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オーシャンニューズレター

第47号(2002.07.20発行)

第47号(2002.07.20 発行)

着衣水泳が教える水中護身術

スポーツコンサルタント、ベビーアクアティクス主宰、元五輪代表競泳選手◆長崎宏子

オリンピックスイマーでも服を着たままではプールでおぼれる。そんな恐怖の体験があったからこそ、「着衣水泳」をカリキュラムに組み込んだ、乳幼児のための水泳教室が生まれた。毎年夏になると、子どもたちの悲しい水の事故が起きるが、洋服を着たまま水に入ったときの感覚を経験しておくことで事故は防ぐことができる。

例え、オリンピックスイマーでも......

もうかれこれ二十年も前のことになる。東京・代々木のオリンピックプールでおぼれかけたのは。ほんの数時間前には、同じプールで日本新記録を出し、世界のトップとなり、MVPの表彰を受けた直後だった。

水泳界での『おめでとう』は、胴上げではなくプールへドボンと放り投げられること。

チームメイトから受けるこの残酷な祝福。その時私はすでに長袖長ズボンのトレーニングウエアに着替えていたので、「ぬれたくない!」とかなり抵抗はしたが、まったくの無駄だった。

プール。なれた場のはず。なのに、衣類を身につけているだけで、わが身をコントロールできない自分に気付く。水を吸って重くなった衣類は、私の体にまとわりつき、そして体は水の底へと引きずり込まれる感じ。水深二メートル。もちろん底に足はつかない。呼吸をしようと水面へ浮かびあがろうとすればするほど、その引力は強くなるように思えた。もがきにもがいて、水をガブリと飲んでしまい、水中でむせた。

プールサイドで笑うチームメイトが悪魔のように見えた。「私はこのまま死んでしまうかもしれない」たった数秒間だけそんなことを考えた。

その時プールサイドから聞こえた声。「ヒロコ、靴をぬげ!」。そう、私が"おぼれる"原因になっていたのは、水分を含んだ衣類の重みもさることながら、靴をはいていたことが大きかったのだ。

人間の足は水中で魚の尾びれのような役割を果たしている。水中を前進するとき、人間が陸上生活では見せることのない動きが生まれる。水の流れに逆らわないしなやかな動き。その足ひれが靴に覆われてしまうだけで、例えオリンピックスイマーでも泳力を失う。おぼれてしまう。

靴をぬいで立ち泳ぎ。やっとの思いで水面に浮かび上がってきた私を、笑顔というよりは大笑いのチームメイトたちが迎え、プールサイドへ引き上げてくれた。ゲホゲホッとむせる私の頭を、皆、ポンポン叩いて「おめでとう!」。しかしながら私の心に「おめでたい気持ち」に浸る余裕などまったくなくなっていた。内心、声を上げて大泣きしたかった。怖かった。

『祝福のドボン』がもたらした水への恐怖心は、その後も私の心の奥底にいつも潜んでいる。絶対に、洋服など着て水に入るものではない、と。

水難事故から身を守るための水泳、それが着衣水泳

現在、東京・四谷で開校している『ベビーアクアティクス』という乳幼児とその親御さん向けの水泳教室では、二歳半になり、水中に潜るレッスンをマスターしたベビーに限って、着衣水泳を経験してもらっている。カリキュラムの中には、万が一の水難事故防止のためのレッスン、例えば飛びこんだら体の向きを180度回転させ、プールサイドにもどり、そこにつかまり、自力で這い上がる、というレッスンなどが組みこまれている。プールで週に一度親御さんと遊んでいるだけで、自分の体には浮力が作用していることを無意識の内に覚え、もぐっても浮力に任せて水面まで浮かび上がってくればそこには空気があって、呼吸ができるのだということを知る。が、それらのレッスンはすべて水着姿でのこと。

万が一の水難事故は、水着を着ていないときに起きることが多い。だからこそ、幼いうちに洋服を着たまま水に入ったときの感覚を経験しておく必要があると考え、カリキュラムの中に盛り込んでいる。

そこで驚かされることがあった。大人なら重くて沈んでしまいそうになる着衣水泳も、幼い子どもにとっては『楽しい』の一言に尽きるらしい。水着一枚の時と変らぬ勢いで泳ぎ、洋服の重みも水の抵抗もまったく感じていない様子。むしろ、洋服の背中の部分に入りこんだ空気が『浮き』の役目をしてくれ、浮具なしで長い間水面を泳ぐことができる。靴をはいていても、足の動きがスローダウンすることはない。

それでも消費カロリーは高く、体力の消耗もかなり激しいので、着衣水泳を行った日のベビーは、普段よりも良く食べ、疲れ切って良く眠る。あまりにも疲労度が高く、逆に病気への抵抗力を鈍らせてはいけないと、着衣は、40分間のレッスンのうちの、最初の15分程度に押さええるようにアドバイスをしている。が、ベビーは洋服を脱ぎたがらない。体の周囲にまとわりつく洋服。ひらひらとまるで踊っているよう。浮力もいつもよりある。自分の体がぷかぷかと浮く感じ。おまけに温かい。脱ぎたがらないはずだ。着衣水泳をしていると、徐々に体力もついてくる。本当に強くなる。

お教室卒業となる三歳の誕生日までの半年間、着衣水泳を経験することによって、万が一水にドボンッという場面に遭遇してもあわてない。毎年夏になると必ず起きる水難事故は、『動揺』が冷静さを失わせる。高い泳力を持ちながら水中で力絶えてしまう人がいるのはそのせいだろう。プールで泳ぐことがもたらす様々な恩恵......泳力、涼しさ、楽しさ、体力増進、心身の疲労回復とリラクゼーションなど。それらに加えて、『自分の身は自分で守る』という『水中護身術』もまた、水がもたらしてくれる恩恵ではないだろうか。

とはいえ、プールの衛生管理上、衣類を着用したまま水に入ることを許可する施設はこの日本にはまだまだ少ない。また、学校教育の中でも着衣水泳の授業はせいぜい一、二回。泳力を身につけることに重点がおかれ、何か肝心なことが忘れられているような気がする。また、思春期になれば水着姿になること自体に抵抗を感じる学生もいる。ならば洋服を着たまま泳いでもよいのではないかと思ってしまう。その生徒は、泳力こそ向上はしないかもしれないが、水難事故から身を守るハウツーを確実に体得するだろう。速いだけでなく、いろいろな水泳のエキスパートがいてもおもしろいと思う。人生に役立つ水との関わりを、より多くの人々に見つけていただきたいと願う。(了)

山崎さんと長女 山崎さんの長女
「長女との初めての着衣水泳の写真です」と長崎さん。水と自然に戯れるお子さんに新鮮な驚きを受けたことが、乳幼児のためのアクアティクス教室をはじめるきっかけになったとか。

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