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第272号( 2011.12.05 発行)
第272号(2011.12.05 発行)

貝塚と大津波―縄文に学ぶ未来の景観

[KEYWORDS] 縄文/貝塚/津波
総合地球環境学研究所准教授◆内山純蔵

3月11日、東日本の太平洋沿岸を襲った大津波が、津々浦々の美しい村や町を人々の生活とともに呑みこんでいったが、東北地方の多くの貝塚は津波の被害を免れていた。
悲劇を繰り返さないためには、今後の地域のデザインを考えていく必要があると言われているが、歴史のかなたに埋もれていると思われている縄文人たちの生活と思想を学ぶところは多いと考える。

貝塚は残った

3月11日、大地震を引き金に東日本の太平洋沿岸を襲った大津波は、津々浦々の美しい村や町を人々の生活とともに呑みこんでいった。私は、この大災害から2カ月ほどたった5月下旬に宮城県の被災地を訪れる機会を得たが、風景のあまりの悲惨さと、これから長く続くと思われる復興への道のりを思うと、ただ呆然とするばかりだった。
大きな被害を受けた三陸地方の沿岸は、縄文時代の貝塚が多いことでも有名である。宮城県だけでも3百を数える。今回の大津波で、貝塚などの貴重な遺跡もまた、大きな被害を受けたのではないだろうか。私は、じつは、そうではないと思っていた。国土地理院などが公開した津波の浸水域が、貝塚の位置と微妙に食い違っていたのである。実際に、現地を見て回ると、多くの貝塚が津波の被害を免れていた。ある貝塚では復元された竪穴住居の横で自衛隊の人たちがキャンプしていたり、子供たちが遊んでいたりしたのが印象に残っている。

職住分離型の生活

■松島湾周辺の主な貝塚と浸水域。貝塚は海岸線近くに立地しているが、ほとんどが津波を免れた(朝日小学生新聞2011年10月24日一面掲載「縄文人に学ぶ職住分離」から転載)

環境考古学は、私の専門のひとつである。とくに縄文時代(1万6千年前から3千年前)の貝塚などから出土する動物や魚の骨などを手がかりに、当時の環境利用や景観を復元する研究にたずさわっている。
東北地方の貝塚は、およそ5千5百年前から3千年前の縄文中期から晩期にかけてのものが多い。貝塚は、教科書などでは縄文時代のごみ捨て場と紹介されているが、多くの場合、すぐ隣に大きな集落を伴っており、生活の中心になる場所だったと思われる。貝塚に含まれる動物の骨からは、当時の人びとがじつにさまざまなものを食料にしていたことがわかる。魚は、マグロやタイ、イワシなど外洋から内湾のものまで、動物には、イルカなどの海のものから、陸ではシカやイノシシ、クマ、ノウサギ、タヌキにいたるまで幅広く食されていた。宮城県の松島湾は、複雑に入り組んだ海岸線と島々で独特の美しい風景が広がり、日本三景のひとつに数えられているが、この地形が、縄文時代以来のものであることはあまり知られていない。縄文時代中ごろの日本の海岸線は、今よりも3~5メートル高く、内陸深く入り込んでいた。しかし、松島湾周辺では地盤が縄文時代以降、海と同じペースで沈んでいったため、当時の海岸線がほぼそのまま残っている。ここにも、貝塚が数多く、70個あまりが知られている。これらの遺跡は、海岸線にほとんど接しているように見える。しかし、実際は標高15~30メートルの高台にあり、被害を受けずにすんだ。このように、当時の集落の大半はいわば海と山の接点にあって、調査しても災害の形跡が見当たらない場合が多い。人が住んだ場所には、必ず何かの痕跡が残るもので、津波を受けなかった集落だけが今まで残ったわけではない。それでは、なぜ貝塚は被災を免れたのだろうか。
私は、その秘密が当時の生き方にあるのではないかと考えている。狩猟や漁労、木の実の採集など、自然の資源にそのまま依存して生きた人びとは、じつにさまざまな環境を利用していた。効率良く食べ物を集めるために、海にも山にもどちらにも行きやすい場所。それが、貝塚が高台に作られた理由なのではないだろうか。多様な環境を、いわば「広く薄く」利用していたために、津波や山崩れなど特定の場所をおそう災害から逃れられたのではないか。
一方、弥生時代より後になると、遺跡に災害の痕跡が目立つようになる。例えば、内陸に4キロメートルの場所にある仙台市の沓形(くつかた)遺跡では、今回、すぐそばにある高速道路が防波堤になったおかげでかろうじて被害を受けなかった。しかし最近の調査では、およそ2千年前の大津波によって水田が断絶し、以後4百年にわたって人が住まなかったことがわかっている。農耕中心の生活が始まると、水田などの耕作適地に集中的に投資が行われ、特定の環境を「狭く濃く」利用するようになった。生活の中心と仕事場は同じ場所に営まれ、生産の効率は上がり、人口も増えたかわりに、災害に見舞われるとすべてを失う弱さをかかえるようになったのである。特定の土地に執着するため、何度も同じ災害にあう傾向も生まれた。

人間の限界を認識する

縄文時代と弥生時代とでは、自然観が大きく違うと考えている。縄文人は、人と自然とを切り離さず、人の力が及ばない領域(あの世)を強く意識していた。人も食べ物も、「あの世」から訪れた客人であり、それぞれの役割を終えた後に、再び「あの世」に戻っていく。その客人を精一杯もてなし、にぎやかに送り出すとともに、再来を願う儀式が行われた場所こそが、貝塚だったのではないか。貝塚には、人も埋葬されている。集落にほど近い場所でこのような営みが繰り返されたからこそ、大きな塚となって残ったのである。弥生時代以降は、自分たちの管理下にある領域を自然からはっきりと区別するようになった。自分たちで食料を栽培し、自分たちで自然を変えることができる、そう思い込むようになったのではないか。
今の日本人の生き方は、弥生時代に近いようだ。弥生人が稲作に適した低い土地に集中し、自然を切り開いていったように、現代人も、仕事に通いやすい、便利な場所に人が集中し、極端な自然開発をおしすすめてきた。被災地の人たちが、もとの暮らしを取り戻したいと考えるのは当然のことである。しかし、悲劇を繰り返さないように、今後の地域のデザインを考えていく必要があるだろう。歴史のかなたに埋もれていると思われている縄文人だが、彼らの「広く薄く」環境を利用する営み、働く場所と住む場所を切り離す一方、自然からくらしを切り離さないという思想に学ぶところは多いのではないか。
今回の災害は、千年に一度のものといわれている。悲しみを乗り越え、長い目で地に足のついた景観を作り上げていくために、歴史を見渡して、遠い先人たちの知恵を活かすことが、今こそ必要になっているのではないだろうか。(了)

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