螺旋階段を上るがごとく
中村の今に至る足跡を概観するとき、あたかも螺旋階段を一歩ずつ上り、経験と知識、ノウハウなどを蓄積しながらグレードアップしていく姿が浮かぶ。仕事に取り組む姿勢は、「粉骨砕身」という言葉がぴったりだろう。
東京生まれの中村は明治学院大学国際学部を卒業後、タイの国立カセサート大学に進み、社会開発を専攻し修士号を取得した。「タイ語のコースで、最初の1年ほどは宇宙に行ったような感じでしたが、最後は論文もタイ語で書いた」と言う。
その後の数あるキャリアの中で、幾つかを紹介する。1つは、国際交流基金のバンコク事務所であるバンコク日本文化センターで、専門調査員として知的交流事業を担当し、プログラムオフィサーの仕事を学んだことだ。
担った仕事の1つに、少数・山岳民族のハニ・アカ族に関するプロジェクトがある。ハニ・アカ族は中国雲南省からタイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムにかけ広範囲に居住する少数民族で、タイでは北部チェンマイ、チェンライ両県などに暮らしている。口頭伝承のみで、文字をもたない。
「ハニ・アカ族が一堂に会し自分たちの伝承を文字にして記録し、どこからどのように移り住んできたかということなどを明らかにするプロジェクトでした。笹川平和財団で今やっている事業の原点が、そこにあります」
その当時、東京本部のカウンターパートに、フォード財団で長い経験を積み、助成事業の立ち上げのために招かれたプログラムオフィサーの米国人男性がいた。
「プログラムオフィサーはどのように案件をつくっていき、草の根の人々をどう支援するのかなど、彼に指南を受け鍛えられました」
2002年に帰国すると、総合研究開発機構(NIRA)の研究員として1年間、「アフガニスタンの国家再建と復興開発への提言」のとりまとめに携わった。その後、都内の民間財団でインドに取り組む。中村にとり「第2の原点」とでもいうべきキャリアを積む。
「その財団には、国際交流基金でプログラムに取り組んだ実績を買われて入りました。南アジア、とくにインドで新しいプログラムをつくりたいということで、何をやるかということから始めましたが、基本は貧困層、支援団体にお金を助成し届けるというものでした」
インドの中でも、最も貧困に苦しむ地域を転々と歩いた。州でいえば東部の西ベンガル、ビハール、オディシャ、ジャルカンド、北部のウッタルプラデシュ、中部のチャティスガル…。
「インド人に話すと、『エーッ!』という所ばかり。カースト差別が厳しかったり、『アディヴァシ』と言われる先住民族がたくさん住んでいたりする所などです。広大な地域なので、例えばコルカタ(西ベンガル州)から始めて、最後にデリーに到着するまで3カ月ほどかかる。ローカルのスタッフを雇って電車で行き、団体を1つずつ訪問し、最貧困層の人達の村まで足を運ぶわけですから。体力も必要でした。そうやって助成先の目星を付け、適格性を見極めていった。助成した団体については2年目以降、助成金を適切に運用しているか調べる。とにかく鍛えられ、お陰でヒンディー語も日常会話なら話せるようになった」
日本から現地へ赴き、また日本へ戻るという生活が4年間続いた。訪ねた村は約200。そうした過程で多くの人脈もでき、知己を得た1人に、インドを代表する女性作家で歴史研究者のウルワシ・ブタリア氏がいる。彼女は現在、中村が推進する笹川平和財団の事業の協力者だ。

ウルワシ・ブタリアさん(前列中央)とナガランド州の作家たち
日本とインドを行き来した4年間、「自分の力不足も痛切に感じ、もう1回勉強してみたいという気持ちが湧いてきた。今度行くのであれば英語圏で、開発学の名門に行きたかった」と言う。中村が選んだ先は、英サセックス大学開発学研究所(IDS)だった。ここで2つ目の修士号を取得した。
帰国後、国際協力機構(JICA)の専門調査員となり、「民間連携室」と、インド事務所に約3年間勤務した。
「インドは外国からの干渉を非常に嫌がるお国柄で、特に国境地域の北東部には、外国の援助が入ることにも消極的でした。でもJICAのインド事務所にいるときにちょうど、友好・同盟国と積極的に組んでいくという外交の転換があった。それでインド事務所の私たちが中心になって動き、主に国境を越えた道路インフラの整備や、越境貿易などを活性化させるために調査を実施し、報告書を発表することにつながった」
紹介した中村のキャリアと経験は、ほんの一端に過ぎない。「これまで有期雇用しか経験したことがなく、また次のキャリアを考えなければいけないということを、ずっと繰り返してきました。今話すと全部繋がっていて、順風満帆のように聞こえるかもしれませんが、次にどうなるか分からないので、非常に悩ましいわけです」と振り返る。
そして2015年9月、中村はようやく笹川平和財団にたどり着く。かねてより旧友や知り合いが働いており、事業についても聞く機会があった。「面白いことができる」と思った。