イギリスでNGOを創設

イギリスで立ち上げたNGOのメンバーと行った、移住者の権利を周知するためのキャンペーン
林の移住労働と移民に対する問題意識は、英国での生活と経験に根差している。
現在の福岡県飯塚市に生まれた。当時は嘉穂郡筑穂町。筑穂炭田で知られた炭鉱の町である。高校3年生の途中で、英国へ渡った。
「自分が通っていた高校があまり好きじゃなくて、馴染まなかった。公立の進学校で元は男子校。全体主義なところが強く、とても厳しくて、ここで大学進学を目指すということが自分には向いていないと思った。それで留学したいと考えるようになった」
「生まれ育った町の環境や、母親の社会活動などの影響もあり、人権や社会貢献などに強く関心をもっていた。自分なりに調べてみて、イギリスにはそういうことを学べる大学が多いことも知った」
そのことが、再び英国へと向かわせた。
「イギリスの大学は、学部が3年しかないため、日本の4年生大学で1年生のときに修得する一般教養、基礎的な科目を高校のうちに学んでいる。それを1年間、ケンブリッジのインターナショナルスクールに通って、大学への進学準備のために勉強した」
その後、ブライトンにキャンパスがあるサセックス大学に進み、人類学と文化学を専攻した。卒業すると、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で、「人の国際移住」で修士号を取得する。
「自分が外国人として生活したので、考えることがいろいろあった。排外主義じゃないですけれど、リーマンショック後のイギリスでは外国人や移民に対する風当たりが厳しくなっていると感じた。そういうこともあって、移民などに関心をもった。修士論文で何を書こうかなと思ったときに、ジェンダーというもう一つの関心事も相まって家事労働者について知りたくなった。家事労働者といえばフィリピンの人が多く、そのコミュニティの知り合いをつくれないかなと考えていたときに、ロンドンのウォルサムストウという地区があって、そこのイギリス国教会の教会に、フィリピンの人が多く来ると聞いた」
林の持ち味の一つは行動力だ。教会に足しげく通い始める。
「行ってみたら、フィリピンの人はいっぱいいたんですが、イゴロット族のコミュニティだったんですよ。フィリピンでは大半がカトリックなのに、なんでアングリカンなのかと思ったら、そういうことだった。少数民族だし、ただの外国人労働者というよりは、たぶんいろいろ複雑なことがあるんだろうと思って、この人たちをもっと知ろうと、1年間のうち半年以上、通いました」
イゴロット族とは、フィリピン北部ルソン島のコルディエラセントラル山脈に居住するマレー系民族である。「イゴロット」はタガログ語で「山の人」を意味し、かつては首狩りの習俗があった。
そこで発見したことは―。
「フィリピン人のコミュニティを支援するNGOはイギリスにもたくさんある。でもイゴロットの人たちは、そういうところとまったくかかわりがない。山の人で、メインストリームのフィリピン人から差別されてきたという意識がすごい強いし、信仰、通う教会も違う。そのようなことからフィリピン国内でも良い仕事に就けず、海外への出稼ぎをする人が多い。20、30年前ころから、イゴロット族の人たちがこのロンドンの地区に住むようになって、みんな親戚や知り合いを頼って、ワークパーミット(労働許可証)も持たずに小っちゃいコミュニティに来て、働き、得た収入を母国の家族に送金して暮らしている。ですから移民をサポートしているメインストリームのフィリピン人たちのところへはまったく行かないで、自分たちだけでやっている。そういう人たちが日曜日に教会に来て助け合い、情報交換をしている。それはそれで成り立っているんですけれども、病気になったらどうしたらいいかわからず、ワークパーミットもないから毎日隠れて暮らしている。外国人というだけで苦労はあると思いますが、二重三重の苦労がある人たちだなと思った」

今もロンドンを訪れると、共同創設したNGOを訪ねる
そこで、彼らをサポートしようと、教会の神父らと一緒にボランティア団体を立ち上げた。名称は「ウォルサムストウ・マイグランツ・アクション・グループ/ Waltham Stow Migrants’ Action Group」。この団体は現在も活動しているという。
「セミナーを開いて、病気やケガで困ったときにどうすればいいか、医者の支援グループの人を呼んで心配事を相談したり、非正規であってもどのような権利があるかを、法律家に説明してもらったりしました。あの地区には外国人が多く、当局者が家などを立ち入り検査し、路上で持ち物検査をして『パスポートを見せろ』ということがあったので、そうしたときにどこに連絡すればいいか教えた。取り締まりや聴取の際に、当局者による不当な拘束や暴力などの被害や子供の拘留などが問題になっていた。非正規滞在でいる人たちに、そのままでいいと言っているわけではなく、住んでいる以上は、自分の権利を知ったうえで、危険がないようにしたかった。正規のビザを得られる可能性がある人や、その更新が必要な人には、安全な立場で働き生活できるように、手続きの手伝いをしました」
2007年1月にイギリスに渡ってから、7年弱が経過していた。修士号を取得後もイギリスに残り、最後の2年間は、日系の人材派遣会社などで働きながら、自身が共同で創設したNGOの活動に引き続き没頭した。イギリスの財団に、助成金を申請したこともある。
「何でこの人はお金を出してくれないんだろう、と考えたこともあった。助成金をくれたけど偉そうな人もいたし、そうではなくいろいろ一緒に考えてくれる人もいた」
こうした経験は逆に、財団という存在に対する関心を抱かせた。「日本へ帰って、もっと自分がやりたい仕事をしよう」と決意した林が飛んだ先は、日本ではなく米国のボストンだった。そこでは毎年10~11月に、日英バイリンガルのための世界最大級の就職イベントである「ボストン・キャリア・フォーラム」が開かれている。応募した一つに、笹川平和財団があった。