開され、自衛隊側は陸上部隊の歩兵旅団や装甲師団、海軍の青島、上海、湛江の3基地、空軍では航空管制センターなど、実にさまざまな基地に足を踏み入れている。日本と中国の歴史と文化に触れる日程が、プログラムに組み込まれていることも特徴だ。

2009年、人民解放軍代表団が視察した際の富士総合火力演習
「私が入った3回目の交流の頃は、もう軌道に乗っていました。中国からは20人の佐官級を招聘し、日本からは半分の10人を連れていく。日程は2週間から10日間くらいで、中国から来るのは8月か10月。夏の富士火力演習に合わせるか、秋の観閲式に合わせるかだった。向こうに自衛隊が行く時期は、その年ごとに相談して決めた。中国は国防部外事弁公室が、日本へ行くメンバーの人選を担当して、自衛隊が行くときの人民解放軍部隊への手配は、『中国国際戦略学会』がやっていた。その年その年で少しずつ中身を変えました。中国を訪問するときには国防部長や、中央軍事委員会副主席との会見をセットし、日本に来たら必ず防衛大臣と会うようにする。あとは陸・海・空部隊を見るのが基本ですけれども、中国と日本の社会を理解するために企業や農村を見たり、学校の学生たちと交流したり、そういう面も考慮しました。政府間の交流では絶対に入らない内容がたくさんある」
手の内を明かさず、機密を保持することは軍事の鉄則である。そうした中で、日中双方ともに、公開できるギリギリの線を探り、そのレベルをできる限り引き上げていくことが、胡一平らにとって最も重要であり、かつ難しい調整作業だといえよう。それはどのようなプロセスなのだろうか。
「どこを見せるかは相互主義です。中国はよく(対外的な公開用の)『展示部隊』も見せるんですが、どちらかが一歩前へ進めないといけない。海軍と海上自衛隊が一番肝心です。というのも大湊、横須賀、呉、佐世保、舞鶴と基地が限られていますから。例えば、中国側が『今まで訪れたことがない舞鶴や大湊に、ぜひ行きたい。それに合わせて陸上部隊の基地、部隊も見たい』と求め、自衛隊側がよく応えたとします。そうすると、今度は自衛隊が中国へ行くときに、『日本はここまでやったのだから、今年は北海艦隊、来年は東海艦隊、その次は南海艦隊を視察したい』と要求する。空軍と航空自衛隊についても、例えば『日本は戦闘機を見せてくれたから、次は中国もしっかり対応してくれないといけないですよ』と話す。そうやって一歩一歩進めてきました」
胡一平に「要求は何割ぐらい実現しているのか」と尋ねると、「日本側はけっこう高いと思います。中国側は少し難しい面もありますが、まあ7割以上じゃないですか」という答えが返ってきた。
佐官級交流を継続、進化させるうえで、日中双方との緊密な人間関係の構築が重要であることは、言うまでもない。国防部外事弁公室や、防衛省の関係者などとの人脈を普段から築いていった。
「私と于展さんは中国人だから、中国人が間に入ってやっている強さというのがあり、それがないとできないとは思います。中国の関係者とは本音で話すことができるし、私は怒るときには、けっこう怒っていますし」
佐官級交流における笹川平和財団のカウンターパートといえる中国国際戦略学会の面々は、胡一平を「お姉さん」と呼んで慕う。
実は、日中双方に潜水艦の視察受け入れを求め、実現する一歩手前までいった。だが、ある出来事によって頓挫する。その出来事とは、2010年9月に尖閣諸島沖で起こった中国漁船衝突事件であり、潜水艦の視察どころか、佐官級交流そのものが中止されてしまったのである。