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オーシャンニューズレター

第284号(2012.06.05発行)

第284号(2012.06.05 発行)

新しい里海のまち・志摩と九鬼氏

[KEYWORDS] 里海/志摩市/九鬼氏
志摩市生活環境部長◆稲葉和美

志摩市は、地域の海の環境を保全しながら、水産業や観光業を通じて、その恵みを最大限かつ持続的に活用した「新しい里海」によるまちづくりをめざしている。今回は一つの切り口として、室町期の九鬼氏ゆかりの名所旧跡等に照準をあて志摩市の歴史遺産の再発見によるまちづくりのプランを考えてみた。

志摩市の取り組み

平成22年度大口秀和志摩市長の施政方針において、「稼げる里海」「学べる里海」「遊べる里海」が初めて示され、「地域の海の環境を保全しながら、水産業や観光業を通じて、その恵みを最大限かつ持続的に活用する『新しい里海』を作り上げる必要があることから、里海創生支援モデル事業や海の健康診断事業等の活用、沿岸域の総合的管理推進事業の実施により『総合的な沿岸域の管理』の推進手法の確立をめざして基礎づくりに努める」と表明された。政策開示であり、市民に対して決意を内外に示したものである。
この言葉に込められた決意と政治観に、ある戦国武将の旌旗を連想した。徳川家康の「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐしょうど)」である。現代の志摩市にもよく似た環境疲弊があるのではと感じる。為政者がいくら危機意識を前面に掲げ、対応を訴えても地域全体として取り組まないことには点と点の関係でしかない。これを線で結んで面に変えていく行程が必要である。家康が武士団だけでは戦闘能力に限度があるため、農民漁民等を幟旗のもとに戦の先頭に立たせたように、市民と一体となった取り組みが必要であることは今の世も何ら変わることはない。すべての市民が問題意識を共有し、それぞれの立場から改善・改革提案、地域の包括的振興策、ひいては恒久的発展への道程を提案できるまで意識の高まりを醸成していくことが理想と言える。今回は一つの切り口として、九鬼氏ゆかりの名所旧跡等に照準をあて歴史遺産の再発見とでもいうべきプランを考えてみた。

九鬼氏のこと

志摩国は、日本六十余州の中で最も小さな国のひとつで、伊勢神宮領など神領、寺領が多く、室町、戦国時代には志摩十三地頭が伊勢国司北畠(きたばたけ)氏の麾下にあった。『志摩軍記』によれば「磯部七郷には地頭がいないため、周辺の地頭から侵される恐れがあり、そこで百姓たちが波切の九鬼弥五郎を頼ったところ、紀州九鬼にいる舎弟の九鬼右馬允(嘉隆)を薦めたので磯部の地頭とした。ところが彼は国司北畠氏と結託し、志摩二郡を下すとの御教書(みきょうしょ)を得て十三地頭を攻撃し、持ち前の水軍力と権謀術数によって次々と斃し、兄の弥五郎も舅の主水をも攻め滅ぼして鳥羽城主となり、志摩一円を支配した」とある。九鬼氏は四代泰隆が鳥羽加茂の田城(たじょう)に城を築いた。六代浄隆は志摩七党に攻められ亡くなり、その子澄隆(すみたか)は叔父の嘉隆とわずかな郎党と朝熊岳の金剛証寺に逃れた。元来、志摩九鬼氏は操船に長け、九鬼水軍として頭角を現したのは嘉隆である。嘉隆は逃亡後、滝川一益を介して織田信長の幕下となり、信長の北畠氏大河内城(おかわちじょう)攻めで、水軍として参加し、志摩地域一円を平定、手中に収めた。以後、織田家の戦には水軍の責任者として参加、長島一向一揆の討伐、石山合戦には鉄張の安宅船6隻を主力とし、雑賀門徒衆や毛利・村上水軍を撃破した功により、志摩国など三万五千石を与えられた。信長死後は秀吉に服し、朝鮮侵攻では先鋒として功を挙げ、五万五千石に加増された。関ヶ原の戦いでは自身は西軍に与し、子の守隆は東軍に属した。東軍勝利により敗軍の嘉隆は答志島へ逃れ、守隆は父嘉隆の助命嘆願し、ようやく家康から許しを得たが、このことを知らなかった嘉隆は自刃。これにより九鬼氏は徳川幕府の、西軍の大名取潰し政策をかいくぐった。その後、守隆の子良隆が病弱のため相続問題でお家騒動となり、摂津国三田と丹波国綾部に分かれて封ぜられ、それぞれが藩祖となり、以降は幕府の雄藩取潰し策や国替えの憂き目にも遭わず明治維新まで続いた。志摩市には戦国時代から江戸期にかけての志摩地方を跋扈した土豪たちゆかりの名所・旧跡がいまなお多く残されている。これらの歴史遺産に光を当てて、市内外の皆様に認識を新たにしていただくことはできないものか。

稼げる里海・学べる里海・遊べる里海をめざして

昨年、志摩市商工会と志州隼人有限責任組合とが共同し、本市特産のハヤトイモ(さつま芋)を煮て干した「きんこ」という保存食を原料に蒸留した本格焼酎「志州隼人」を委託製造した。製造本数限定のためか人気上昇中である。3月29日には志摩ブランド第1号として認定された。このネーミングは言わずと知れた、前志摩(さきしま)地方の土豪であった越賀隼人にちなんだものである。ブランド化を志向するなら、一定量の供給が確保されなければ存立基盤が安定しない。そこで、現在耕作されていない農地にハヤトイモを作付することを提案したい。かつて、戦前から昭和40年代にかけてこの地域では栽培が盛んに行なわれてきた。また学校再編によって使用されなくなる校庭、校舎、給食センターを有機的に結び付けて活用することが可能となれば、原料の供給量も安定し、製造本数も増え、インターネットやFAXによる予約販売形式をとれば在庫量に見合った販売活動も可となる。何よりも、つい昨日まで使用していた施設があまり手をかけずに地域振興施設として生まれ変わることが可能だ。
志摩地方の歴史は、遥か天平の昔まで確実にその起源を遡ることができる。飛鳥、奈良時代を経て平安時代、鎌倉時代に熊野山の衆徒らの侵入略奪が相次いだため、人々は武装化していき、戦国時代には前述したような歴史の経過である。市民の多くは、信長、秀吉、家康が勝者の立場から書かれた物語を広く読まれているのではないか。彼らの事績の中で、九鬼嘉隆の果たした役割がいかに重要な部分を占めていたかを考察していくならば、これまでの歴史認識からとはまた違った側面が浮かび上がり、より一歩踏み出した戦国史観へと誘ってくれる。そこで歴史民俗資料館の展示の系統化、充実化を図り、志摩国の歴史の悠久の流れをより多くの人々に知って学んでいただくのはどうか。過去から現在に至るまで、杣人(そまびと)やら海人たちの暮らしてきた環境に思いを馳せ、これからの生業の方策に関するヒントが得られるのではとの思いがする。
最後に「遊べる」。こう銘打つとその範囲が前記の内容と重複・交錯して微妙である。月並みだが、市内観光地と組み合わせて前出の歴史的名所・旧跡を巡るウォーキングを計画してみてはどうか。志摩市には、日本神話にまで遡る地名や伝承、城砦跡、寺社仏閣、古戦場などが多く存在する。もっとも期待感ばかりを増幅させてもはじまらないから、観光イベント等の参加者にアンケート等で意向を探るのも次なる対処のためのプロセスとして意味があるのではないかと思う。もう一つは、英虞湾めぐりの観光船運航の充実である。現在の運航形態に加え、ナイトクルージングを取り入れると良いのではと思う。また、すこぶる奇想天外かつ唐突な発想だが、その昔、嘉隆公が建造し、愛用した風呂付の軍船安宅船「日本丸」を模した観光船を浮かべ、入浴、アルコール摂取可能な沿岸域遊弋(ゆうよく)のひと時を提供してはどうか。勝手な妄想は際限なく広がる。(了)

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