Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第115号(2005.05.20発行)

第115号(2005.05.20 発行)

有明海で進む魚類生産メカニズムの荒廃

長崎大学名誉教授◆田北 徹

諫早湾干拓事業は、早くもマスコミの注目から遠のいたかにみえるが、その後の有明海では漁業不振が続き、大きな社会問題となっている。国は各種の事業で有明海再生を図ろうとしているが、海の生物過程は、環境の操作で再生できるほどには解明されていない。
魚類の生態を中心に、有明海における自然環境の一端を紹介する。

諫早湾奥部の干拓地。堤防の手前は現在の諫早湾、向こうの水域は調整池。

有明海の一部で進められている諫早湾干拓事業は、ギロチンというショッキングな映像で一躍社会の注目を集め、皮肉にも干潟環境の貴重さを認識させる気運を盛り上げてしまった。
その後の有明海では、赤潮や養殖海苔の色落ちなどが頻発し、漁業不振は大きな社会問題となっている。干拓事業と漁業被害との関係を認めた佐賀地裁が工事を差し止めたものの、農水省が事業をやめる気配はない。国の大きな力が働いて、将来の世代の環境が押しつぶされかけている。

有明海の環境

諫早湾を含む有明海は熊本・福岡・佐賀・長崎の4県が囲む1,700km2の内湾で、独特な生物の存在と共に、最大6mもの潮位差や広大な干潟など、他に類を見ない独特な環境があることで知られている。そのような特徴は長崎県諫早湾と、福岡・佐賀県が面する湾奥部で顕著で、そのどちらにも、ごく浅い海域と離岸数kmにも及ぶ広大な干潟が発達する。その後背地には大小の河川が流れ、その下流に有明海の潮汐が及ぶ感潮域※が発達している。感潮域の長さは、筑後川では23km、佐賀県六角川では29kmにも及ぶ。感潮域、干潟と河口沖浅海は一体の環境で、低潮時には干潟動物が活動し、高潮時には沖から来遊する生物も利用する。一方、有明海口部は千々石湾・八代海と隣接し、東シナ海に連絡する。したがって湾口部は外海的で、有明海は外海域から河口域まで多様な環境を擁している。

特異な魚類相

日本国内で有明海(諫早湾を含む)だけに生息する特産動物が23種もおり、国内の他海域では希な準特産種が40種以上もいる。特産種やその他の有明海に独特な動物は、すべて同種またはごく近縁な種が大陸沿岸にも生息しており、有明海の動物分布は、大陸と日本列島との地史的な関係を表している。魚類相も特異で、ムツゴロウなど7種の特産種も含め、生物学的にも漁業対象種としても重要な魚種が数多く生息する。

魚類の生活史および生育条件

感潮域に生息しあるいは産卵に来遊するエツと2種のシラウオ類は、適切な底質の存在と淡水流入量が常に大きいことが生息・産卵条件と考えられる。泥干潟に生息するムツゴロウなどのハゼ類は、坑道を掘るための緻密な泥の存在が生育条件の一つである。河川感潮域または干潟周辺で産卵する魚種はもとより有明海の様々な海域で産卵する魚種の多くも、稚魚期に湾奥部の河川感潮域から浅海に至る水域で生育する。仔稚魚が湾内のさまざまな海域から湾奥部に移送され、湾奥部の激しい潮流のもとでも沖へ流出しないように、何らかのメカニズムが働くと考えられる。感潮域、干潟や浅海域に産すカイアシ類その他の動物プランクトンの豊富さが稚魚の生育条件の一つであろう。有明海は外海に近い環境から陸水の影響が強い環境までを包含し、魚類に多様な産卵・生育・越冬環境を提供することで、豊富で特異な魚類相を成立させている。

魚類の生育を阻害する要素

最近の魚市場の閑散とした地物競り場 (佐賀県鹿島市)。

有明海では、古い時代から干拓が干潟動物の生息域を狭めてきた。干潟面積は、1978~1989年の間に13.6km2も減少した。ほとんどの流入河川では堰やダムから大量の取水が行われ、河床の泥化が進んで、感潮域で生きる魚類の大きな脅威となっている。流入河川からの川砂採取、有明海の海砂の採取、各地の港湾建設、炭坑跡の陥没なども魚類の生育環境を奪い、有明海の生物生産を圧迫してきたとみられる。漁業からの生物に対する圧迫も大きい。有明海のようなエスチャリー環境は、魚類の再生産場としての意義が大きく、産卵群や稚魚類の保護は漁業資源増殖の観点から基本なのだが、有明海の漁業の中にそのような考えはほとんどなく、産卵群や稚魚群が大きな漁獲圧にさらされている。海苔養殖は、広大な海面を養殖網で覆って水流を遮り、大量の薬剤を海中に添加する。貝類養殖は、対象種の選択的な養殖のため干潟に砂を撒き(覆砂)、あるいは干潟を耕して(耕耘(こううん))底質を変える。これらの環境撹乱が魚類の生育に悪影響を及ぼす可能性もあるが、1997年の潮止めで35.5km2の干潟と浅海を一挙に消滅させた諫早干拓事業の影響規模は特に大きい。広大な魚類生育場を消滅させた上、潮止め以後に観測されている潮流、堆積物分布および底生動物分布の変化は、魚類の回遊路と餌生物の分布に憂慮すべき状態をもたらしている可能性がある。有明海の自然・漁業および諫早湾干拓事業に関しては、次のHPに詳述されている(http://www.h5.dion.ne.jp/~n-ariake/)。

有明海の再生

有明海を再生する方法としてさまざまな工学的技術が考えられている。諫早湾の潮止め以後観測されている海水流動の停滞を回復させ、赤潮発生や低酸素層の形成を低減させ、干潟を造成しようという技術である。このような技術で、物理・化学的な異変は見かけ上は回復できるであろうが、それが生物生産の再生に結びつく根拠はほとんどない。それどころか、工学的操作が二次的な負の影響を生物にもたらす事態も考え得る。海の生物過程は、環境の操作で再生を考えられるほどには解明されていないのである。人工干潟に生物が生息し始めても、生物過程の回復とはまだかなりの乖離がある。また、漁業振興という名目で行われる人工干潟の造成や干潟と浅海の覆砂や耕耘、海苔の生産をあげるための施肥なども、それが生態系全体に及ぼす影響は解明されてはいない。海水という媒質の中で、すべての要素が相互に影響し合いながら生物過程が進行する海洋では、陸上の農業のように単一生物への生産努力の集中はあり得ない。海洋生産における基本は自然環境であり、生物多様性が守られてはじめて漁業・養殖業の発展と安定がかなうということを理解しなくては、漁業は自らの首を絞め、有明再生は夢物語でしかありえない。(了)

※ 感潮域=河川の下流域で、潮位の変化が及ぶ範囲。潮位差が大きい有明海に流入する河川では、感潮域が一般に長く、河口からの距離は筑後川では23km、佐賀県六角川では29kmもある。

第115号(2005.05.20発行)のその他の記事

Page Top