Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第315号(2013.09.20発行)

第315号(2013.09.20 発行)

海の外から日本を見る

[KEYWORDS]同質性社会/コミュニケーション力/教養
日本科学技術ジャーナリスト会議会長、元読売新聞社編集委員◆小出重幸

海洋国と言われながら、日本人の視線はなぜかこの島国の外に向きにくい。内向きの中で空気を読み、同じ価値観を共有し、突出した意見や人材を嫌う、この「同質性」は、戦後教育の発展とあいまって強まる傾向にある。
しかし資源小国・日本が閉じこもりのまま、「世界の中」でどこまで生き残ってゆけるのか。外交、経済協力、文化的、人的交流を進めるためにも、海外から日本を見る眼と、コミュニケーション力の獲得が、何よりも求められる。これからの日本の課題を考えて見たい。

海の外にいると見えてくる、日本人の同質性

BBCテレビの討論番組をロンドンで見ていて、「コヒージョン=Cohesion」という単語が耳に残った。一糸乱れぬ団体行動、同期性を指す言葉だという。
2011年3月の東日本大震災と津波で、未曾有の被害を受けた日本、しかし、その復興への立ち上がりは早かった。だれも命令したり、強制したりするわけでもないのに、流出した残骸を片付け、避難所の整備をし、お年寄りの面倒をみる・・・・。これはいったいなぜなのかが、討論のテーマだった。
「ハイチなどの例を挙げるまでもなく、あれだけの死者や被害が出れば、暴動や略奪が横行し、打ちひしがれる、あるいは自暴自棄になる人が当然いるはず。しかし、日本ではまるで全員が作戦行動を熟知しているかのように、さくさくと復興への作業に取り組んでいる。この違いは何なのか?」
こうした司会者の問いに、「コヒージョン」というキーワードで答えたのが、女性の社会学者だった。
「日本人には、同質性を求める気質があります。全員が一線に並んで、同時に第一歩を踏み出すような現象です。価値観を統一したがり、突出する者を嫌う結果、独創性のある発明家や指導者が現れにくいなど、これには両面の評価ができると思いますが、今回のような大災害の場合には、復興へのプロセスに速やかにこころをそろえられる。みんな同じ方向を見て進むことが、ほかの国々より容易なのです」
なるほど海の外からニホンを見ると、こう評価できるわけだ。それでは欧米の文化は、どんな組み立てだろうか。一人ひとりが「市民」として、自分で考える、自分のことば、価値観で意見をぶつけあう、議論し、説得するマナーや技術をみがく─。こうした個人主義の教育を基盤とした欧米社会に比べると、海外への関心が低く、内向きに空気を読みながら目立たないようとけ込む、同質性を求める社会は、いささか趣が違うことがわかる。

コミュニケーションを欠いた社会

この同質性が、マイナスに向かって現れた現象も、また指摘することができる。日本国内と、海外の教育との違いで見てみよう。
初等・中等教育を欧米など国外で受けて日本に戻る、いわゆる帰国子女は毎年、1万人を超える。しかし、せっかく「自律精神」を培った子どもたちが、日本社会の中で活躍の場を見つけにくい、という現実がある。
社会学の視点で、英国や米国と日本の教育を比較、俯瞰している、苅谷剛彦・英オクスフォード大教授は、「欧米の教育を体験した帰国子女は、自分の頭で考える、客観的に判断する、論理的に人に伝える、というコミュニケーションのトレーニングを積んでいるわけですが、この能力が日本の中では生かせない。国内の大学にはこのトレーニングの機会が少ないので、スキルがほとんどフォローされません。さらに日本企業の中では、進んで意見を述べるような人材が疎んぜられる、結局、活躍の場面が少ないのです・・・・」と、残念がる。
ところが、このコミュニケーション力の欠如が、大震災に続く東京電力・福島第一原子力発電所事故後の日本に、大きな混乱をもたらせた。私たちに突きつけられたものは、状況を決断し、価値観や方向性を示し、メッセージを発信するという、「上に立つ」人材に求められる資質を欠いた、「指導層」の氾濫だったからだ。
こうしたコミュニケーションの基礎となる力、それが「教養」であると、数学者の藤原正彦・お茶の水女子大学名誉教授は指摘する。
「ギリシャやローマの神話、聖書、仏典、中国の史書、シェークスピアやゲーテなど、古今東西の思想を学ぶ、歴史に描かれた人たちの思索の後をたどる、このような積み上げの努力があって、はじめて自身の価値観や人生観ができる。これを教養と言っていますが、これなしには、分析、決断、発信という人間力は身につかないのです」
第二次大戦後の平等教育は、多くの人に教育機会を開いたが、均一性、同質性が強調されるなかで、上に立つ人材の育成という大切な事業が、置き去りにされては来なかっただろうか。
この教養の大切な要素に、海外に目を向ける、あるいは国外から日本を見る能力があると思う。

外から日本社会を見る努力の必要性

■ヘルシンキ大学内で開かれた、世界科学ジャーナリスト連盟(WFSJ)の大会。福島事故を巡るリスク・コミュニケーションも、話題になった。

国外で最近感じた、日本国内と海外各国の「モノサシ」の落差が、放射線の健康影響をめぐる問題だった。
日本政府は、放射線の健康影響や除染の基準について、福島県内の表面土壌の除染ガイドラインを、年間1ミリシーベルトとし、また、一般食品に含まれるセシウムなど放射性物質の規制値を、1キログラムあたり100ベクレル以下─としている。食品基準は2012年、「より一層の安全・安心を確保するため」として政府が示したガイドラインだが、国外では、10倍の1,000から1,100ベクレルを規制基準とする国々が大半、日本国内だけ放射線規制が著しく厳しい、という事実に突き当たる。
放射線には、「低ければ低いほど良い」という見方がある。日本政府、メディアなどはこの世論に乗って、「同質的な行動」を続けてきたが、一方では、それによる対策費用対効果への疑問、被災地コミュニティ復興の遅れ、そして福島県産食品への不当な差別─というデメリットも大きい。
同県三春町の禅僧で、作家でもある玄侑宗久さんは、世界各国には、日本政府の除染基準の数十倍、数百倍という高い自然放射線量の中で生活している人がいる。また中部、西日本など日本国内にも規制値より高い地域が多いという事実を踏まえて、「国連科学委員会(UNSCEAR)が効果は疑問だと指摘している除染方法を日本の政府が改めて、基準値を引き上げないことが、福島の復興を遅らせ、結果的に福島への理不尽な差別を助長してしまっている」と批判する。
低線量被曝の健康影響はもちろん、十分に解明されているとは言えないが、一方で、「全体的なリスクを考えて、合理的な取り組みをする判断力、メッセージを伝える努力が必要ではないか?」─6月にヘルシンキで開かれた世界科学ジャーナリスト連盟総会に出席して、集まったジャーナリストや研究者からは、こう疑問を呈された。
国外で、距離を置いているから醒めたことが言える、という面もあるかもしれない。しかし、「内向きな同質性」というわれわれの特質の長短をわきまえ、視線を海の外に開く、外から日本社会を見つめ直す、この努力が、あらゆる領域で必要になっていることも、また、事実である。(了)

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