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オーシャンニューズレター

第55号(2002.11.20発行)

第55号(2002.11.20 発行)

日本海という呼称の歴史

国立歴史民俗博物館助教授◆青山宏夫

今年の夏、日本海という呼称をめぐり議論が起こったが、まずは呼称の歴史的事実を冷静に見極めるべき。今から400年前、イエズス会のイタリア人宣教師マテオ=リッチが作製した『坤輿万国全図』には、すでに漢字で「日本海」と記載されており、その呼称はのちに西洋から日本に輸入されて普及したものである。

日本海という呼称をめぐる最近の事情

今年8月から9月にかけて、テレビや新聞などで日本海という呼称の是非についての報道が相次いだ。ことの発端は、海図の国際的な指針を定める国際水路機関(IHO)が、韓国の主張を容れて、これまで国際的に使用されてきた日本海という呼称を白紙に戻すという提案をしたことだ。日本はこの提案の撤回をもとめて直ちにIHOに抗議した。また、これと前後して開催された第8回国連地名標準化会議でも、韓国と北朝鮮はこの呼称に異議を唱えたが、ここでも日本は反論した。

結局、IHOの提案は、加盟各国からの批判や手続き上の問題などからひとまず撤回され、国連地名標準化会議も、特定の地名の是非を論ずることは同会議の趣旨にそぐわないとして、これについての裁定は下さないことになった。今後は、関係国間での協議にゆだねられることになるという。

さて、韓国は、1992年の第6回国連地名標準化会議以来、この問題を提起し続けてきた。その主張の要点は、日本海という呼称は日本が朝鮮半島を植民地化するなかで定着したものであって、このような帝国主義的な呼称は廃して、韓国で使用されている東海という呼称に改称するか、少なくとも両方を併記すべきだというのである。これに対して、日本は、この呼称は朝鮮半島の植民地化以前から定着しており、帝国主義とは関係がないと反論している。

つまり、この問題の最大の論点は、日本海という呼称の歴史をどうとらえるかということにある。とすれば、まず歴史的事実は何であったのかを冷静に見極める必要があるだろう。

日本海の「発見」と「命名」

今からちょうど400年前の北京。イエズス会のイタリア人宣教師マテオ=リッチは、『坤輿万国全図』という漢字で書かれた世界地図を作り上げた。この世界地図こそ、ユーラシア大陸と日本列島に囲まれた海域に、日本海という呼称を記載した現存最古の地図である。これ以前の西洋製地図では、その呼称は「マンジの海」、「チンの海」、「シナの海」などとなっている。つまり、いずれも東洋世界を代表する中国にちなむ地名からつけられているのだ。この時期、「日本海」や「朝鮮海」のような、より限定的な地名からつけられた呼称はまだ使用されてはいなかった。また、東洋製地図には海名すら記載されていない。

ところで、ある呼称が成立するためには、それが指し示す対象が識別されていなければならない。日本海という呼称の場合、大陸の東方に広がる大洋とは区別された、縁海としての日本海が「発見」されていることが不可欠である。『坤輿万国全図』をみると、蝦夷島が「北陸道」と誤認されてはいるが、日本列島の北方が大陸に接近して、閉じた海域が描き出されていることに気づく。実は、こうした地理認識は16世紀末頃から形成されるもので、『坤輿万国全図』はそれを示すもっとも初期の地図の1つでもあったのだ。

したがって、この時期に日本海という呼称があらわれるのは決して偶然ではない。このような地理認識によって日本海が「発見」されたからこそ、それに「命名」する条件が整ったのである。

『坤輿万国全図』の東アジア部分(宮城県図書館蔵)

『坤輿万国全図』の東アジア部分

日本海という呼称の普及

さて、この日本海という呼称は、新たな地理認識とともに宣教師によってヨーロッパに伝えられた。ヴァチカン教皇庁図書館には、リッチ自身から送られた『坤輿万国全図』が今も残されているという。また、そのほかにも、ヨーロッパの言語で書かれたイエズス会関係者による地図や書物なども伝わり、これらをもとにこの呼称を記載する地図がヨーロッパで作製されるようになる。

このうち、この呼称をもっとも早くに採用するのは、現存するものとしては1617年のブランクスの日本図である。その後、1646年にダッドリーが日本北海という呼称を、1690年にコロネリ、1692年にウイットセンが、それぞれ日本海という呼称を採用するなど、17~18世紀を通じてこの呼称はしだいに広がっていった。しかし、この時期には、むしろ中国海や朝鮮海という呼称も少なくなく、必ずしも特定の呼称に定着していたわけではなかった。ところが、18世紀末以降になると、この海域の呼称が日本海という呼称に収斂されていくようになるのである。

一方、日本にも『坤輿万国全図』は早くから伝えられたが、日本海という呼称はすぐには定着しなかった。日本でそれを最初に記載するのは、蘭学者山村才助が1802年に作製した『訂正増訳采覧異言』付図である。これ以後、蘭学系地図を中心にようやくこの呼称が使用されるようになる。蘭学系地図のこうした動きは、前述のように、それらが原図とした18世紀末以降の西洋製地図が日本海という呼称を広く採用していたからにほかならない。つまり、日本海という呼称は「輸入」されたのである。

歴史認識の相互理解を

さて、こうした歴史をたどって、日本海という呼称は欧米や日本などで普及していった。この歴史的経緯と国際情勢を前提にして、1929年のIHOは日本海という呼称を国際的な呼称としたのである。したがって、日本の帝国主義は、日本海という呼称の成立と普及に直接的には関係していない。ただし、国際的な合意がなされた1929年当時、朝鮮半島が日本の植民地支配下にあったこともまた事実である。

今後、この問題について関係国間で協議が進められるとすれば、こうした歴史的事実を率直に認め、互いの歴史認識を理解し合うことが欠かせない。そのためには、日本は、日本海という呼称の歴史的事実を根気よく説明するとともに、国際的な合意がなされた当時の事情にも配慮して臨むことが望まれる。今はまだ、第三の呼称を考える段階ではあるまい。(了)

<参考文献>
青山宏夫(1993):日本海という呼称の成立と展開、環日本海地域比較史研究2、新潟大学人文学部
青山宏夫(1995):地図と「日本海」、しにか6-2、大修館書店
青山宏夫(2001):地図にみる「日本海」の呼称、日本海学の新世紀 第1集、角川書店

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