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オーシャンニューズレター

第286号(2012.07.05発行)

第286号(2012.07.05 発行)

石狩湾の神秘的な現象―蜃気楼「高島おばけ」

[KEYWORDS] 海面温度/大気光学現象/光の屈折
小樽市総合博物館学芸員◆大鐘卓哉

北海道の石狩湾では、「高島おばけ」と呼ばれる蜃気楼が見られる。蜃気楼は、対岸の景色が通常とは異なって見えるとても神秘的な現象で、陸地の気温に比べ海面温度が低い春から初夏にかけて発生する。海面上の冷たい空気の上へ、陸上からの暖かい空気が移り流れ、その境界で光が屈折することによってこの大気光学現象は生じる。

石狩湾は蜃気楼の名所

■図1: 観測史上最大規模の石狩湾蜃気楼

上段は蜃気楼現象により、対岸の工場施設と海岸林の虚像が上方に反転して見え、空中都市のような風景が現れた。下段が通常の景色。(2008年6月23日撮影)

北海道小樽沖の石狩湾では「おばけ」が見られます。ただし、それは幽霊や妖怪のような奇怪な現象ではなく、海上で発生する神秘的な自然現象「蜃気楼」のことです。この「おばけ」の最初の記録は、蝦夷地を歴遊していた北方探検家の松浦武四郎の著書『蝦夷日誌』に記されています。彼はその著書に、1846(弘化3)年に船で小樽沖にやってきたとき、遠方の船や島などが大きくなって見え、景色が刻一刻と変わるのに驚いたこと、そして小樽の高島の地名をとって「高島おばけ」と呼ばれていることを記しました。
ここ十数年にわたる石狩湾での私の観測の結果、発生のシーズンである4月から7月の間に10回程度の蜃気楼を観測できることがわかってきました。一般の人が見ても「すごい」と感じるような大規模な現象は、年に1回程度しか観測できません。2008年6月に観測史上最大規模の蜃気楼が発生したときには、小樽から対岸に見える石狩湾新港周辺の施設が大きく形を変え、球形であるガスタンクが、ひょうたん、おちょうし、ワイングラスなどのような形に見えることもありました。さらに、工場施設の虚像が上方に反転したことで、まるで空中都市が現れたかのような風景に見えることもありました(図1)。
石狩湾の蜃気楼「高島おばけ」は、富山湾の「喜見城(きけんじょう)」やオホーツク海の「幻氷(げんぴょう)」といった蜃気楼と同じで、虚像が上方に見える上位蜃気楼というタイプの蜃気楼です。私が石狩湾での蜃気楼を継続的に観測し普及してきたことで、「高島おばけ」は多くの人たちに知られるようになり、石狩湾は蜃気楼の名所になりつつあります。蜃気楼が人々の海への関心を深めるきっかけになっているようです。

海風と陸風の出会い、そして光のいたずら

不思議な風景を作り出す上位蜃気楼は、光学と気象学で説明できる大気光学現象です。光は空気から水へ進むときにその境界で屈折しますが、温度の異なる空気との境界でも光は屈折します。下層の空気が冷たく上層の空気が暖かい場合、その境界を進んだ光は冷たい空気に引き寄せられるように屈折します。そのため、遠くの景色からの光が実際よりも上の方から進んでくるので、虚像が上方に見えます。つまり蜃気楼とは、屈折という光のいたずらによって、光は真っすぐに進むと感じ取っている我々人間がだまされる現象なのです。
それでは、石狩湾における上位蜃気楼発生のための気象学的な条件を紹介しましょう。まずは、天気が晴れることで、その日射により石狩湾周辺の陸地が暖められ、札幌などの気温が海面温度よりも10度ほど高くなることが重要です。次に、穏やかな南風により陸地で暖められた空気が石狩湾に十分に吹き流れることです。そして最後の段階として、沖合の冷たい空気が北からの海風となって暖かい空気の下へ潜り込むことです。この海風と陸風の出会いには絶妙なバランスが必要で、風が弱すぎてしまうとお互いに重なり合わず、強すぎるとお互いが混じってしまいます。上位蜃気楼発生には、多くの気象学的条件が重なることが必要で、稀にしか発生しないのはそのためでもあります。
上位蜃気楼とは逆に、夏のアスファルト面上に見える「逃げ水」のように 虚像が下方に見える下位蜃気楼もあります。下層の空気が暖かく、上層の空気が冷たい場合、遠くの景色からの光が下の方から進んでくるように見えるので虚像が下方に見えます。冬の晴れた寒い日に見える「浮島現象」はこの下位蜃気楼で、遠くの島影の下に空の虚像が見え、まるで島が浮いているように見えます。下位蜃気楼はいろいろな場所で頻繁に見ることができるので、特に珍しい現象ではありません。

大ハマグリの楼閣

蜃気楼が科学的に説明できる現象であると理解していても、実際に蜃気楼を見ると不思議さを感じてしまいます。ですから、科学的な原理を知らない昔の人々は蜃気楼を見て、さぞ驚いたのではないでしょうか。
紀元前の中国の書物『史記』の中に「海旁蜃気象楼台」という一節が記されています。「蜃」とは海中に住むといわれる想像上の生き物で、大ハマグリ、あるいは龍の仲間である蛟(みずち)とされています。その生き物が「気」を吐き出して高い建物「楼」を作るというのです。これが蜃気楼の語源で、本来の蜃気楼とは上位蜃気楼のことを示していたようです。
日本国内では、江戸時代以降に蜃気楼を題材とした絵画や工芸品が数多く輩出されたようです。浮世絵、絵皿、根付など多種多様な作品が残っています(図2)。それらの中に共通して表現されているのは、当時の蜃気楼の概念である「大ハマグリ」から吐き出される「気」の中に現れる「楼閣」です。蜃気楼は珍しい現象であることから吉兆の象徴として当時の人々に好まれていたと考えられます。実際の現象としては、東海道の宿場町であった三重県四日市から見えた伊勢湾の蜃気楼が有名でした。沿道の名所を紹介した『東海道名所図会』に記されたり、浮世絵に描かれたりすることにより、多くの人々に知られていたと考えられます。
かつて名所であった伊勢湾では、最近の蜃気楼の報告例は残念ながらほとんどありません。現代では、富山湾、オホーツク海、石狩湾の他にも蜃気楼の名所が日本各地にあります。北海道の苫小牧沖、根室海峡、大阪湾、さらには琵琶湖や猪苗代湖では、地元の熱心な観測者により上位蜃気楼を毎年観測しています。その他にも、時々日本各地から上位蜃気楼の観測情報が寄せられています。もしかすると、蜃気楼はそれほど珍しい現象ではないのかも知れません。蜃気楼に気づく人がその地域に居るかどうかという単純な問題である可能性があります。
春から初夏にかけての「ポカポカ陽気」の日に、ちょっと対岸をよく見てください。もしかすると「大ハマグリが作り出した楼閣」に出会えるかも知れませんね。その節は、ぜひ私に御連絡ください。(了)

■図2:蜃気楼のイメージを描いた浮世絵『春季蜃気楼』(二代目国貞)


中央には、大ハマグリから吐き出された「気」の中に楼閣が描かれている。

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