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オーシャンニューズレター

第3号(2000.09.20発行)

第3号(2000.09.20 発行)

沿岸環境保全における「個別性」の調査研究のありかた

東京大学大学院 総合文化研究科 広域システム科学科◆清野聡子

従来の沿岸環境保全の政策が、すべての地域で受け入れられないのはなぜか。定量化や普遍性を重んじるこれまでの調査研究のありかたから、今後は、環境保全の現場で生じている個別的で地域性の強い状況こそを調査研究すべきではないか。

日本の沿岸環境保全に関しては、さまざまな施策がなされている。しかしながら、特に地方部では依然として従来型の開発が志向されており、保全指向の国策との乖離がみられる現状がある。

国際的には、生物多様性保全戦略、干潟などの湿地保全に関するラムサール条約などへの対応が行われ、国内法としては、河川法は1997年、海岸法は2000年に環境保全を内部目的化する法改正が行われ、港湾法改正においてもその方向性が見出されている。さらに沿岸生態系と人間の接点として重要な水産業に関しても、現在策定中の水産基本法の中では水産資源の持続的利用のための生態系保全が位置づけ直されている。

国家的には環境保全の方向性を持ちながらも、「環境の良い地域」においては、その環境が地域経済に貢献する回路が見えにくいため、その扱いに窮している状態も見られる。

「都会から来る人にとっての風光明媚も、私たちにとってはあくびが出るほど退屈なものです」「開発が遅れてしまったから、稀少生物がまだたくさん生息しているのであって、そのせいで開発できないなら我県の経済は不公平を被ることになる」「いい環境は"銭"になるのか?あんたがそれを守りたいなら、わしらにそれを目に見えるように示しなさい。そうでないと自然保護の人の言うことは現実感がなくて信用できない」などの応答に調査中は頻繁に出会う。筆者のような生物研究者にとっては学術的価値、それ以上にsense of wonderを感じる自然もそれを擁する地域にとっては疎ましい場合もある。

それに対して、ビジターである環境保全サイドの人が「自然公園にしたら観光客が来ますよ」「良好な品質の魚介類は消費者が高く買い上げてくれて、それが将来的には漁村経済に役立つと思います」などの漠然とした回答を示すと、たちまち猛然と反発されることになる。それは、個人の明日の経済を考える人にとっては、夢物語にしか思えないからである。実際に「開発」の枠組みでは、地域の要求は具体的で、かつ従来型の政治システムがその実現可能性を提示し続けていたのに対して、現在のところ環境「保全」サイドが同程度に確実性を地域に約束できる社会的システムや資金源を持ち得ていないのだから、その指摘は当然である。

この対立的な構図を克服するために、エコツーリズムなどの産業を興して従来は相反しあっていた社会集団が、地域自然をもとに協働して活路を拓いてきた地域もある。襟裳岬でのアザラシの生息とサケ漁業、伊豆諸島でのダイビング観光、漁村でのホエールウオッチングなどが成功例として報じられている。それ以外はほとんどが失敗しているか、取り組んでいないかであり、実際には、良好な自然を地域が持て余しているのは真実であろう。行政が、成功例を営業さながらに他の地域に持ちこんでも受容されないのはなぜか?

調査研究のありかた

九十九里
人為改変が進み、日本では今や稀少となりつつある「砂浜」。浜千鳥が群れ遊ぶ波打ち際は郷愁となっていくのか(千葉県九十九里)

現在、沿岸環境の生殺与奪の権は漁業者の意思決定にあるといわれる。すなわち漁業権の行使の方向性が埋立などの開発の抑止力にも、時に促進力にもなっている事実は広く知られている。沿岸管理に関連する漁村の意思決定を調べてみると、公的なヒアリングやアンケートの結果、もしくは漁業協同組合の組織としての回答と、作業中などに非公式に耳にする漁業者個人のビジョンとが大きくずれることがある。本当は自分の漁場を壊されたくないが、組合の中では発言しきれない、とこぼす漁業者も多い。組合決議を全体意見とするのは開発側にとって有利な恣意的なシステムなのだ、という見方もあるが、筆者はそれ以前に、漁業者個人の意思を組み上げる方法論に問題があると考えている。すなわち、閉鎖性の強い集団のなか意見の集約や定量化を行う場合に特有な困難に注目すべきである。

特に個人ベースの自然観を組み上げるような調査が必要であろう。その場合、普遍的な調査研究の指標だけではなく、少なくともその社会集団が共有している自然観を見出して、調査対象者と意思疎通を図るべきである。例えば、漁村での自然観は漁業生物中心である。北部日本の沿岸漁業者にとっては岩礁帯の生物はウニ、アワビであって、それらの水産資源の量と質をもって生態系の状態を把握している。そういった自然観に対して、国際的な自然保護団体の評価基準や、学者が熱中する生態系モデルの話をしても、まず自然観の共有ができない。個人の心の琴線に触れないのである。

従来の環境保全策では、有用生物主体の農林水産業サイドの種や地域の個別性の強い価値観と、自然の絶対的価値を人類の共通財産として普遍性と考える環境サイドのそれが合致しなかったことが問題のひとつであったと考えられる。価値観は指標化しにくい。そのためのアンケートなどの定量化を目指した社会調査の方法論も開発されているとはいえ、地域固有の自然観を抽出するような個別性に対応可能な調査法や意思形成法が必要であろう。

環境保全の政策研究のありかた

調査研究の基礎をつくるアカデミズムのあり方を再考してみよう。日本では、学際、文理融合などと言われて久しいが、それでも理科系/文科系というふたつの文化が未だに統合が困難である。例えば環境科学においては、新しい研究の枠組みが必要で、学問のありかた自体を変えるべきだと言われてきた。超領域の必要性がうたわれるこの環境科学研究でも、実際は、何を研究すべきか、何を面白いと思うか、に対して、大半を占める理科系研究者の価値観が内容を規定していると考えられる。すなわち、定量化や普遍性、理論的統一性、演繹性など"LOGY"を重んじる精神風土からすると、環境保全の現場で生じている個別的で地域性の強い状況は「研究にならない」と判断されることが多い。そのため興味はあっても研究がなされない事態が発生する。確かに、普遍性も重要であるが、同時に個別的に有用な展開が保障されないと、現場にとっては意味をほとんど持たない研究内容になってしまう。個別性に即した帰納的な"GRAPHY"と呼ぶべき方法論である。例えば、geographyとgeologyの関係など、学問の発展段階として、GRAPHYによる事例研究の蓄積の上にLOGYが成立するといわれる。調査研究の社会還元の具体的方法は、政策提言である。まさにそれは普遍性と個別性のせめぎ合いの現場である。そうであれば、現在、環境保全政策の事例研究が少ない現状は基礎を欠くこととなり深刻である。

また、GRAPHYの特徴としては、地域や社会集団の個別性に積極的なまなざしを持っている点がある。これは、地域の環境保全計画の策定や、あるいは開発に関する合意形成の際に重要な論点を提示できる可能性をもっている。地域の当事者にとっては、政策の受容過程では世界の動向や国策よりも、自分たちの風土や慣例、精神世界にとって受容可能かどうかが大きな問題だからである。

今後、沿岸環境保全の政策研究においては、自然科学が追求してきた普遍性だけでなく、海辺の集落の個別性の意味、事例研究の意義といった方法論についても、議論が必要であろう。個人の意見の記述は、フォークロアであって一般性に欠けるというが、実際、漁法や家族の来歴などの要素でも多様化している。自然観や意見を汲み取る方法も、国や世界に通じる普遍性を意識しつつも、個別性に緊張感をもって臨むべきである。

日本最後の内海の楽園といわれる瀬戸内海西部、周防灘に面した大分県中津干潟の漁村で聞いた話が忘れられない。「数十年前までの干潟は凄かった。足元がきしむぐらい貝がいた。だから70年代には港湾工事に漁協は大反対したんだ。でも、工事が終わってから干潟は死んでしまった。あんたらはカブトガニとか稀少生物がいてスゴイ干潟だとかいうけど、わしらにとっちゃ漁業が成り立たない無意味な干潟だ。わしらには後継者もいないから早く埋め立ててくれと要望しているんだ。年寄りの多くはそう思うとるよ」。干潟のかつての豊穣さを語る同じ口から紡ぎ出される、破壊への希望。これを漁業者がプライドを捨てたと断罪することは可能かもしれない。様々な沿岸環境の保全政策の国や世界と現実の整合性の狭間で、海辺の人たちは人生の判断を迷っている。しかし、目前の干潟生態系の衰退が原因となった個々人の絶望感が集った結果の哀しい要望であるとしたら、普遍性をひたすら目指してきた海の調査研究や施策は、彼らのひとりひとりの心に何をし得るのだろうか。

 

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