Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第351号(2015.03.20発行)

第351号(2015.03.20 発行)

海遍路への道

[KEYWORDS]漁村巡り/新たな価値観の創出/シーカヤック
NPO法人海遍路代表、高知大学名誉教授◆山岡耕作

海の国日本の海辺を人力によるシーカヤックで巡る。
シーカヤックは、海から訪れるわれわれと自然と共に暮らす人々を瞬時に繋ぐ力を発揮する。海に生きる漁師に学び、発信し、自然と人のあるべき関係を紡ぎながら、未来に繋ぐ新たな価値観を創出する。
持続可能社会を担う若者の育成と海辺の再生と復活を目指し、2015年海遍路は、「有明海」へ漕ぎだす。


はじめに

四方を海に囲まれた日本は、南から世界二大暖流の一つである黒潮が流れ込む。黒潮はわが国に暖かさをもたらし、生物多様性の高い自然を育んできた。北からは、豊富な栄養分を含んだアムール川河川水が親潮に運ばれる。親潮は、金華山沖に世界的に豊かな漁場を形成する。日本を取り巻く奇跡的な海洋環境は、日本独自の自然と文化を発達させてきた。一方、排他的経済水域の面積も世界第6位であり、日本の未来を考える時、海との関わりは極めて重要である。
海遍路は、シーカヤックを漕ぎ、多彩な日本の海辺を訪問し、海に生きる人々と出会い、学び、記録する。自然と共に生きる価値観を地域の人々と共に発信し、地域間の交流を深めながら全国へと繋いで行く。さらに、若者に自然と触れ合う機会を提供し、シーカヤックをツールとした環境再生調査等の体験を通し、故郷への関心と愛着を育んでいく。全国の漁村を巡るというユニークなアプローチと持続可能社会の創生を担う若者との協働を通して、海の国日本の、自然と人のあるべき関係を探り、未来に繋がる新たな価値観の創出を目的とする。

海遍路の始まり

■ルソン島東北部シェラマドレ山脈沖を流れる黒潮。白い潮目の沖側を北に向け時速4キロで流れる。

■2011年から2013年にかけて3期にわたって行った「四国一周海遍路」

高知大学農学部では、私は野外潜水調査による魚類生態学を専門としてきたが、10年ほど前に学内改組により、新たに設置された文理融合型の「黒潮圏海洋科学研究科」に異動し、研究対象として「黒潮とそこに生きる人々」を扱うこととなった。しかし、源流域であるルソン島東岸についての情報はなく、特にルソン島北部東岸はシェラマドレ山脈が海岸沿いに連なり、道も通じておらず、目的地に到達する術もなかった。
思案していたある日、出張先の石垣島の地方紙で海洋冒険家の八幡暁氏を知る。彼はオーストラリアから日本まで、無伴走単独シーカヤックで、島嶼域に生きる人々の生き様を観る旅をしている。シーカヤックなら道のない漁村も訪問できるため、シーカヤックを用いた黒潮源流域の調査を一緒に実施することとなった。
2010、2011、2012年度の三回、各回約三週間をかけルソン島東岸南部アルバイ県タバコから東北端カガヤン県サンターナ間約千キロにある27漁村を訪問し、245名の漁業者に面談調査を実施した。シーカヤックで訪問した漁村では、何処でも歓迎され、度々飲食のもてなしを受け、調査にも大変協力的であった。質問項目の中で、われわれを感動させた回答があった。「大切なものは何ですか」という質問に対する答えは「家族」、「あなたは幸せですか」に対しては「はい」と9割の人が即答した。月収が2,000円から3,000円と経済的に恵まれない状況で、家族を大切にしながら自然の中で幸せに生きる黒潮源流域の人々。ものに溢れた豊かさのなかで、失ってしまった大切なことに気づかされた。
黒潮源流域と並行して、黒潮下流域の日本の海に生きる人々の調査を開始。2011年から2013年にかけて、「四国一周海遍路」をスタートさせた。高知県西端の宿毛市を出発し、反時計回りに進み、高知県、徳島県、香川県、愛媛県の漁村を巡り、宿毛市に帰った。
第一回目の高知県では、事前に各漁業協同組合の組合長にわれわれの訪問予定日時を報告し、組合員との話し合いの場を設定した。しかし、組合長からの指示で会議室に集まった漁業者からは、漁師の本音を聞くことはできなかった。以後、二回目の海編路からは、予告なしの訪問を基本とした。

海遍路

海遍路東北の目的地、気仙沼市西舞根に到着直後の海遍路仲間。
●海遍路HP http://umihenro.com/

それは香川県の瀬戸内海に浮かぶ小島の漁村でのことだった。漁港で出会った70歳前後の漁師がわれわれをワタリガニ漁に連れて行ってくれた。翌日再会した際に、「お前らが人力のシーカヤックで来たので親切にできたし、漁にも連れて行った。車やエンジン付きの船で来ていたら、口もきかなかったし相手にしなかった」と言った老漁師の言葉は、われわれが目指すところの多くを言い表していた。
四国の漁村を巡って、漁業のおかれた状況は厳しく、いわゆる三重苦、燃油の高騰、浜値の低迷、資源の枯渇に苦慮する現実があった。多くの漁村では、後継者の不足が問題となっていた。地元に若者が定着しないことの他に、親が息子を漁師にしたくないという話も多く聞かれた。多くの島で見られた、廃校となった立派な小中学校校舎。ここに海と共に生きる人々が生活し、子供たちの声が響く海辺の復活を目指している。
2014年5月、東日本大震災の被災地である宮城県名取市閖上から気仙沼市西舞根間の漁村を訪問した。世界三大漁場の一つである海に対する思いを、被災後の人々に聞きたいと思ったからである。迷惑になるのでは、との危惧もあったが、津波で村全体が流された集落でも、快く受け入れられた。人々の多くは「津波も自然の一部。震災前も震災後も海に対する思いは変わらない」「前の海は『太平洋銀行』で、その利子で食べさせてもらっている」と話し、自然の恵みで生き、畏怖を覚える人々の、曇りのない凄みのある言葉にふれた。牡蠣養殖をやっている若者によると、津波により漁場の底に溜まっていたヘドロが除去され、付着生物の生物多様性が高まり牡蠣の成長が良くなったということであった。被災地の海辺にも、自然をありのまま受け入れ前進する勇気ある多くの漁師がいた。

おわりに

国の内外を問わず、海と共に生きる人々は、海から人力で訪問するわれわれを優しく受け入れてくれた。その優しさはどこから来るのだろうか。それは、彼らが自然と共に生きている事が深く関わっていると考えられる。自然は人為を超えてわれわれを育む。時には恵みを、時には恐れを通して謙虚さを学ぶ。いつから日本人は、溢れる豊かさのなかで、大切なものを捨て去ってしまったのか。
「幸せ」と即答できる生活がすぐ横にある。海遍路は、自然と共に地域で暮らす素晴らしさを発信し、繋いで行く。各団体と連携しながら、若者と共に「海の国」の海辺の再生と復活を目指し、2015年は「有明海」を活動の場とする。(了)

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