続く〝テロとの戦い〟
息の長い取り組み必要な「脱過激主義プログラム」
今から17年以上前の2002年10月12日、インドネシアのバリ島で起こった、イスラム系テロ組織ジェマ・イスラミア(JI)による大規模な爆弾テロは、日本人観光客2人を含む202人の命を奪い、世界を震撼させた。それから10年が経過した2012年10月のある夜、テロで炸裂した自動車爆弾の製造に関与した、JIのとあるメンバーに接触したことがある。
ジャワ島中部ソロ。その男H(当時34歳)は、バイクでやってきた。白いペチ(イスラム教徒の帽子)、アゴから垂れるヤギのような髭。目元はクマで黒ずみ、警戒心を漂わせながら、薄暗いレストランの片隅で暗く沈んだ瞳をこちらに向けた。
「あの爆弾は仲間と作った。(JIには)爆弾の製造要員が50人以上いた。自分はドクター・アザハリから製造方法を学んだ」
アザハリとは、警察との銃撃戦の末に2005年11月、自爆死した爆弾製造の専門家である。Hはアンボン、ポソ、ソロ、ジャカルタとアジトを転々としながら、塩素酸カリウムや硫黄などを原料に爆弾を製造した。ライトバンの三菱L300に搭載された爆弾が、バリ島南部の繁華街クタで炸裂した時、ソロに身を隠していた。「成功したと知り、幸せな気分だった」と、臆面もなく言い放つHからは、改悛の情はまるで窺い知れなかった。
JIに入ったのは、リクルートされたのではなく自ら門を叩いた。「この国に、(世俗国家ではない)シャーリア(イスラム法)に基づくイスラム国家を建設したかった」からだという。テロ後、Hは逮捕され、禁固6年の実刑判決を受け服役し出所後、JIにまた舞い戻ったのだった。レストランを立ち去ったHのその後の動向は、知る由もない。
この頃、ジャカルタにある国家テロ対策庁は、「脱過激主義プログラム」の草案を策定したばかりだった。アンシャド・ムバイ長官(当時)の執務室には、壁一面に長い模造紙が張られ、JIの組織図が主要なメンバーの氏名、顔写真とともに描かれていた。ムバイ氏が力説したのは「テロ対策として何より重要なことは、この国に台頭している過激主義を押さえ込むことだ。テロを美化する過激主義とテロリストの主張に対抗し、過激思想はイスラムの教えではなく間違った解釈だということを、プログラムを通じて広く社会に浸透させたい」ということであった。「対テロ戦は終わりが見えない。テロを撲滅する方法?それはテロリストの要求を呑むことだよ」と、別れ際にムバイ氏が、対テロ戦の難しさを自嘲気味に表現した言葉が思い出される。
一方、ソロにあり、JIの創設者の1人で「精神的指導者」と仰がれるアブ・バカル・バシルが、1972年に創設したイスラム寄宿学校「アル・ムクミン」の構内には、所々に標語が掲げられ、「ジハード」(聖戦)の文字も目についた。この寄宿学校から巣立ったテロリストは少なくない。ベンチに座り談笑していた子供たちのあどけない顔からは、この子たちの何人かが将来、テロリストになるかもしれないなどということは想像もできなかった。
過激思想の放棄と社会復帰
やがてイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)が台頭し、猛威を振るうと、国際社会に散らばるイスラム過激組織の多くがISへの忠誠を誓い、あるいは過激主義・思想の影響を受けたローンウルフ(一匹狼)たちがシリアやイラクを目指した。インドネシアでは2015年、ISに忠誠を誓う20以上の組織の連合体である「ジャマー・アンシャルット・ダウラ」(JAD)が結成されている。また、女性と子供を含む1000人以上がシリア、イラク入りを試みた。しかし、その多くは、渡航の経由地となっていたトルコで拘束され、500人以上がインドネシアに送還されたという。
こうした状況を受け、インドネシアやパキスタン、サウジアラビア、フランスなどでは過激主義対策の重要な柱として、教育などを通じた過激化の未然防止、受刑者や中東からの帰還者に対する更生プログラムに取り組んでいる。これは、通信傍受や諜報ネットワーク・技術の向上など、監視体制の強化といったハード面の対策だけでは、テロと過激組織、過激主義・思想の根絶には繋がらないからにほかならない。
インドネシアではバリ島爆弾テロに関与したJIと、〝IS帰り〟の受刑者に対し「脱過激主義プログラム」を施し、過激思想などの放棄を促している。このプログラムの主眼の一つが更生であり、過激思想の放棄と社会復帰を組み合わせた形で実施されている。カウンセリングや宗教教育、職業訓練、家族の協力体制の構築などが主な内容である。インドネシア政府は 2016 年、ジャカルタ郊外のセントゥルにリハビリセンターを開設してもいる。
非政府組織(NGO)も、施策の重要な担い手だ。
特別視せず、「人間性」重視
笹川平和財団のアジア事業グループが1月16、17の両日に開催した「暴力的過激思想」に焦点を当てた講演会とシンポジウムでは、様々な角度からの論議がなされた。その中からほんの一部だけ、興味深い指摘を拾ってみると、まず貧困が過激主義・思想の温床であるという、従来からのステレオタイプ的な説に対する否定的な見方である。貧困ゆえにではなく、社会への閉塞感と不満を抱き、その打開を欲する中間層、高学歴者の一部が、過激主義・思想に傾斜し染まっていくというものだ。そうした閉塞感や不満の背景の一つとして、社会におけるネオリベラリズム(新自由主義)の風潮に対する反発があるという。
プログラムでは、イスラム教は本来、寛容なものだという基本的な観点から、「暴力的過激対策」(CVE)としてイスラム教穏健派に資金が投下され、宗教教育では穏健派の人々を講師に招いてのワークショップなどが開かれている。しかし、NGOである「サーチ・フォー・コモン・グラウンド」のムハンマド・ファイザル・アスリム氏は、「海に塩をまいているようなものだ」と、批判的な見解を示した。穏健派による講和などでは過激主義・思想の持ち主には響かず、更生を果たした元受刑者らの言葉にこそ、離脱を促す効果があるということだろう。
脱過激主義プログラムに携わる同氏はまた、テロリストを特別な存在として扱わず、人間性を重視したアプローチが必要であり、元受刑者が自分の子供をあやすことなどを、プログラムの中に取り入れていると紹介した。
ISが衰退したことにより、一時よりはテロの脅威が相対的に低下したと言えるだろう。だが、国際社会におけるテロの根絶には極めて程遠い。それどころか、多くの国では、それぞれ異なる事情を抱えながらの「テロとの戦い」が続いている。社会復帰を含む脱過激主義プログラムもその一環だが性質上、効果が表れるまでには時間を要する。過激主義・思想を決して放棄しない者も、数多いのかもしれない。テロの根絶は不可能だ、とサジを投げてはなるまい。試行錯誤を繰り返しながらの息の長い取り組みが、着実に実を結ぶことを期待したい。