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オーシャンニューズレター

第29号(2001.10.20発行)

第29号(2001.10.20 発行)

瀬戸内水軍からみた21世紀への夢と期待

水産経営技術研究所特別研究員◆村上隆久

瀬戸内の海賊として知られる瀬戸内水軍は、文字通りに海の上を支配しただけではなく、海における厳格な規律によって、海洋民族としての歴史を築き上げてきた。時代は変わり、彼らの精神は忘れられたのだろうか。21世紀は新しい海洋の時代。海洋の基本的な価値を見なおし、国民に開かれた海、海洋活用の新しいルールが確立されることを期待する。

きらきらと光り輝く瀬戸内海を眼下に見ながら、愛媛県今治市側から"しまなみ海道"を入る、海上に長い橋脚が並び巨大なアーチを描く世界最大の三連吊り橋、来島海峡大橋を渡る。点在する緑の島々の間を多くの漁船やフェリーが行き来している。

橋を渡ると最初の島が大島、島の北側に宮窪港がある。漁港には小型漁船が所狭しと並んでいる、宮窪町漁協を訪ねる。海で働いている日焼けした青年漁業者に会って話しを聞いた。「ここの能島は、かっては村上水軍の本拠地があったところ。彼らは瀬戸の早い潮の流れで鍛えられた操船技術を駆使して瀬戸内海を支配していたのです。この早い潮の流れの中で育った魚は身がしまっており、近隣の漁場の中でも特に魚の味が美味しい」という。

瀬戸内水軍の歴史

この大島の宮窪には能島村上水軍の資料館があり、水軍ゆかりの品々が多数展示されている。水軍の根拠地となった能島城は、この宮窪の沖合い1千メートルにある小さな島、国指定の史跡となっている。風光明媚なこの水域は瀬戸内海国立公園の指定区域で、四季折々にここを訪ねる人々は歴史や遺跡に触れ、水軍の歴史やドラマを想い起こさせる"水軍の里"になっている。

瀬戸内海の海賊の歴史は古く、平安時代のはじめ西暦886年に"伊予宮崎村に海賊群居する"との記録がある。瀬戸内水軍が最も活躍したのは西暦1000年から1300年の頃、平安時代から鎌倉時代、南北朝時代にかけてである。

今治から対岸の尾道まで、"しまなみ海道大橋"を渡ると大島、伯方島、大三島、生口島、因島、向島と多くの島を渡って尾道へ、この間も多数の入り組んだ島々を目にしながら橋を通過する。

この島々で一大勢力をもっていた伊予水軍の勢力について、天下に覇を唱えんとする者は必ずこれを味方にとり入れなければならい、水軍はある時は官軍の義軍にくみし、ある時は官物といえどもこれを略奪し、ある時は倭寇として大陸に侵攻し、彼らの心胆を寒からしめた、これが伊予水軍の実態であり真相だと云われてきた。

とりわけ急な潮の流れで有名な来島海峡は、あちこちで渦まいて流れる潮の様子が見られる。ここはまさに航行する船舶の難所であり、海賊が活躍する舞台としてふさわしい海域だったのだ。海賊の本拠地、能島城もこのような条件を具備しており、これらの島は航行する船舶に対する海賊の格好の見張り台になっていた。居城には海賊独特の設備が施されており、その遺跡の一部は現在も残されている。

海賊は何をしていたのか

この瀬戸内水軍は、内海の船舶航行の要所要所に根城を設け、来島、能島、因島の3ヶ所に分かれて活動していた。彼らは平素から互いに気脈を通じ合い、事あるときは水軍として手柄をたて、平時は内海の船の航行を制覇し、また、時に乗じて中国や韓国の沿岸に押し寄せたと伝えられている。とりわけ戦が行われた時は彼らの制海権が大きな力を発揮した。伊予水軍は常に正義に味方することを忘れなかったと評価される。

平時における海上の覇権は、これらの海峡を通航する船舶は船ごとに帆別錢を納めなければこの海峡の通航を認めない、これは一種の通行税で、これを納めなければ直ちに武力に訴えるというものである。書物ではこの様子を、「海賊は、海峡の変化の激しい潮流の様子を一番よく知っており、この潮が急流する海峡で通航する船舶は彼らにはとても敵しがたい。もしまた手ごわい相手とみれば、海賊はホラ貝を吹く、するとたちまち、あちらの島影、こちらの浦から応援の船が次々と出場してくる、到底勝ち目はない。そこで多くは素直に帆別錢を納めて通航するのが通例であった」と伝えている。

これらの島の人々は航行船舶を警護したり、危険な水域では水先案内人として働いていたと思われる。もちろん、水軍も通行の安全を保障する代わりに帆別銭、警固料といった通行料を徴収し、これに応じなければ船舶を襲ったり、船の積荷を略奪することもあったと考えられる。

現在、われわれが高速道路を通行する際に通行料を支払うように、海賊も航行の危険な水域を安全に水先案内し、通行料をとるのはそれなりの機能や役割を果していたものと思われる。しかしながら、通行料を支払わない船舶を襲撃したり、積荷を略奪するといった行為はまさに海賊行為そのものであり、それゆえに海賊は恐れられることになったのだろう。

こういった瀬戸内水軍の歴史も海洋民族の生きてきた歴史そのものであり、そこには人々の生活があり、海洋民族としてのさまざまな伝統や伝承、文化が育ってきたのだ。

海洋の文化や知識、海のルールや安全にもっと関心を

今やマリンレジャーやマリンスポーツが盛んになり、海上のルールやマナーをわきまえない若者たちが問題にされている。しかし、これから国民の関心は、ますます海洋に向けられてくるだろう。海辺のキャンプや潮干狩り、釣りを楽しむ人々は増えつつある。さらにモーターボートや水上スキー、水上オートバイだけではなく、ヨット、ウインドサーフィン、遊泳、シュノーケリング、スキンダイビング、スキューバーダイビングなど、その分野はますます多様化している。しかし、海は一歩誤ると人命を失う危険な場所となる。先頃も台風の高潮で命を失う事故があった。広く国民に海洋に関する知識を深めてもらうとともに、もっと海の安全に関する知識やルールを知ってもらう必要があるだろう。

海賊の島が並ぶ芸予海峡に架橋された"しまなみ海道大橋"によって四国と中国が一体化し、島に住む人々の生活や文化が大きく変化しており、世の中の変遷は驚くべきものがある。さすがの瀬戸内水軍もこのような夢はみていなかっただろう。

来島海峡の激しい潮の流れはいまも変わらない。大型フェリーや多くの船舶が行き来するこの海峡の通過は現在でも危険を伴い、船舶や機器類の性能が向上し、灯台や航路標識、潮流信号等の施設が整備されたとはいえ、安全な航行がつねに遵守されている。

この潮の流れの急な漁場で漁船を操って日々漁業に従事している青年漁業者たちは、地域の活性化のためにも、これからは漁業や漁村を広く都市の人々にも理解してもらうための活動を展開していくのだと将来の夢を語ってくれた。私も村上水軍末裔のひとりとして、この青年たちを大いに激励するとともに、意欲的な青年たちの夢と活動に期待しながら、若い後継者が育つ島を後にした。(了)

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