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オーシャンニューズレター

第68号(2003.06.05発行)

第68号(2003.06.05 発行)

学校教育での「海図」の利用 ~海図で学ぶ海の地理・地誌学~

慶應義塾普通部教諭、慶應義塾大学教養研究センター所員、フェリス女学院大学国際交流学部講師◆太田 弘

海をテーマにした学習は、学生たちに海外への夢とロマンを与える。地理の授業・講義で活用している「海図」は、「海の地理」を教えるための貴重な資料のみならず、次世代の人たちの視線を海に向けるための格好の教材となっている。

「海図」なき、現在の学校教育

「東京湾の古い海図と現代の海図とを見比べると、いかに干潟などの自然が急速に減少したかがよく分かる」(普通部3年生)

「岬には『埼』『岬』『御崎』というさまざまな字の岬があり、また、海図と地形図の地名が違っている。また岬を『鼻』と呼んでいるところもあって面白い」(普通部3年生)

「世界中の海洋国家が『海図』を作っていて、記号はほぼ国際的に標準化されているけれど、海の深さを表す色合いやその国の独特の海図の記号など、音楽と同じで民族ごとの文化性が感じられて面白い」(フェリス女学院大音楽学部1年生)

「海図に示されている水深を測定する為に、音響測深機を用いていると習ったが、音の伝わり方は海水の温度によって変わるはず、世界で最も深い海溝の値はどの程度正確な数字だろうか?」(慶應義塾大学理工学部3年生)

この4つの感想は筆者が担当する「海図」の授業での学生の声である。どの感想も、まったく当を得たものであると言える。私たちが暮らす「陸」の地球科学のさまざまな感動的な現象は目に見えるが「海」は海水で覆われており海底は直接見えない。海底の地形は、実は陸地と連続していて、地震の発生など陸の地形との関係が深く、海底谷も海山もある。筆者は複数の教育段階で「地理」の授業・講義を持っているが、どの段階においても「海の地理」を学ぶ上で「海図」は欠かすことのできない貴重な資料・教材となっている。

筆者がまだ高校生であった昭和45年頃、当時は「地学」が必修科目であり、その副読本で「雑用海図」※1 を用いて海底地形や潮流について学んだ記憶がある。現在の学校教育では、どの教育段階においても必修教科で「海図」を扱っている教科書はほとんどないと言ってよいだろう。かつての「地学」も、今はもう選択教科となってしまい、年々履修者は減少していると聞く。

筆者は大学院の研究科に進学し、地理学の専門科目である自然地理学特論として「地理学」を受講した。その時以来、「海図」の学校教育分野でのユーザーであり、若き研究者や教育者へ海図を普及させる応援団となっている。

「自然地理学特論」のテーマ「海図の講義」では、「海図の知識」(成山堂書店)をテキストに、その著者である坂戸直輝氏(元海上保安庁水路部)から講義を受けた。もちろん船舶の航行が「海図」の本来の使用目的であるが、「海の基本図」、「大洋水深総図(GEBCO)」など、当時の世界的な海洋法への対応、海洋資源の開発など、「海の地図」=「海図」に対する関心が高まり、地表の70%を占める「海」の自然を如実に描く地図=「海図」の存在を知り得て、大層驚愕した思いがある。英語では海図や航空図をその使用目的からか「Chart」と称し、陸の地図が「Map」と呼ばれている点、伝統的に英国が海図の歴史として長く、世界のあらゆる海域の海図を発行してきたこと、また、船の国際的な航行の観点からIHO(国際水路機関)などで国際標準化が進んでいるなど、非常に強い興味を持った。

また講義では、坂戸講師の発案で授業の一環として第三管区海上保安本部(横浜)所属の測量船「くりはま」を便宜供与していただき、数度にわたり東京湾の海上の実習を行った。海上からの横浜港の諸施設やシーバースの見学、また、六分儀による海上での位置決定、東京湾の中央部に刻まれた海底谷を船で横断し、音響測深機を用いて測定するなど、大変得がたい経験をすることができた。「海図」が運輸省海上保安庁水路部で戦前の旧海軍水路部の伝統の流れを受け、百数十年の歴史を持って作成されて来たこと、これは、「地形図」が旧陸軍陸地測量部で作成され、建設省国土地理院に引き継がれたのに似ている。しかし、一昨年、好都合にも国の行政改革により、両「海」「陸」の地図作成機関は「国土交通省」という新しい省庁の下で統合されていることとなり、ある意味で国土の基本図の両輪がひとつの省庁に集約されたことになった。

「地形図」の価格が昔からほぼ街の「コーヒー一杯」に相当するとされて来たのに対して、「海図」はふつうのサイズが1枚3,200円と大変高価な地図となっている。海図が船舶の航海用の主題図である以上、図上の航海情報を最新維持するためにかかるコストからこの値段になっていることは、先の海図を学んだ時に教わったことであるが、「雑用海図」が姿を消した今、この価格が教育での「海図」の利用を妨げているのかも知れない。

「海」を知り「海」と共に生きるために

今、「海図」を用いた授業で大変重宝しているのが、海上保安庁海洋情報部(旧水路部)にある「海の相談室」である。ここには現行の日本中の海図はもちろんのこと、明治以来の旧版の海図や世界各国の海図が閲覧できるほか、海洋情報部のJODC(日本海洋データセンター)とも連携し、すべての教育段階をはじめ、個人、企業、官庁、マスコミ、大学等研究機関に対して「海」に関する情報提供の窓口になっている。特に築地の海洋情報部内にある「海の相談室」には、筆者の講義では飽きたらない学生が集い、「海図の特別講義」をお願いしている。夏休みには何日も相談室に通っては課題のレポートとして仕上げた「海図」の虜になる学生もいる。また、海図学習を発展させるため、総合的学習※2 の一環として、長尾卓司氏((株)商船三井、元「新さくら丸」船長)に母校の東京商船大学にある国の重要文化財「明治丸」見学と船や航海についての講義をしていただいた。

「海」をテーマにした学習は、世界航路を走る客船など、若い人たちに海外への夢とロマンを与える。「『海図』なき航海」など一般に海図という言葉があちこちで用いられていても「海図」の何たるかを学ぶ時間がないようでは、困ることになる。周りを海に囲まれ、さまざまな資源を海外に依存し、工業産品を海外に輸出するために、「海」を何らかの方法で越えなければならないわが国にとって、「海外」があっても「空外」が存在しないように、「海」のことをしっかり学習することが大変重要であると感じる。海洋国家として自らを任じてきた日本民族にとって、「海」を知り「海」と共に生きるために、若い人たちにぜひとも「海図」に目を向けて欲しい。(了)

左写真/東京商船大学での「明治丸」の見学

中/新旧の「海図」の比較から海岸の変化を見る

右/「海の相談室」での「海図」の講義風景

※1 雑用海図=かつて海上保安庁水路部が港湾での土木工事等、航海目的ではない海図の利用に供する為に発行していた海図。紙の質は本来の海図に比べれば劣るが、価格を安く抑え、「海図」の利用普及に役立った。

※2 総合的学習=今、文部科学省が新たに定めた指導要領の下、中学では平成13年から、高校からは14年度から「総合的な学習の時間」と呼ばれる新しい学習科目が登場した。従来の知識を注入する学習方法の反省から、学び方を「学ぶ」ことをねらった学習の時間をめざしている。時間数は年間105時間を当てている。

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