Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第71号(2003.07.20発行)

第71号(2003.07.20 発行)

基礎的な海洋科学の発展の基盤としての大学院教育の充実

東京大学海洋研究所所長◆小池勲夫

海洋科学の発展のためには、海洋学の各分野における研究を充実させるとともに、全体を把握するための学際的研究あるいは統合的な大学院教育の努力を行う必要がある。現在、世界で海洋に関する大学院教育を最も組織的に行っているのはアメリカであり、わが国では研究・教育分野の脆弱性が懸念される。いまこそ海洋科学の基礎を担う大学院研究科・専攻の大幅な充実とそれに伴う組織替えが必要であると考える。

海洋学・海洋科学は、この50年の間に欧米の数多くの大学・大学院に学部あるいは専攻として設置されるようになった学問分野である。これは、それ以前に実学として教育されていた、海洋における生物資源や地下資源の開発・利用、安全な船舶の運航(海事)、国防等の海洋を利用する分野において、複雑な自然システムである海洋の基礎的な研究・教育がより必要になってきたこともその一因である。アジア諸国でもこれは同様で、中国あるいは韓国にも複数の海洋学を中心とした大学・研究科ができている。海洋学(Oceanography)から海洋科学(MarineScience)へと発展した世界の海洋の研究は、海洋のより統合的な理解を深めるために伝統的な海洋学の各分野(生物、化学、物理、地質・地球物理)を充実させ、同時にその全体を把握するための学際的研究あるいは統合的な大学院教育の努力を行ってきている。

充実した教育体制のアメリカ

現在、世界で海洋に関する大学院教育を最も組織的に行っているのはアメリカであるので、まずアメリカでの海洋科学の教育体制を見てみよう。大学院を持つ著名な海洋研究所である西海岸のスクリップス海洋研究所と東海岸のウッズホール海洋研究所はいずれもその歴史を20世紀の始めまでたどることができる。しかし、すでに述べたようにアメリカにおいても、現在、大きな規模の海洋科学の研究科あるいは専攻を持つ大学の多くは、第二次大戦以降の50年代から60年代の始めにかけて設立されている。ワシントン大学、テキサス農工大学、マイアミ大学、ロードアイランド大学などがそれにあたる。アメリカでは国内の海洋科学の研究・高等教育機関を束ねた全国組織(Consortiumfor Oceanographic Research and Education:CORE)があるが、ここが海洋科学における大学院教育に関して様々なデータを発表している(http://www.coreocean.org)。それによると、1998年にはアメリカの約20の主要な大学院で海洋科学(生物海洋学、海洋化学、海洋地質・地球物理、海洋物理学、海洋工学)を希望する学生数は約2,200名であり、その内、入学を許可された学生数は約600名、実際に入学した学生数は340名である。このアメリカにおける分野の分け方は伝統的な海洋学での区分によっているが、最近では、広義の海洋科学に、水産科学の一部、海洋政策、海洋資源管理、環境科学などを含める場合もある。しかし、この組織に属する大学の統計では水産科学、環境科学などの大部分は入っていない。

アメリカでは90年代始めに海洋地質・地球物理を希望する学生が一時的に急増したため、1998年の全体の入学者は1992年の450名に比べると減少しているが、他の分野では年毎の大きな変化は見られない。また、これらの大学で博士号を取った学生数は年間約150名であり、その内、約70%が大学あるいは政府海洋研究機関に博士研究員や教官、研究員として就職しており、民間企業に行くのは約10%である。さらに分野別の博士号取得者は、1995-1997年で内約30%弱が生物分野、20%強が海洋地質・地球物理、約15%が海洋化学、25%が海洋物理となっている。これらのデータは、アメリカの基礎的な海洋科学が学生にとって比較的魅力のある分野であり、また多くの学生が博士号を目指し、その後も研究職を志向していることを示しており、この力がアメリカが現在世界の海洋科学をリードしている1つの要因と考えられる。これらの大学院教育を支えているテニュア(Tenure:任期制でない身分保障を伴った教官ポスト)※を持った大学教官数は24大学では約1,070名(1997年秋)となっており、これに約260名の博士研究員が加わって海洋科学の研究・教育組織を構成している。

海洋科学関連の学科が分散したわが国

一方、四方を海に囲まれたわが国においても海洋の開発・利用は国益と深く結びついており、海洋の研究・調査は、明治以来、現業3官庁と呼ばれた水産庁、保安庁水路部、気象庁およびその前身が中心となって進められてきた。例えば、わが国における海洋利用の最優先の1つは水産資源であったので、国・県のもとに多くの研究・調査機関が置かれ水産資源の利用・開発が組織的に行われてきた。また、これらの機関における人的資源の供給の要請に対応して水産学はわが国の大学・専門学校における教育・研究において古い歴史を持っており、多くの卒業生をこれらの分野に送り出してきた。明治21年には東京水産大学の前身である大日本水産会水産伝習所が設置され、水産学の教育を始めている。また、現在の北海道大学水産学部、東京大学水圏生物学科の前身も明治の終わりには発足している。一方、水路調査、海洋気象業務などに対応したのは、理学部・工学部系の大学卒業者などであった。

しかし、わが国における基礎的な海洋科学の研究がまとまった組織として始まったのは第二次大戦後である。1962年に設立された東京大学海洋研究所は、欧米での近代の海洋科学の勃興にわが国が強い刺激を受けた結果である。東京大学におかれた海洋研究所では、教官は東京大学の理学系・農学系の研究科の協力講座として大学院教育に携わったが、大学院組織としての海洋科学は存在しなかった。現在でも東京大学では海洋関連の研究単位は多くの研究科・研究所等に点在しており、外からはその教育組織としての姿が見えにくい状態である。また、1962年には東海大学に海洋学部が設置され、わが国唯一の、海洋工学、基礎海洋科学、水産科学を含む学部・大学院組織となったが、これに続く海洋科学の大学組織は琉球大学の海洋学科を除いては生まれなかった。したがって、現在でも海洋物理、海洋化学、海洋底科学、生物海洋学など基礎的な海洋科学の幅広い分野に属する大部分の大学の研究者は、多くの理学系・農学系・工学系研究科などの研究科や大学の付置研究所に分散して研究・教育を行っている。

近年のわが国の産業構造の変化から、日本でも大学が従来の海に関する伝統的な利用形態である海運や水産といった狭い範囲から脱して、海洋の環境保全などより広い意味での海洋の実学を指向する動きがある。これは最近の国立大学改革の流れの一環でもあり、例えば東京水産大学と東京商船大学が統合されて東京海洋大学となることが予定されている。しかし、この場合も広い意味での実学に重点が置かれているため、アメリカのように海洋科学の基礎科学の多くの研究者が、海洋学部、海洋科学科をタイトルとする40以上の大学院研究科・専攻に属していることと比較すると、わが国における海洋科学の分散化の状態は際だっておりその落差は極めて大きい。

研究・教育分野における人的な充実をはかるために

わが国には大学における海洋科学をまとめた組織がないので、ここでは日本における海洋研究の中心的な学術団体である日本海洋学会の会員数をもとにアメリカにおける大学院教育と比較を行ってみる。海洋学会では10年ほど前に学生会員の制度を設けた。そこで学生会員への登録を海洋科学の分野への大学院学生の新規加入とし、さらに、学生会員から通常会員への移動を博士研究員を含む、この分野への就職と考えてその変動を見たのが下図である。学生会員は毎年60~120名が入会するがその数は増加傾向にある。また、その内約30~70名が海洋科学関連のポストに就職していることがこの図から推定できる。2002年の急増の多くは海洋関連の博士研究員の増加によるものであり、永続性のある研究職への就職は毎年30名以下と推定される。アメリカでは大学院の入学者が340名、また博士の学位を取って海洋科学の分野に就職する学生が年間約150名であるから、単純に比較すればアメリカの1/4程度の人的供給しか日本では行われていないことになる。ただし、この比較は統計が扱っている研究者集団の違いを含めていくつかの仮定があるので細かい議論は難しい。しかし、わが国において基礎的な海洋科学の大学院が極めて少ないことも含めて、海洋立国というかけ声のもとにおけるわが国の大学での基礎的な海洋研究・教育分野の脆弱性をこのデータは示していると思われる。

しかし、最近、大学等も含めて国の研究あるいは教育に関する政策は大きく変わってきた。すなわち高等教育の中でも大学院教育の重点化、各種の研究費による年限付き研究員の増加、民間との積極的な連携等である。これらの研究におけるいわば規制緩和とも言うべき施策によって、大学の研究・教育体制のフレクシブルな構築が可能になってきた。わが国における海洋科学は比較的新しい研究分野であるが、その研究・教育分野としての自立性はすでに備わっていると思われる。海洋科学の研究者・教育者が一つの組織にまとまり、学際領域として先端的・統合的な研究を行う場で大学院学生を育てることによって、将来性のある研究者を育成することができる。

これらのことから、わが国においては海洋科学の基礎を担う大学院研究科・専攻の大幅な充実とそれに伴う組織替えが必要であると考える。これは、昨年出された文部科学省の科学技術・学術審議会による「21世紀初頭における日本の海洋政策のあり方」に関する答申においても近年の海洋科学・技術の進展に対応し、大学院等における表に見える形での海洋関係の研究・教育部門の充実・強化に務めることが謳われていることとも合致する。(了)

■日本海洋学会の学生会員数、年間学生会員入会数、および学生会員から通常会員への変更者数の変動
日本海洋学会の会員数の変動

※ アメリカの場合、大学の常勤のTenure(テニュア)審査を受ける資格を持つ教官ポスト(Tenure-track,TTと呼ぶ)についた助教授などは、大学によって異なるが3~7年が審査を受ける最大猶予期間となる。この間に審査を受けてテニュアを得られれば継続して大学に在職することができる。しかし、この間は普通1年契約の更新で期間中にテニュアが取れなければ退職あるいは解雇となる。アメリカの大学教員のうち、テニュアを持っている教員は約25%であり残りの10%は審査待機中、残りは常勤であるが、このテニュア資格のないポストや非常勤教員などである。テニュアについては「アメリカの大学事情」(渡部哲光 東海大学出版会 2000年)により詳しい。

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