文化大革命の時代
胡一平は1962年、北京で生まれ北京で育った。「両親の代は北京ではないので、『北京っ子』とはいえないね。3代にわたって北京に住んでいると、『老北京人』と言うんですけど」
物心がついたころ、中国は文化大革命の真っただ中にあった。文革は1962年9月の中国共産党第8期10中全会における毛沢東の、「絶対に階級と階級闘争を忘れてはならない」との指示から出発したとされる。1966年から約10年間にわたった文革の初期、「毛沢東思想」の申し子とも称された青少年集団の紅衛兵が、北京に集結し、赤い教典「毛沢東語録」を手に「四旧」(古い思想、文化、風俗、習慣)の打破を叫び街頭に進出し、文化財や書物を破壊したり暴力をふるったりして文革を推進し、中国社会を震撼させた。紅衛兵は「造反有理」(謀反には道理がある)と、口々に叫んだ。
胡一平の目に文革の時代はどう映ったのだろう。
「小学校に入る前にはもう、家の近くで大勢の人がデモをしていたり、トラックに乗ってビラを撒いたりしている光景を見ている。当時は、父親の勤め先の集合住宅に住んでいましたが、隣の家では、物が全部外に放り出され、住人も連れ出されて批判されていた。たぶん地主だった。私の文革の記憶というのは、そこから始まっているんです」
家ではもっぱら毛沢東語録を暗記させられた。
「父親が仕事を終えて帰ってきたら、『はい、そこに立って暗記しなさい』と。長い文章を暗記して、すごくいい記憶の訓練にはなったんですけど。半分は冗談ですが、今もまだ覚えているんですよ、毛沢東の文章を。まあ、こうしたことも、文革が家庭にまで浸透していたことのひとコマなんですが、そうした記憶から始まっている」
1969年に小学校に入学した幼い胡一平に、転機が訪れたのは3年生のときだった。北京外国語学院付属外国語学校に転校する。一般の学校は教育部(教育省)に所属しているが、外国語学校だけは外交部(外務省)の所属であった。外交部は通訳を育てるために、優秀な子供たちを選抜し外国語学校で学ばせていた。胡一平もそのひとりである。

北京外国語学院付属外国語学校時代の胡一平(前列右から3人目)と、于展(最後列左から4人目)
折しも、国連総会では1971年10月、中華人民共和国(中国)を唯一の正統な政府とし、中華民国(台湾)を追放するとした決議が採択された。これによって台湾は国連と国連機関から脱退し、代わって中国が安全保障理事会の常任理事国をも含む代表権を獲得した。こうしたことも、中国政府が語学のエリート教育を施し、通訳を育成しようとした背景にある。
「当時、中国はまだ鎖国状態のようなものでしたが、国連に『復帰』するという大きな出来事があり、中国もこれから世界の舞台に出るということで、外国語を使える人材を育てなければならなかった」
外国語学校には、推薦と試験、面接を経て毎年約130人の生徒が集められた。全部で4クラス、各クラス36人。1組は全員が英語、2組は18人がドイツ語、18人がロシア語。3組は日本語とスペイン語が半数ずつ。4組は全員がフランス語で、全部で6つの外国語が教え込まれた。
「小学校3年生の終わりごろにスカウトされ外国語学校には4年生から入った。どの外国語を学ぶかは、自分の意思ではなく学校が決め、『あなたは日本語』と言われたので、そのまま小学校、中学校、高校と日本語を勉強しました。外交部の通訳を育てるためにスカウトされたということは、はっきりしていた。将来、偉い人の後ろに座るような通訳になろうという夢を、もつようになったんです。毛沢東や周恩来が外国の人と会ったときに、後ろに必ず通訳がいて、私たちもそのように教育されました。新しいものを勉強するという好奇心もすごくあったし、とにかく勉強しようという決意があった。自分に向いてるなとも思いました」
胡一平は幸運だった。文革の中で、1966年から10年間にわたり中断されていた大学入学試験が、国家指導者の鄧小平の下で1977年に復活したからだ。
毛沢東は「上山下郷運動」(じょうさんかきょううんどう)として、都市部の青少年を強制的に地方の農村に送り込み、農作業に従事させた。この徴農制度である「下放」(かほう)は、農村での労働を課することにより①思想教育を施し、社会主義国家の建設に協力させる②都市と農村の格差を解消する③青少年が修正主義に向かうことを防止する④都市における失業問題を解決する―ことなどを狙ったものだった。下放の対象になったのは、10年間で1600万人にのぼったといわれる。下放は大学で学びたいという多くの若者たちの夢を打ち砕き、深刻な人材不足ももたらした。
「77年から大学受験が復活する前は、高校を卒業すると皆、農村へ行かなければならなかった。それが運よく終わり、第一希望の北京外国語学院(当時。現北京外国語大学)に入ることができた。もちろん日本語です」
大学に入ってから図書館へ行くことが好きだった。日本語の本がこんなにたくさんあるのか、と驚いては喜び、とにかく借りまくった。
「いろいろな本を読んでいくうちに、今までの授業は何だったんだろう、政治、経済の先生が言っていることはおかしいじゃないか、と思うようになったんです。例えば、政治、経済の授業で先生は、資本主義がいかに腐っているかということを話す。日本ではリンゴ1つがいくらで、これは中国の給料の半分くらいだから物価が高いという説明をする。そういうことを聞くと、みんなどうやって生活してるんだろうと、単純に思うじゃないですか。でも日本の本を読んでいると、リンゴ1個の値段は確かに高いかもしれないけれども、その分給料も高いし、全体的にいい生活をしている。自由もあり、生活を謳歌しているということが分かる。小説を読んでもそうだし。先生たちは極端なことを言って私たちを騙しているのではないか、今までの教育はおかしいと思うようになった」
松本清張の「点と線」といった推理小説などを借りてきては、一枚一枚ページをめくり文字を追った。
胡一平は「外国語学院付属外国語学校の時代は、文化大革命なので日本の本はほとんどなく、勉強したのは、毛沢東の文書をはじめ中国の文書を日本語に翻訳した教科書なんです。だからそれまで勉強した日本語は政治用語、文書用語、文語体ばかり。日本から中国に観光に来た人たちを、私たちが案内する社会勉強があり、本当の日本人に会って会話してみると、おばあちゃんでしたが『きれいですわね』と話す。私がしゃべる日本語は文語体で、これは話し言葉ではないと気付いてショックを受けました」と苦笑する。そこで会話にも磨きをかけた。九州あたりから流れてくるラジオ短波放送に、耳をそばだてた。
「大学を卒業する頃までには、日本という国がだんだん分かって、好きになり夢中になっていた」と言う。シンガーソングライターのさだまさしや、フォークグループのアリスが中国でコンサートを開くなど、日本の音楽も入ってきていた。