Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第288号(2012.08.05発行)

第288号(2012.08.05 発行)

人と海の「心の距離」を取り戻すことはできるのか

[KEYWORDS] 里海/合意形成/持続可能
NPO法人水辺に遊ぶ会 理事長◆足利由紀子

人々のくらしの一部として存在していた海は、社会が豊かになるにつれ、閉ざされた存在となった。また、漁業の疲弊も、海と人の関係を遠ざける一因であった。
新たな時代となり、地域住民の干潟の保全への積極的な関与が求められる今、海と人の在り方を、漁業者はもちろん、様々な主体がともに議論し、合意をはかりながら進める必要がある。

閉ざされた存在になった海

■中津干潟

瀬戸内海の西端、周防灘に位置する中津干潟がその規模と環境の多様さで注目されるようになったのは、ごく最近のことである。面積約1,347ヘクタール、沿岸延長10km、大潮の干潮時には沖合3kmまで干出する、瀬戸内海最大の干潟である。かつてこの海を臨む台地には、吉野ヶ里(よしのがり)を超える規模の環濠集落※1があったという。豊かな山国川の水と遠浅で豊饒な海からもたらされる幸は、多くの人々のくらしを支えたのだろう。そして、海を介して瀬戸内の各地や大陸との往来もあったに違いない。古代の中津干潟は、今よりもはるかに栄えていたのではないかと想像すると、わくわくする。
ほんの少し前まで海と人は仲良くくらしてきた。ザルを片手に夕餉のおかずをとる人、竈(かまど)や風呂の焚きつけに松葉や流木を拾い集める子どもたち、春には近郊の集落からやってきた浜遠足の子どもたちの歓声が響き、夏には汗疹を防ぎ息災を願って潮を浴びる・・・・。戦後の食糧難を支えたのも中津の海だったと聞く。こうして、海は人々のくらしの一部として存在していた。海や浜の自然を享受し、その恵みの一部をありがたくいただく。昔から続く当たり前の生活こそが、「里海」であり「里浜」であると受け止めている。しかし、開かれた存在だった海は、社会が物質的に豊かになるにつれ、人の姿が消え、ごみが捨てられ、護岸で隔てられ、子どもたちにとって「行ってはいけない危ない場所」となる。人々にとって閉ざされた存在になってしまったのだ。

干潟漁業が直面する問題

■ササヒビ体験

一方、人々の足が遠のいても、沿岸漁業は盛んに行われていた。干潟がもたらす貝、海苔、魚等・・・、規模こそ大きくないものの漁業者の生活は潤っていた。中津干潟が高度成長時代の開発を免れて今に至る所以は、海を切り売りするよりも、海がもたらすものの方が圧倒的に魅力的だったことを物語っている。「とってんとってん(採っても採っても)アサリ貝が湧きよった」という高齢の漁業者の言葉通り、実に多くの貝類が生息し、漁業者の生活を支えてきた。ところが、昭和60年のアサリの水揚げ日本一をピークに貝類の水揚げは激減、たった数年でゼロになって今に至る。
採貝漁が半数近くに上る中津の漁業にとって、アサリ激減は大きな変化をもたらした。違う漁種に変更する者が増えると、当然、その漁獲数が増え、資源量が減る。漁獲の増加により魚価が低下するので、更に多くの漁獲をあげないと収入につながらない。こうして負のスパイラルにはまると、海域の資源量が急激に低下する危険性があると懸念する。これは水産資源だけの問題ではない。大量に生息していたアサリの減少で、干潟の浄化機能が著しく低下するばかりか、生態系のバランスが崩れ、生物多様性も低下するのである。また、一時的に陸に上がる者も少なくないが、こうした漁業者が増えることで、従来とは違う「陸の理論」も生まれてくる。わが地の漁業は、アサリの存亡と共に、岐路に立たされているのではないかと心配になる。
昭和40年頃まで干潟に設置されていた定置網の一種「ササヒビ」※2は、先端に仕掛けた網の中の魚は所有者のものだが、周辺のカニや小魚は、子どもたちが小遣い稼ぎに拾っていたという。建て干し網からこぼれた魚を、夕飯のおかずに拾いに行く人も少なくなかった。海が豊かだからこそ、多くの人が恩恵を受けることに寛容だったのだろう。しかし、漁業者の生活に余裕がなくなると、海は漁師のもの、よそ者が立ち入ることは許されん、という考えが強くなり、海はさらに閉ざされた存在になってしまった。

ともに考え行動するために

水産資源の保護や培養、水質浄化など、干潟や藻場の持つ機能が見直される今日、その優れた環境・生態系を保全するためには、漁業者だけでなく、国民も積極的に関わる必要性が説かれるようになった。水産庁が平成21年度に創設した環境・生態系保全対策においても、漁業者とともに地域住民の積極的な関与が位置づけられている。つまり、一度は閉ざされてしまった海と人との関係を再び築き直そうということだが、そこには、漁業者と地域住民の合意形成が必要となってくるだろう。
NPO法人水辺に遊ぶ会では、遠くなった「海と人のこころの距離」を取り戻すため、様々な活動を1999年より展開しているが、その中で、漁業者とともに漁業体験を実施したり、ササヒビの復元に取り組み、海域の保全の重要性を説いてきた。しかしながら、自然環境の保全や生物多様性の維持が、漁業資源の確保や漁業の振興につながるものであるという共通理解には至っていない。まだ、合意形成の入り口に立ったところなのである。
幸いにも、中津干潟には海岸における合意形成の成功例がある。小さなエリアではあるが、干潟に注ぎ込む河口湿地の保全と高潮対策事業という相反する事柄を、セットバック護岸(引堤)を設置することにより解決した。これは、地権者をはじめ自治委員や市会議員、地元住民、漁業者、地元NPO、大学研究者、自然保護団体、公募による一般市民、マスコミ、技術者、監督行政機関と、幅広いメンバーで構成された協議会により、5年という長い時間をかけて議論を重ねることで導き出した結果である。またこれらは、100%公開という、2000年当時は他に例をみない体制で行われ、各方面から高い評価をうけている。まさに、住民が主体となり、地域の沿岸の課題を解決したのであるが、その背景には、地域の土木行政のひたむきな努力や、研究者や技術者の緻密な裏付けがあったことも注目すべきであり、そこには、時間をかけて醸成された信頼関係があることも忘れてはいけない。
目先の利益ではなく100年先、1000年先の地域の在り方を、自分たちの課題としてとらえ、考え、行動していく主体は、その地にくらす人や生業をする人たちでなくてはならない。そしてそのプロセスを研究者や専門家、地域行政がサポートすることにより、より良い「里海」の姿が描き出されていくのではないだろうか。そのための努力を、海の恩恵を受ける私たちは続けていかなければならない。(了)

※1 環濠集落=幅4~5メートルの濠(ほり、(堀))を人為的に掘り巡らした集落。水堀をめぐらせた場合に環濠と書き、空堀をめぐらせた場合に環壕と書いて区別することがある。ルーツはそれぞれ長江中流域と内蒙古(興隆窪文化)であると考えられており、日本列島では、弥生時代と中世にかけて各地で作られた。
※2 ササヒビ=干潟に枝のついたマダケを垣根のように建て、潮の干満を利用して魚をとる漁法のひとつ。「中津んササヒビへようこそ」参照

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