Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第26号(2001.09.05発行)

第26号(2001.09.05 発行)

海から見た防災

防災都市計画研究所名誉所長◆村上處直

地震に関する限り海上は防災上いろいろ優れているが、地震の際その優れた特性を活かすためには、陸上の施設との良い連携をとるなどシステム的配慮が必要になる。そのためには過去の地震の際どんなことが在ったかを調べ、それらに基づいたシナリオを検討しておく必要がある。

阪神・淡路大震災が発生した、その日、日米の防災研究者が大阪に集まっていた。

1995年1月17日、阪神・淡路大震災の発生した当日の朝、私は大阪のホテルで強い地震を経験した。それは奇しくも日米都市防災会議を関西で開くため前日から泊まっていたからで、当日はちょうど一年前のアメリカノースリッジ地震の日でアメリカ側から日程の変更を強く求められた日だった。

当時私は地域安全学会の会長をしていて日本側の責任者で、1月17日からの三日間を選んだのは一年以上前で、日本の大学の先生達にとってセンターテストの終わった翌日だったからであった。私は当然一年前のノースリッジ地震も阪神・淡路大震災も予測していた訳ではなかった。アメリカ側と交渉してアメリカからの出席者が半分になることを覚悟して決めた日程だったが、それでも37人が来てくれた。それは一年前のノースリッジ地震の効果で、彼らとしても発表したいテーマがたくさんあったからであろう。

地震が起ったのは朝5時46分で、テレビを点けたがなかなか様子が掴めず、早い朝食を摂るべくレストランに下りて行くとすでに大勢の会議参加者達がいた。そこでは朝の地震のことで騒然としていた。大学の研究室の若い人達や会議で責任のない人達はできるだけ早く現場に直行した方が良いということになり、タクシーを手配して出発した。私も責任者でなければ、飛び出したかったが、それはできず、まず初日の会議を開くことに決めた。しかし、会議を始めて間もなく、次から次へと訪れてくるテレビ局や新聞社の数がふえ会議の席に座って居ることができなくなってきた。私も11時のNHKのニュースを手伝うことになり、それまでの映像を見せられた瞬間、翌日はできるだけ大勢の参加者を現場に同行しようと考え、25人ぐらいの人間の移動手段を頼んでスタジオに入った。その結果9人乗りの車3台が手配され会議場に帰ると、他のマスコミ各社も車を出してくれることになり、翌日は全参加者で現地入りした。そして最終日三日目に総括会議をした。これらのことは日米の防災研究者の絆を一段と強め、日米都市防災会議はその後も着実に発展している。

災害時、海からの支援は非常に重要になるが、それをうまく機能させるためのシステムを前もって構築する必要がある。

神戸港
地震後、20日ほどたった時の神戸港。写真後方の船着き場は翌日から使用できたが、前方はまだ使用不可能な状態にあった。救援物資が届いても、船を接岸できなければ、海からの支援システムも機能しない。(95年2月11日撮影)

私は阪神・淡路大震災の現場は数えきれないほど通ったが、車で行ったのは1月17、18日だけで、その後は新幹線が開通するまでは、すべて関西空港から船で通った。

大規模震災が起った時、海からのアクセスは大切で、1923年の関東大震災のときも諸外国からの援助物資が艀を使って芝浦の桟橋に陸揚げされたという経緯がある。そのときのエピソードとして次のような話を聞いた。陸揚げ人夫が足りないために、被災者が勝手に取りに来るようになり現場の警察官が困って警視総監にお伺いを立てた。その時警視総監は自由に持っていかせて良いが、奪い合いにならないよう皆で分け合うように指導することによって混乱が回避できたということを、当時内務省の役人をしていた三好さんという方から聞いたことがある。

その後、港の震災時活用の調査をしたことがあるが、関東大震災の時使われた港湾施設は小さい船の陸揚げ用で現在使われているかどうか知らないが、当時は中国からの輸入貨物用に使われていた。その時感じたことは、最近港の施設が経済効率のため大型化して来ており地震災害のような状況で役立たせるためには、かなりきめ細かな対応策を検討しなければならないということである。

阪神・淡路大震災の時、神戸港ではせっかく耐震バースが三つ分も造られていたのに、同じ場所に並べて造ってあり、それに接続する道路が落橋のため使えなかった。工事をやる上では同じ場所に造る方が経済的であるが、都市空間のシステムとしては配慮が足りなかった訳である。もし三カ所別々に造っていればどれかが役立ったはずである。

また海上自衛隊が飲料水を艦船で運んで来たが、給水車が足りず市民には届かなかった。すなわちいろいろな物の関係性が良くなければ役立たないのである。

客船が避難場所や、救援隊の宿泊施設となっていたが、接岸していなければ乗り降りは大変だし、もし地震時に接岸していれば港湾の被害に巻き込まれる危険性もある。1980年のイタリア地震の時、客船が避難場所として使われていたが、避難施設が足りず何時までたっても客船として利用できず困るほどであった。避難者達は船上の生活は地震の心配もないし、食事が良いと語っていた。私の祖父が1906年4月18日の朝、アメリカ留学から帰国するため、停泊中の船の中に居てサンフランシスコ地震を体験し、船の上では強い揺れだったが何事もなく、それにくらべて市街地側の被害はものすごく、船を降りて見て廻ったという話であった。

地震に関する限り、海上は防災上いろいろ優れているが、地震の際その優れた特性を活かすためには、陸上の施設との良い連携をとるなどシステム的配慮が必要になる。そのためには過去の地震の際どんなことが在ったかを調べ、それらにもとづいたいろいろな場合のシナリオを検討しておく必要がある。今までの地震対策では海のことはあまり検討されてこなかったと言えるのである。(了)

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