随想一筆
新規事業の立ち上げ
「日本とアジア諸国がともに抱える問題を、一緒に考えていく事業がつくれないか」―。岡本が笹川平和財団の理事長、大野修一から突然、アジアの人口動態事業グループの立ち上げと、アジア・インパクト対話のアイデアを告げられたのは、昨年のことである。もっともこの時はまだ、「アジア・インパクト対話」という名称は決まっておらず、後に、担当研究員の植田晃博が命名することになる。この事業には、アジアにおける日本のプレゼンスを拡大するという狙いも込められていた。岡本は「アジアのこれからの社会問題と変化を考えていくときに、とても重要な事業テーマであり、これまで自分が難民支援事業を通じてもっていた問題意識とも重なる。自分の領域と視野を広げるうえでも良いテーマをもらった」と思った。
2017年10月、インドネシアのジャカルタで、アジア域内の重要課題と日本の役割を見極めるため、アジアの人口動態事業グループ研究員、林茉里子(左)とともに有識者にインタビューする岡本
問題は、いかなる社会課題を取り上げ、いかに具体化するかだ。そこで調査をした。岡本らはインドネシアやタイ、シンガポールなどに赴き、アジア域内の今後の重要課題にどのようなものがあるのかを探った。事業のパートナーも探した。その結果、分ったことは「ASEAN(東南アジア諸国連合)の統合や経済成長の中で急激な変化が起こっており、高齢化、ジェンダー格差、人権、人の移動などの問題が重要であり、日本とアジアが共通して直面している課題としては、やはり高齢化と、人の移動の問題がとても大きい」ということだった。こうした経緯から、アジア・インパクト対話ではまず、高齢化問題を取り上げるに至った。
岡本には、日本とアジア諸国との関係について、ある揺るぎない信念とポリシーがある。それは「教えてあげるという上から目線ではなく、逆に日本がアジアからも学べることがたくさんあるはずなので、共に学び共通課題に取り組む。日本とアジア諸国の人たちをつなぐ連接点という役割を、財団が果たすことができればいい」ということだ。そうしたスタンスは、アジア・インパクト対話の背骨をなしている。
岡本には、日本とアジア諸国との関係について、ある揺るぎない信念とポリシーがある。それは「教えてあげるという上から目線ではなく、逆に日本がアジアからも学べることがたくさんあるはずなので、共に学び共通課題に取り組む。日本とアジア諸国の人たちをつなぐ連接点という役割を、財団が果たすことができればいい」ということだ。そうしたスタンスは、アジア・インパクト対話の背骨をなしている。
国際協力・支援への道
岡本は香川県高松市に生まれた。東京外国語大学外国語学部でロシア語を専攻し、卒業後の1997年、日本商工会議所に就職する。国際部で中小企業の国際化や、二国間経済委員会の事務局で、日本と、インドやミャンマーなどの間の貿易障壁を取り払うことに従事した。官民の経済協力では、政府開発援助(ODA)と民間の国際協力への理解促進に当たった。その過程で海外出張を重ね、日本と東南アジア諸国やインドを行き来した。そこで見聞したことのひとつに、タイのスラム街にあった図書館がある。非政府組織(NGO)で、子供たちに教育を届けようと図書館活動や学校建設を行っている「シャンティ国際ボランティア会」によるものだった。この図書館を訪れたことが、岡本にインスピレーションを与える。
「混沌としたスラム街の中で、図書館の活動が輝いて見えた。非常に脆弱な環境に置かれた子供たち。人々が立ち上がるために重要なのが教育で、自分の力で立ち上がれるように側面支援することは、とても大事な仕事なのではないか。胸の内に収めていた思いが、だんだん抑えきれなくなっていきました。やはり挑戦してみたいという思いが勝るようになった」
「やはり挑戦してみたい」―。そうした国際協力と支援にはせる思いはそもそも、従妹の活動に触発されたものだ。
1994年、従妹が中古品を集めて販売し、その売り上げでカンボジアに学校を建設するなどのためのチャリティショップを、高松市で始めた。
「社会課題の解決に立ち上がり、政府や企業ができないところを市民社会でやっていくことの強さや機動力、それを市民が支えることの素晴らしさを肌で感じました」
国際協力の道を夢見るようになったのは、その頃からだった。
岡本は内なる欲求を抑えきれず転職を決意し、2000年8月に笹川平和財団へ移る。研究員補佐、事務職だった。特定非営利活動(NPO)の事業などを担当し「市民社会が見えてくると、その国のありようがわかるということを感じた」という。
だが、家庭の事情で1年半ほどで退職し、ブルネイで暮らす。国立ブルネイ・ダルサラーム大学で市民社会について学んだ。「ブルネイは王制が強く監視社会ですから、権利を擁護するようなNGOはありませんが、福祉や障害者支援の分野では、市民が自分たちの力で立ち上がり活動している。そこにはリーダーシップとイニシアチブがありました」と述懐する。
岡本は2004年8月に笹川平和財団に研究職で復帰する。「事業部」でインドやベトナム、フィリピン関連の事業を手がける。当時、ひとり息子を背中に負ぶってパソコンに向かっていた。その息子も成長して今や高校生になり、岡本と仕事の最大の理解者である。
「民間非営利セクターに関する仕事でした。環境、貧困問題などに民間非営利セクターが果たせる役割が大きいということで、法制度や資金調達、機能を強化するための基盤整備を担いました。その後、人々の生活や生命、健康、安全に脅威を及ぼす問題に取り組もうということで、非伝統的安全保障プログラムの下で災害や感染症に関わるようになった」
「混沌としたスラム街の中で、図書館の活動が輝いて見えた。非常に脆弱な環境に置かれた子供たち。人々が立ち上がるために重要なのが教育で、自分の力で立ち上がれるように側面支援することは、とても大事な仕事なのではないか。胸の内に収めていた思いが、だんだん抑えきれなくなっていきました。やはり挑戦してみたいという思いが勝るようになった」
「やはり挑戦してみたい」―。そうした国際協力と支援にはせる思いはそもそも、従妹の活動に触発されたものだ。
1994年、従妹が中古品を集めて販売し、その売り上げでカンボジアに学校を建設するなどのためのチャリティショップを、高松市で始めた。
「社会課題の解決に立ち上がり、政府や企業ができないところを市民社会でやっていくことの強さや機動力、それを市民が支えることの素晴らしさを肌で感じました」
国際協力の道を夢見るようになったのは、その頃からだった。
岡本は内なる欲求を抑えきれず転職を決意し、2000年8月に笹川平和財団へ移る。研究員補佐、事務職だった。特定非営利活動(NPO)の事業などを担当し「市民社会が見えてくると、その国のありようがわかるということを感じた」という。
だが、家庭の事情で1年半ほどで退職し、ブルネイで暮らす。国立ブルネイ・ダルサラーム大学で市民社会について学んだ。「ブルネイは王制が強く監視社会ですから、権利を擁護するようなNGOはありませんが、福祉や障害者支援の分野では、市民が自分たちの力で立ち上がり活動している。そこにはリーダーシップとイニシアチブがありました」と述懐する。
岡本は2004年8月に笹川平和財団に研究職で復帰する。「事業部」でインドやベトナム、フィリピン関連の事業を手がける。当時、ひとり息子を背中に負ぶってパソコンに向かっていた。その息子も成長して今や高校生になり、岡本と仕事の最大の理解者である。
「民間非営利セクターに関する仕事でした。環境、貧困問題などに民間非営利セクターが果たせる役割が大きいということで、法制度や資金調達、機能を強化するための基盤整備を担いました。その後、人々の生活や生命、健康、安全に脅威を及ぼす問題に取り組もうということで、非伝統的安全保障プログラムの下で災害や感染症に関わるようになった」