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オーシャンニューズレター

第340号(2014.10.05発行)

第340号(2014.10.05 発行)

四日市の海と空ー公害裁判の意義

[KEYWORDS]公害/四日市裁判/社会のルール変更
名古屋大学大学院環境学研究科都市環境学専攻教授◆林 良嗣

かつて深刻な水質汚染や大気汚染を招いた四日市公害。その裁判の判決後、環境基準を超えて亜硫酸ガスなどを排出した工場は罰金あるいは操業停止となった。それ以前は、垂れ流せば流すほどに利潤が上がったが、この判決により垂れ流さない方が儲かるように反転した。
社会のルール変更によって大幅な環境改善を成し遂げたというエビデンスは、開発途上国での経済開発にも組み入れるべきである。

海岸線の変貌

1950年代半ば、わが故郷の四日市の海岸線には、白砂青松が広がっていた。その頃までの四日市の主要産業は、万古焼と呼ばれる陶器の製造や繊維産業であった。しかし、この頃から日本は高度経済成長にさしかかり、石油化学工業がそれを主導する基幹産業になっていく。四日市には多くの万古焼の窯元があったが、60年代は石炭窯から石油窯に切り替えが行われた時代で、主婦は洗濯物にススが付かなくなったと「近代化」を喜んでいた。海岸線では一方、石油化学の工場が次々と立地し始め、20kmほどある海岸線は、白砂青松から企業岸壁へと変貌していった。

空と海の環境変化

■大気汚染と海洋汚染を招く原因となった四日市の石油化学コンビナート(出典:(独)環境再生保全機構)

■第1コンビナート、2010年9月9日撮影(出典:四日市市)

伝統的窯業の「近代化」の背後で、こうしてできた石油化学コンビナートの工場群から、石炭から出るススよりもずっと恐ろしい、亜硫酸ガスという目に見えない、人を蝕む物質が排出されるようになったとは、誠に皮肉なことであった。夏に半袖のユニフォームを着てカッター(ライフボートの片側の舳先を切り落とした形をした訓練用のボート)の練習をしていて、雨が降り始めたときのことである。空気中の亜硫酸ガスを含んだ水滴状の硫酸ミストが腕に落ちてきて、ジュっという音こそしなかったが、白い斑点が腕にできた。これほど、亜硫酸ガスは濃かったのである。
一方、海は四日市海洋少年団に入団していた私がカッターの練習を始めた中学1年生の63年頃には、真ちゅう製のクラッチ(オールを支える器具)を落としても海底まで素潜りで取りに行けた。しかし、その後、工場から塩酸などが大量に垂れ流されて、四日市港の海域は魚などが棲息できない死の海と化し、スクリューの腐食を理由に四日市港への入港拒否も起きた。カッターの舵の軸受けも、親指くらいの太さから割り箸のように細くなっていった。
夏休みには、ほとんど毎日カッターの練習に出かけた。暑いので、中学生の頃には、練習途中でどこかの企業の岸壁に降りて、カッターに積み込んだウォータークーラーの氷水を飲んで休んでいた。ところが公害裁判が近づくに連れて、企業のガードマンに追い散らされるようになった。海洋少年団は、四日市海上保安部の庇護の下に練習を続けていたが、海上Gメンとも呼ばれて水質汚染の取り締まりを海上保安部が厳しく摘発していた頃であったので、その回し者と取られたようである。

公害裁判の日

四日市公害裁判は、72年の夏であった。その日、海洋少年団のカッターの練習に参加するために、津地方裁判所四日市支所の前を自転車で通りかかると、70m道路を挟んだ反対側の市役所の屋上には、望遠レンズの砲列があった。その日の海は、コーヒー色であった。
裁判は、四日市喘息の患者が6企業を相手取って起こしたのであった。それまで企業は、脱硫装置などの設備を備えるとコスト高になるため、それを怠ることにより利益を上げてきた。裁判で被告側は、「どの煙突から出た煙が誰の喘息を誘発したのかを立証できなければ、われわれに責任を問うことはできない」と主張した。しかし判決は、「共同不法行為」として、被告の主張を退けた。

迷裁判から名裁判へ

■四日市公害訴訟勝訴報告集会 1972年7月24日
(出典:(独)環境再生保全機構)

2001年の名古屋大学大学院環境学研究科の設立シンポジウムのテーマは、「四日市公害」であった。 そこには、4名のパネリストを招いた。公害裁判当時の厚生省公害課長、四日市市担当係長(後に助役)、三重県立大学医学部教授(原告側被害の科学的実証者)、被告側企業担当部長(後に社長)であった。
この企業の元部長は、「四日市裁判とは何であったのか? それは、企業の利潤関数の前にマイナス符号を付けたことです。裁判当時は、迷裁判だと思っていましたが、今となっては、名裁判であったと思います」と語った。そして、シンポジウム当時、全国各地の中学校、高校を巡ってボランティアで講演をさせてほしいと頼み、この意義を説いて回っていると語った。

判決の意義

判決までは、脱硫装置などを装備しない方が費用を節約できたが、判決後は、環境基準を超えて排出すると罰金あるいは操業停止となった。垂れ流せば流すほどに利潤が上がったが、判決により、垂れ流さない方が儲かるように反転した。その結果、空も海もみるみるきれいになり、公害裁判の翌年になると、オールの先に魚が当たって、カッターに飛び込んできたのには、感動した。
企業が営利追求するのは、本来的性質であり、それ自体が悪でも何でも無い。しかし、社会のルールが時代に適合しないまま放置されると、四日市公害のような悲劇が起こる。公害裁判後でも、四日市は公害激甚地区指定されたことにより大気・水質ともに急速に改善が進んだが、名古屋南部地区のように指定がなされなかったところでは、改善が遅れた。

開発途上国への伝達

四日市公害と、裁判に従って社会のルールを変更したことによる企業の180度の行動転換、その結果として大幅な環境改善を成し遂げたエビデンスは、長く日本の歴史に残して、アジア、アフリカなどの開発途上国での経済開発に当初から組み込まれなくてはならない。青い空と海を、次世代の人々に受け継いでいくことは、開発途上の時代から成熟社会までを実体験してきた世代が生きている現代日本の、世界に対する責務である。(了)

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