初の女性記者に

胡一平
胡一平は1984年、北京外国語学院日本語科を卒業した。この大学では当時、卒業後の仕事を自分で探すのではなく、学校側が学生の就職先を決め事実上、配属していた。「あなたは外交部、あなたは新華社通信と完全に先生が決め、逆らえない。人数の枠も決まっている」
国営ラジオ局の北京放送(現在の中国国際放送局=CRI)に、放送記者として入りたいと思った。
「どうしても放送局へ行きたかった。大学を卒業する頃には、通訳になるより、記者になりたいという希望が出てきた。記者になると、いろいろな日本人に会え、取材して放送したかった」
だが、北京放送の採用枠は男性1人のみ。他の採用枠も男性ばかりで、胡一平は「女性はどうすればいいんですか」と、大学側に噛みつき推薦状を書いてもらった。女性なので、どのみち採用は無理だろうから、面接では言いたい放題言おう―。そう心に決めていた。
胡一平 「北京放送は何で男性しか採らないんですか。その理由を知りたいのですが」
人事担当者 「取材記者は重い機材を持っていかなければならない。体力が必要だからです」
胡一平 「それくらいだったら20歳代の女性でも問題ありません。それよりも北京放送の日本語放送では、日本語で仕事をし、取材相手も日本人ですから、女性であっても私の方が有利です」
1984年、胡一平は北京放送日本語部で、初の女性記者として働き始めた。ラジオ放送(短波)である。2つの番組を担当する。「友好の広場」という12分間の番組では、杉良太郎、北島三郎、西城秀樹、アグネスチャン、加藤登紀子の中国でのコンサートを取材し、インタビューもして記事を書き、放送した」
「取材はコンサート会場が中心で、歌っている音を録って、あとは楽屋で『今日はいかがでしたか、感想はどうでしょうか、聴衆の反応はどうでしたか』などと聞く。それでだいたい12分になるんです」。 NHK連続テレビ小説「おしん」に出演した田中裕子がやってきたときには、こんな一幕もあった。
「私は当時、怖いもの知らずというか自信満々で、取材には人民日報など他の官製メディアの記者も行きましたが、みんな日本語ができず、私が全部質問できるので、さらに自信をつけました。後で他の記者に囲まれて、何を聞いてどう答えたのかと聞かれ、それがまた自信につながった」
もうひとつは、日本のリスナーからの便りを紹介する番組だった。 「お便りに答えたり、中国のその時の季節のことをしゃべったり、逆に日本のことを紹介し私の感想をしゃべったり。自分で取材して原稿を書いて、日本人の専門家に直してもらい、それを最後にしゃべり放送する」。 毎週火曜日に番組が回ってくる。番組に穴をあけてはならないと、プレッシャーも大きい。「放送時間になったのに、スタジオの場所が分からないという夢をよく見た」という。
北京放送で働き始めてから、5年ほどが経過していた。1989年6月3日夜から4日未明にかけ、民主化を要求する学生らを、共産党指導部が「動乱」と断じ武力で制圧した第二次天安門事件(六四事件)が起こり、世界を震撼させた。胡一平は、録音機材とマイクを持って現場にい続けた。実はこのときすでに、日本へ移り住むことが決まっており、ビザ(査証)の申請中だった。
天安門事件からほどなくして、日本へ渡る。
「放送局ではちゃんと働いていたんですけど、自分の力不足というか、もうちょっと日本語を勉強したい、日本を知りたいという思いがありました。私が日本へ行きたいということを放送局の人に相談したのは、天安門事件の前。放送局を辞めたというよりは、2年ほど日本へ行って、また中国へ帰ってくるという約束だったんですよ。でも帰らなかった」
胡一平はフリーランスとして、通訳などさまざまな仕事を引き受けた。例えばNHKは当時、衛星放送を開始したばかりで、アジアニュースの枠内で放送するCCTV(中国中央電視台)のニュースの通訳をした。国際会議の通訳や、外務省の語学研修所の非常勤講師などもこなした。「自由に自分の実力で仕事をして生活するのもいいな、と思い始めた。通訳にはなったんですけど、学生時代に夢見ていた通訳とは違う形になりました」と苦笑する。
日本を訪れたのは、このときが初めてではない。1984年7月に北京外国語学院日本語科を卒業し、9月に北京放送局に入り、その翌年のことだ。中曽根康弘首相(当時)が中国の青年500人を招いた。この「日中青年友好の船」のメンバーのひとりとして、胡一平は九州、大阪、富山、東京を巡る。「日本の人々の優しさと、自由で反映した資本主義」が、印象に強く残った。