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オーシャンニューズレター

第60号(2003.02.05発行)

第60号(2003.02.05 発行)

瀬戸内海に魚たちの楽園を

元国鉄宇高連絡船長、現日本船舶職員養成協会教員◆萩原幹生

かつて美しく澄んでいた瀬戸内海だが、いまではすっかり濁ってしまい、「すなめり」さえその姿を見かけることはなくなった。かつての美しい海に将来再び甦ることがあるだろうか。まずは、魚の捕獲を禁ずる海域「禁漁区」を設定してみてはどうだろうか。

切り絵のイラスト
切り絵イラスト:萩原幹生

瀬戸内海は東西約450km、南北約7~60kmの広さがあり、その中に2千もの島が点在している国立公園である。2万年前の氷河期には地球は氷に覆われ、海水位は今より約140mも低く、瀬戸内海は完全な陸地だったという。ナウマン象の骨の化石が今でも漁網にかかることがある。現在の瀬戸内海ができ上がったのは約6千年前と言われている。

観光に来た中国人が「日本にも揚子江なみの大きな川があるんですね」と言った話を聞いたが、まさに海道である。この海道は昔から多くの強者どもが行き来してきた。古くは紀元前666年に神武天皇が御東征で来れば、紀元後95年に日本武尊が悪魚を討ったという云い伝えがあり、201年に神功皇后が三韓征伐の帰路に通っている。歌人柿本人麿が来たかと思うと、武将平将門や藤原純友らが戦い、平清盛が権勢をふるい、源義経がその平家を討ち滅ぼす舞台ともなっている。瀬戸内海の海賊には昔から手を焼き、信長も秀吉も家康も一目おいて朱印状なるものを下付してご機嫌を取ったが、その海賊も時代と共に変化していき、行き来する船を襲って物品を強奪することから、天下人の命を受ける御用船と化していっている。幕末の頃、咸臨丸に乗って渡米した水夫の多くがこれら海賊の子孫であった。そんな色々な歴史を刻んだ瀬戸内海も、その頃の水は美しく澄んでいたに違いない。

瀬戸内海は一体いつ頃から濁り始めたのだろうか。私の小学生の頃でも、まだそこかしこの海岸でカブトガニを見た記憶があるし、瀬戸内海のちょうど中央部に本州の宇野と四国の高松を結んで、宇高連絡船が走っていたが、私の乗務した昭和50年代にはミニクジラと呼ばれる「すなめり」が時々見え隠れしていた。「すなめり」が海面に顔を出すと翌日はどういうわけか必ず雨になった。その「すなめり」でさえも昭和60年に入ると、ばったり姿を現さなくなっている。

戦後の日本は目を見張るほどのすさまじい復興を遂げた。他の産業をリードする形で造船、海運も隆盛をきわめ、瀬戸内海は溢れんばかりの船が行き交い、外国船もどんどん出入りするようになった。それらの船が廃油を垂れ流し、ゴミを廃棄するようになってしまう。陸上ではコンビナート等からの有毒な化学薬品を含んだ工場廃水や住民の生活用水の垂れ流しが始まり、またゴルフ場や宅地が次々と造成され、山も平地も切り崩されて丸裸となっていった。その結果、植物で作られる栄養分がなくなってプランクトンが死に絶え、それを餌にしている小魚が死滅し、小魚を餌にしていた他の魚が愛想をつかして瀬戸内海から出ていってしまった。

最近になって海洋汚染防止法が施行され規制が厳しくなったが、それでも水はまだ澄んでこない。そしてようやく昨年あたりから海砂の採取も禁止された。これらのことが海の環境に悪影響を及ぼすということを今頃になって気づき始めたのである。全く気づかないよりはいいのだが、かつての「すなめり」が現れるような美しい海に将来再び甦ることがあるだろうか。

瀬戸内海を走りながらいつも考えていたことだが、思い切って瀬戸内海の一部に魚の捕獲を禁ずる海域を設定してみてはどうだろうか。禁猟区ならぬ禁漁区である。環境の美化に人類はもっともっと努力しなければならないことは当然ながら、まずは乱獲を止めて魚を呼び戻すことである。澄んだ水、陽光をキラキラと反射する美しい砂、ゆらゆらとゆらめく海藻類......。そんな海が戻れば群遊魚の小魚が集まり、海草には卵が産み付けられ、それらを主食とする「すなめり」は必ず帰ってくるに違いない。美しい海は魚が魚を呼ぶだろうし、近隣の漁師たちはそれらの魚を捕るのではなく、見せる手段に路線変更してみてはどうかと思うのだが、これは私一人の夢物語だろうか。

魚たちも実に頭がいい。住み良い海域だとわかればそこからは出ようとはしなくなり、数はどんどん増えていく。そして人間どもはそれを海上からでも海中からでも見て楽しむ......。食べる魚は大海か養殖に任せればよい。私の生きている間に、感動を覚えるような瀬戸内海を一度見たいものである。(了)

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