社会的起業が拓くアジアの未来
ジェンダー視点が起こすイノベーション
現地レポートシリーズ
Vol. 1
企業経営からエンジェル投資家へ
-日本・インドネシアにルーツを持つ女性がエグゼクティブの生活を捨てた理由
経済発展を続ける東南アジア諸国では、女性起業家の活躍が目立つ。最大の理由は日本と異なり企業などに雇われて働く機会が少ないことだ。特に農村部では、起業は女性が経済力を持つための唯一の選択肢と言える。
昨年3月に東京で開催された国際会議Women20(W20)は、女性の経済的なエンパワーメントや女性起業家支援の重要性を強調する共同宣言を発表し、G20議長国のトップである安倍晋三首相に手渡している。笹川平和財団はW20をスポンサーとして支援した上、女性起業家支援に重要な「ジェンダー投資」に関する分科会の企画運営にも関わった。東南アジアでは、ミャンマー、インドネシア、タイ、カンボジア、フィリピンなどで、女性起業家の支援を行っている。
ジェンダーイノベーション事業グループ・松野文香グループ長は「途上国の女性、取り分け農村部では雇用主が身近にないため、起業は経済力を得るための現実的な方法です。女性の経済力が上がることで、家庭や地域、社会におけるジェンダー平等につながります」と話す。
今回はインドネシアの首都ジャカルタと郊外で現地取材を行い、この地域で働く女性起業家や、彼女たちを支援するエンジェル投資家、起業家支援の仕組みを取材した。高等教育を受け外資系企業などで勤務経験を持つ女性たちが、同じ国に住む貧しい女性たちの地位向上のため、ビジネスを通じた社会変革に取り組んでいる。
実はここで11年前に自爆テロ事件が起きている。2009年7月、ジャカルタの2つのホテルで自爆テロがあり、9名が死亡し多くが負傷した。報道によれば、外資系企業の経営者が集まる会合が狙われたという。
マリコ・アスマラさんは、この爆破事件で一命を取り留めたひとりだ。事件当時はマリオットホテルで爆破のターゲットになった会合に参加しており、両隣に座っていた人は亡くなった。マリコさんは1回目の爆発で遠くに飛ばされたことで、2回目の爆発の被害が少なかったそうだ。それでも大やけどと骨折を負い、回復には6カ月以上を要した。
事件当時、日系人材紹介企業のインドネシア法人のトップを務めていたマリコさんの人生は、これを機に大きく変わることになる。
提案が受け入れられ、マリコさんは同社インドネシア法人のトップとして忙しく働く日々が続いた。「家族が大切」と考えるマリコさんは、職場にフレキシブルワークの制度を取り入れるなど、従業員がワークライフバランスを取れる工夫をしてきた。冒頭に記した09年のテロ以降も経営トップとしての仕事を続けながら、マリコさんは心の中にあるもやもやは消えずに残った。
「なぜか、自爆テロ犯を憎むことができなかったの。自爆するなんて、本当に怖いことでしょう。それでもやってしまったのは、きっと『ここまでしないと自分のことを認めてもらえない』という思いが、犯人にあったのではないか。そこまで人を追い詰めてしまうものは何なのだろうと入院している間、ずっと考えていた」
マリオットホテルの爆破事件から6年半、JACインドネシアの経営者としての仕事がひと段落した2015年末、マリコさんは社長業をすっぱり辞めてしまう。それは、こんな理由からだ。
社長を辞めた翌年、マリコさんは車を売り払い、スーツやスカートを捨てた。今はスニーカーにジーンズ姿で電車に乗ってどこへでも出かけていく。アシスタントには、地方出身のインドネシア人女性を新たに採用した。
新しいアシスタントは控えめな人で「私でいいのですか?」と最初、マリコさんに尋ねた。「あなたがどんな人で、どんなことを考えているのか、ぜひ教えてほしい」とマリコさんは答えた。多数派のインドネシア人と一緒に働くことで、国の実際の姿に近づくことができる、という思いからだ。
試行錯誤を経てマリコさんは「エンジェル投資家」になる。きっかけは人づてに社会起業家支援を手掛けるANGIN(Angel Investment Network Indonesia エンジェル投資ネットワーク インドネシア)を紹介されたことだ。ANGINは社会起業家と投資家をマッチングしている。
マリコさんはANGINを通じて知り合った複数の企業に投資してきた。その中には、農村女性の手工芸品を扱うベンチャーや、零細起業家女性の資金調達をマイクロファイナンスで行うベンチャーが含まれる。2015年末から現在までに13件、投資した。その半分以上が社会起業家だ。投資額は1件につき平均4~5万USドル、最大で15万ドル。「今後はもっと増やしていきたい」とマリコさんは話す。
マリコさんの投資哲学は明確である。第一に教育や人材育成につながること。第二に「お母さんが将来を描ける」社会づくりにつながる事業であること。「お母さんがキラキラした笑顔になると子どもにも良い影響がある。そんな若い人たちが大人になった時、インドネシアがどうなっているのか楽しみだ」と考えているからだ。第三はインドネシアの下層が恩恵を受けられること。
自身が日本とインドネシアの双方にルーツを持つことも、マリコさんは強く意識している。 「自分は日本に助けられた。大学留学の際、日本政府の奨学金をいただいたこと。JACリクルートメントで差別のない企業文化の中、働くことができたこと。そして日本社会で差別されなかったこと。日本で受けた恩をインドネシアの国づくりに貢献することで返していきたい」
この価値観は笹川平和財団が東南アジア各国で行う女性起業家支援やジェンダー投資の考え方とも通じている。取材に同行した同財団ジェンダーイノベーション事業グループの矢橋佑華さんは、こう話す。「同じ国で生まれ育っていても、途上国・新興国では富裕層と下層の格差がものすごく大きいです。富裕層は日本人が想像もつかないような豪華な暮らしをしていますが、そのすぐ近くに裸足でその日暮らし、銀行口座も持たない人たちがいます。もし、彼・彼女たちの暮らしに多少のゆとりがあって、栄養状態がもっと良かったら長期的にものを考えたり、もっと学ぶことができるようになるかもしれません。女性起業家の支援を通じて女性が経済力を持つことができると、子どもの教育や栄養状態が向上します。だから『お母さんの笑顔』を基準に貧しい人たちが恩恵を受ける事業に投資する、マリコさんの考え方は素晴らしいと思いますし、民間の立場から社会的課題の解決に挑戦する方と共に持続的な社会を支えていきたいです」
(写真 Agus Sanjaya撮影)