笹川平和財団

English
  • 財団について
    • 財団について
      • 財団について
      • 沿革
      • 事業方針・5つの重点目標
      • 評議員・名誉会長・役員名簿
      • ダイバーシティ&インクルージョン
      • 財務報告
      • 定款
      • 役員の報酬・退職金に関する規程
      • より良い調査研究への取り組み
      • 笹川名誉会長対談のアーカイブ
      • 2017年度までの事業について
    • 理事長からのご挨拶
    • ブロシュア・年次報告書
    • アクセス
    • Idea Submission
    • 採用情報
    • お問い合わせ
  • 研究員
  • 事業
    • 日米・安全保障研究ユニット
    • 総括・交流グループ
    • 安全保障・日米グループ
    • 戦略・抑止グループ
    • アジア・イスラム事業ユニット
    • 第1グループ:戦略対話・交流促進担当
    • 第2グループ:平和構築支援担当
    • 第3グループ:社会イノベーション推進担当
    • 笹川日中友好基金
    • 海洋政策研究所
    • 海洋政策実現部
    • 島嶼国・地域部
    • 奨学ユニット
    • 笹川奨学金事業グループ
  • リポート
    • 報告資料・出版物
    • 各種レポート
    • シンポジウム・講演会録
    • SPF NOW
    • 随想一筆
    • 新型コロナウイルス 日本と世界
    • 動画
    • 地域別新着情報
    • アメリカ
    • 北東アジア地域
    • 東南アジア地域
    • 南アジア地域
    • 中東地域
    • 大洋州地域
    • ヨーロッパ・ユーラシア
    • 北極域
    • アフリカ
    • サテライトサイト
    • 国際情報ネットワークIINA
    • SPFチャイナオブザーバー
    • アジア女性インパクトファンド
    • 島嶼資料センター
    • WMU友の会ジャパン
    • SPF日米関係インサイト
    • 海洋情報FROM THE OCEANS
    • 海洋教育パイオニアスクールプログラム
    • アジア平和構築イニシアティブAPBI
    • 碩果累々 継往開来 —笹川日中友好基金の軌跡—
    • サイバー安全保障研究
    • ロシアと世界
    • 日中関係データグラフ
  • ニュース
    • 新着情報
    • プレスリリース
    • メールマガジン
    • メディア掲載
  • イベント
  • 笹川奨学金

初の女性記者に

胡一平

胡一平

 胡一平は1984年、北京外国語学院日本語科を卒業した。この大学では当時、卒業後の仕事を自分で探すのではなく、学校側が学生の就職先を決め事実上、配属していた。「あなたは外交部、あなたは新華社通信と完全に先生が決め、逆らえない。人数の枠も決まっている」

 国営ラジオ局の北京放送(現在の中国国際放送局=CRI)に、放送記者として入りたいと思った。

 「どうしても放送局へ行きたかった。大学を卒業する頃には、通訳になるより、記者になりたいという希望が出てきた。記者になると、いろいろな日本人に会え、取材して放送したかった」

 だが、北京放送の採用枠は男性1人のみ。他の採用枠も男性ばかりで、胡一平は「女性はどうすればいいんですか」と、大学側に噛みつき推薦状を書いてもらった。女性なので、どのみち採用は無理だろうから、面接では言いたい放題言おう―。そう心に決めていた。

 胡一平 「北京放送は何で男性しか採らないんですか。その理由を知りたいのですが」

 人事担当者 「取材記者は重い機材を持っていかなければならない。体力が必要だからです」

 胡一平 「それくらいだったら20歳代の女性でも問題ありません。それよりも北京放送の日本語放送では、日本語で仕事をし、取材相手も日本人ですから、女性であっても私の方が有利です」

 1984年、胡一平は北京放送日本語部で、初の女性記者として働き始めた。ラジオ放送(短波)である。2つの番組を担当する。「友好の広場」という12分間の番組では、杉良太郎、北島三郎、西城秀樹、アグネスチャン、加藤登紀子の中国でのコンサートを取材し、インタビューもして記事を書き、放送した」

 「取材はコンサート会場が中心で、歌っている音を録って、あとは楽屋で『今日はいかがでしたか、感想はどうでしょうか、聴衆の反応はどうでしたか』などと聞く。それでだいたい12分になるんです」。 NHK連続テレビ小説「おしん」に出演した田中裕子がやってきたときには、こんな一幕もあった。

 「私は当時、怖いもの知らずというか自信満々で、取材には人民日報など他の官製メディアの記者も行きましたが、みんな日本語ができず、私が全部質問できるので、さらに自信をつけました。後で他の記者に囲まれて、何を聞いてどう答えたのかと聞かれ、それがまた自信につながった」

 もうひとつは、日本のリスナーからの便りを紹介する番組だった。 「お便りに答えたり、中国のその時の季節のことをしゃべったり、逆に日本のことを紹介し私の感想をしゃべったり。自分で取材して原稿を書いて、日本人の専門家に直してもらい、それを最後にしゃべり放送する」。 毎週火曜日に番組が回ってくる。番組に穴をあけてはならないと、プレッシャーも大きい。「放送時間になったのに、スタジオの場所が分からないという夢をよく見た」という。

 北京放送で働き始めてから、5年ほどが経過していた。1989年6月3日夜から4日未明にかけ、民主化を要求する学生らを、共産党指導部が「動乱」と断じ武力で制圧した第二次天安門事件(六四事件)が起こり、世界を震撼させた。胡一平は、録音機材とマイクを持って現場にい続けた。実はこのときすでに、日本へ移り住むことが決まっており、ビザ(査証)の申請中だった。

 天安門事件からほどなくして、日本へ渡る。

 「放送局ではちゃんと働いていたんですけど、自分の力不足というか、もうちょっと日本語を勉強したい、日本を知りたいという思いがありました。私が日本へ行きたいということを放送局の人に相談したのは、天安門事件の前。放送局を辞めたというよりは、2年ほど日本へ行って、また中国へ帰ってくるという約束だったんですよ。でも帰らなかった」

 胡一平はフリーランスとして、通訳などさまざまな仕事を引き受けた。例えばNHKは当時、衛星放送を開始したばかりで、アジアニュースの枠内で放送するCCTV(中国中央電視台)のニュースの通訳をした。国際会議の通訳や、外務省の語学研修所の非常勤講師などもこなした。「自由に自分の実力で仕事をして生活するのもいいな、と思い始めた。通訳にはなったんですけど、学生時代に夢見ていた通訳とは違う形になりました」と苦笑する。

 日本を訪れたのは、このときが初めてではない。1984年7月に北京外国語学院日本語科を卒業し、9月に北京放送局に入り、その翌年のことだ。中曽根康弘首相(当時)が中国の青年500人を招いた。この「日中青年友好の船」のメンバーのひとりとして、胡一平は九州、大阪、富山、東京を巡る。「日本の人々の優しさと、自由で反映した資本主義」が、印象に強く残った。

  1. [先頭]
  2. < < 
  3. 1
  4. 2
  5. [3]
  6. 4
  7. 5
  8.  > >
  9. [最後]

笹川日中友好基金
Share

関連記事

Latest News

随想一筆

【Faces of SPF】躍動する女性たち(6)
海洋の管理と国際協力を推進 前川美湖

2020.04.06
随想一筆

続く〝テロとの戦い〟
息の長い取り組み必要な「脱過激主義プログラム」

2020.01.30
随想一筆

【Faces of SPF】躍動する女性たち(5)  インド北東部 融和こそ持続的発展のカギ 中村唯

2019.09.12
もっと見る

pagetop

Video Title

Footer

笹川平和財団

  • 財団について
  • ニュース
  • 研究員
  • イベント
  • 事業
  • アクセス
  • リポート
  • お問い合わせ

最新情報

SPF(笹川平和財団)の最新情報をメールでお届けするサービスです(購読無料)。 講演会やシンポジウム等のイベント情報、サイト更新情報、報道発表資料などをご案内いたします。

メールマガジンの登録

サテライトサイト

  • 海洋情報FROM THE OCEANS
  • WMU友の会ジャパン
  • アジア女性インパクトファンド
  • SPF日米関係インサイト
  • 国際情報ネットワークIINA
  • 海洋教育パイオニアスクールプログラム
  • 島嶼資料センター
  • SPFチャイナオブザーバー
  • アジア平和構築イニシアティブAPBI
  • 碩果累々 継往開来 —笹川日中友好基金の軌跡—
  • サイバー安全保障研究
  • ロシアと世界
  • 日中関係データグラフ
  • プライバシーポリシー
  • サイトポリシー
  • SNSポリシー
  • サイトマップ
  • ウェブアクセシビリティ

Copyright © 2022 The Sasakawa Peace Foundation All Rights Reserved.