随想一筆
コミュニティメディアで情報発信
笹川平和財団の活動の軌跡を概観するとき、息の長い地道な取り組みの連続であることが分かる。
話は8年前の2010年に遡る。笹川平和財団はこの年、深南部での事業を初めてスタートさせた。事業を立ち上げたのは、「アジアの平和と安定化事業グループ」の現グループ長、中山万帆である。この事業の「開拓者」とでもいうべき存在だ。
話は8年前の2010年に遡る。笹川平和財団はこの年、深南部での事業を初めてスタートさせた。事業を立ち上げたのは、「アジアの平和と安定化事業グループ」の現グループ長、中山万帆である。この事業の「開拓者」とでもいうべき存在だ。

深南部事業について語る中山万帆
東京大学教養学部で比較文化を学んだ後、ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院で社会人類学を専攻した。その後、国際交流基金に入り、2001年から2005年まではインドネシアの首都ジャカルタに駐在した。
「地元のラジオでJpopを流したり、日本映画をテレビで放映したり、芥川賞作家を呼んでのトークイベント開催や、人身売買調査…。いろいろな国際交流プロジェクトを担当させてもらいました」
この時期、バリ島での爆弾テロ事件(2002年)があり、中部スラウェシ州ポソでは、イスラム教徒とキリスト教徒との抗争が激化していた。スマトラ島北部アチェ州では、分離・独立を目指す武装組織「自由アチェ運動」(GAM)と、インドネシア軍との戦闘が続いていた。この紛争を終焉へと導いたものは、皮肉なことに、アチェ州に壊滅的な被害をもたらしたスマトラ沖地震と津波(2004年12月)であった。
中山は2005年8月に和平協定が結ばれたことを契機に、「アチェの紛争地の和解」をテーマに事業を企画する。
「紛争の中でもアチェが相当深刻で、アチェから逃げてきた友人の活動家もおり、ひどい状況だと聞いていた。何かやりたいと思った」
そこで「アチェの中でもGAMの勢力下にあった地域と、インドネシア軍に協力していた地域があり、両方の地域の村から10人ずつ子供を連れてきて、演劇ワークショップを企画した。自分自身が企画したのは1回目のみだ。同僚が取り組みを継続してくれた。3回目のワークショップで参加者に、自分達がどんなに大変だったか、体験を地図にして描いてもらった。ここの林で銃撃戦があったとか、あそこでおじさんが亡くなったとか。書いているうちに、ひとりの男の子が泣き始め、それを見て、紛争下で敵対していた村から来た子供たちが『お前のところも大変だったんだな』と。成長した子供たちとは、今もフェイスブックなどでつながっています」
中山が笹川平和財団へ主任研究員(当時)として移ったのは、2008年9月のことだ。
タイの深南部では、クルセ・モスクとタクバイでの事件から4年ほどが経過していた。中山は財団の新たな事業を選定するにあたり、タイ深南部やアチェ、東ティモール、フィリピン南部ミンダナオ島、スリランカの紛争地に赴き調査した。地元の住民、有識者、研究者、ジャーナリストをはじめ、インタビューした相手は160人にのぼる。その結果、新事業はタイ深南部と決まった。
「聞き取り調査をした時点では、深南部には国際支援がほとんど入っていなかった。宗教紛争ではなく民族紛争という歴史的経緯もあり、バンコクの団体が『パタニ』ヘ入って行っても、地元の人々の信頼を勝ち得ることは難しい状況だった。情報が少なく、わからないことも多い。何かできるのではないか、事業の可能性があると思った」
ただ、中山は「最初は和平を成立させようと思って始めたわけではなかった。日本の財団による国際的な支援が入ることで、この紛争をもっと国際社会に知らしめたり、現地の人々のエンパワーメントにつながったりすることができないか、と考えた」と振り返る。
そこで目を付けたのが、「ディープ・サウス・ウォッチ」というNGOと、これが運営するウエブメディアだった。当時はまだ、ディープ・サウス・ウォッチ以外にNGOらしいNGOはなかった。オフィスはプリンス・オブ・ソンクラー大学パタニ校の構内にあり、トップの所長は仏教徒、編集長はイスラム教徒。このNGOと組み、現地の情報を発信するとともに、コミュニティメディアを支援していく。
「タイ語やジャウィ語、それにマレー語の新聞もなかった。ただ、コミュニティーラジオは発達していた。マレー語やタイ語でラジオ放送をしているところはたくさんあったので、コミュニティメディアを入り口にできないかと思い、ディープ・サウス・ウォッチをパートナーに支援を始めた」
コミュニティメディアの約30団体を集め、「ピース・メディア・ネットワーク」を形成し、紛争解決に向けた戦略づくりなども後押しした。
「地元のラジオでJpopを流したり、日本映画をテレビで放映したり、芥川賞作家を呼んでのトークイベント開催や、人身売買調査…。いろいろな国際交流プロジェクトを担当させてもらいました」
この時期、バリ島での爆弾テロ事件(2002年)があり、中部スラウェシ州ポソでは、イスラム教徒とキリスト教徒との抗争が激化していた。スマトラ島北部アチェ州では、分離・独立を目指す武装組織「自由アチェ運動」(GAM)と、インドネシア軍との戦闘が続いていた。この紛争を終焉へと導いたものは、皮肉なことに、アチェ州に壊滅的な被害をもたらしたスマトラ沖地震と津波(2004年12月)であった。
中山は2005年8月に和平協定が結ばれたことを契機に、「アチェの紛争地の和解」をテーマに事業を企画する。
「紛争の中でもアチェが相当深刻で、アチェから逃げてきた友人の活動家もおり、ひどい状況だと聞いていた。何かやりたいと思った」
そこで「アチェの中でもGAMの勢力下にあった地域と、インドネシア軍に協力していた地域があり、両方の地域の村から10人ずつ子供を連れてきて、演劇ワークショップを企画した。自分自身が企画したのは1回目のみだ。同僚が取り組みを継続してくれた。3回目のワークショップで参加者に、自分達がどんなに大変だったか、体験を地図にして描いてもらった。ここの林で銃撃戦があったとか、あそこでおじさんが亡くなったとか。書いているうちに、ひとりの男の子が泣き始め、それを見て、紛争下で敵対していた村から来た子供たちが『お前のところも大変だったんだな』と。成長した子供たちとは、今もフェイスブックなどでつながっています」
中山が笹川平和財団へ主任研究員(当時)として移ったのは、2008年9月のことだ。
タイの深南部では、クルセ・モスクとタクバイでの事件から4年ほどが経過していた。中山は財団の新たな事業を選定するにあたり、タイ深南部やアチェ、東ティモール、フィリピン南部ミンダナオ島、スリランカの紛争地に赴き調査した。地元の住民、有識者、研究者、ジャーナリストをはじめ、インタビューした相手は160人にのぼる。その結果、新事業はタイ深南部と決まった。
「聞き取り調査をした時点では、深南部には国際支援がほとんど入っていなかった。宗教紛争ではなく民族紛争という歴史的経緯もあり、バンコクの団体が『パタニ』ヘ入って行っても、地元の人々の信頼を勝ち得ることは難しい状況だった。情報が少なく、わからないことも多い。何かできるのではないか、事業の可能性があると思った」
ただ、中山は「最初は和平を成立させようと思って始めたわけではなかった。日本の財団による国際的な支援が入ることで、この紛争をもっと国際社会に知らしめたり、現地の人々のエンパワーメントにつながったりすることができないか、と考えた」と振り返る。
そこで目を付けたのが、「ディープ・サウス・ウォッチ」というNGOと、これが運営するウエブメディアだった。当時はまだ、ディープ・サウス・ウォッチ以外にNGOらしいNGOはなかった。オフィスはプリンス・オブ・ソンクラー大学パタニ校の構内にあり、トップの所長は仏教徒、編集長はイスラム教徒。このNGOと組み、現地の情報を発信するとともに、コミュニティメディアを支援していく。
「タイ語やジャウィ語、それにマレー語の新聞もなかった。ただ、コミュニティーラジオは発達していた。マレー語やタイ語でラジオ放送をしているところはたくさんあったので、コミュニティメディアを入り口にできないかと思い、ディープ・サウス・ウォッチをパートナーに支援を始めた」
コミュニティメディアの約30団体を集め、「ピース・メディア・ネットワーク」を形成し、紛争解決に向けた戦略づくりなども後押しした。

2009年12月、コミュニティメディアの関係者を集め、 「ピース・メディア・ネットワーク」をめぐり議論した
また、ジャーナリスト育成の目的で講座を開講した。
「週1回、10人ほどの若者が参加して記事を実際に書く。プロのジャーナリストにトレーニングをしてもらった」
ディープ・サウス・ウォッチを通じ、タイ語と英語で、紛争と人権侵害の状況などに関する情報を発信した。「シナラン」(光)というジャウィ語の新聞も発行した。
ディープ・サウス・ウォッチとの6年間にわたる取り組みにより、将来目指すべき統治のあり方などをめぐり、地元の有識者やコミュニティメディアの関係者が対話を行う場がパタニに形成され、NGO活動も活性化していった。
「週1回、10人ほどの若者が参加して記事を実際に書く。プロのジャーナリストにトレーニングをしてもらった」
ディープ・サウス・ウォッチを通じ、タイ語と英語で、紛争と人権侵害の状況などに関する情報を発信した。「シナラン」(光)というジャウィ語の新聞も発行した。
ディープ・サウス・ウォッチとの6年間にわたる取り組みにより、将来目指すべき統治のあり方などをめぐり、地元の有識者やコミュニティメディアの関係者が対話を行う場がパタニに形成され、NGO活動も活性化していった。

2010年10月、笹川平和財団の支援でディープ・サウス・ ウォッチがパッタニーで開催した、政府首脳と住民との対話集会
もうひとつの主要な事業は、パタニの若者を、紛争地であるフィリピンのミンダナオ島に派遣し、平和構築やNGOの活動などについて学ぶ「インターンシップ・プログラム」である。
「ミンダナオのNGOと協力し、若者たちに約3カ月間、平和構築の実践例を、実際に見てもらった。ミンダナオにはたくさんのNGOがあり、セーフティゾーン(安全地帯)の画定と監視を含むさまざまな平和構築の取り組みを行っている。それでミンダナオを選んだ」
中山はしかし、時がたつにつれて、こうした活動の限界を感じ始める。「紛争の当事者に近い人たち、爆弾を置いている人たちを対象に訴求しないと、意味がないのではないか」と。
「ミンダナオのNGOと協力し、若者たちに約3カ月間、平和構築の実践例を、実際に見てもらった。ミンダナオにはたくさんのNGOがあり、セーフティゾーン(安全地帯)の画定と監視を含むさまざまな平和構築の取り組みを行っている。それでミンダナオを選んだ」
中山はしかし、時がたつにつれて、こうした活動の限界を感じ始める。「紛争の当事者に近い人たち、爆弾を置いている人たちを対象に訴求しないと、意味がないのではないか」と。