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オーシャンニューズレター

第603号(2026.03.20発行)

北極域研究強化プロジェクトArCS III

KEYWORDS 北極域の環境と社会/持続可能性/分野横断研究
東京大学大気海洋研究所教授、国立極地研究所客員教授、ArCS IIIプロジェクトディレクター◆羽角博康

日本における北極域研究のフラッグシップ・プロジェクトArCS IIIが2025年4月に開始した。本稿では、日本におけるこれまでの北極域研究プロジェクトの流れと特長を概観した上で、それらをArCS IIIにおいてどう発展させるか、そのためにどのような取り組みを実施するかについて紹介する。
日本の北極域研究
2025年4月に「北極域研究強化プロジェクト(ArCS III)」が開始した。本プロジェクトは、環境技術等研究開発推進事業費補助金事業として文部科学省により公募され、国立極地研究所を代表機関とする申請が採択された。
わが国における北極域研究は1950年代にさかのぼるが、同時期に国家事業として整備された南極地域研究とは異なり、長らく個人レベルで研究が進められてきた。これに転機をもたらしたのが、2011年に開始された文部科学省グリーン・ネットワーク・オブ・エクセレンス(GRENE)事業北極気候変動分野である。そこでは、激しく変化する北極気候とその全地球的影響の理解が目的とされ、自然科学と工学から300名以上の研究者が参画した。また、このプロジェクトの開始に伴って北極域環境研究コンソーシアム(JCAR)が設立され、わが国の北極域研究コミュニティが明確化された。続いて2015年に開始された「北極域研究推進プロジェクト(ArCS)」では、北極域環境に係るステークホルダーを念頭に置いた分野横断研究が推進された。特に、人文科学や社会科学がプロジェクトに取り込まれ、自然科学や工学との連携が進められた。2020年に開始された「北極域研究加速プロジェクト(ArCS II)」ではそうした分野横断研究がさらに広く展開され、北極域の持続可能性に関する具体的な成果が生まれ始めた。
なお、北極域研究におけるわが国のこのような分野横断の取り組みは、国際的にみて先駆的である。その後欧米でも同様の取り組みが開始され、その規模はわが国より大きいが、有機的な連携の実現においてはわが国が今も先んじている。
ArCS IIIが目指すもの
ArCS IIIを構想する際に念頭に置いたのは、ArCS IIまでの流れを受け継いで分野横断研究を発展させることと、その具体的な方向性として社会的課題の解決を明確に意識することであった。それを踏まえて、「北極域の環境と社会の変化に起因する社会的課題の解決に向けた総合知の創出」をArCS IIIのプロジェクトゴールと設定した。
従来も社会的課題自身に対する意識は存在したが、それは主に地球温暖化に伴う自然環境の変化が社会に及ぼす影響に限られていた。一方、構想時点にはロシアによるウクライナ侵攻が既に生じており、それに起因するさまざまな政治的社会的な変化は自然環境変化以上のインパクトを北極域内外の社会に与え始めていた。北極域に関連した社会的課題の解決を意識するならば、自然環境変化とは直接関係しない社会変化がもたらす社会的課題という視点も、北極域を統合的に扱う研究プロジェクトとして無視できない要素であろう。
社会的課題の解決は重要な方向性であるが、北極域の自然環境に多くの未知が残されていることもまた事実である。自然環境の理解を進め、それを信頼性の高い予測につなぐことも忘れてはならない視点である。わが国の北極域研究には国際的に高い信頼と期待が寄せられていると感ずる。その背景には、大型研究プロジェクト開始前から国際的に研究連携しつつ、データや知見の取得・公開を継続的に実施してきたことがある。この継続性を失うことは学術研究にとどまらないわが国の損失と言える。また、ArCS III期間中には北極域を対象としたわが国初の砕氷船である北極域研究船「みらいII」が就航し、未知の北極域自然環境を解き明かす手段が広がる。「みらいII」は国際研究プラットフォームと位置付けられており、国際的なニーズを踏まえた運用が企図されている。この機会に、自然環境の理解に向けたこれまでの継続的取り組みを格段に発展させてわが国の研究プレゼンスを高めるとともに、研究を通して北極域を中心とした国際社会に貢献する道を模索することも、ArCS IIIに課せられた使命であろう。
ArCS IIIの取り組み
上述のプロジェクトゴールに向けた具体的な取り組みとして、ArCS IIIでは3個の戦略目標を設定した。そして、それらの戦略目標を達成するための研究課題を10個設定するとともに、研究課題の成果創出を支える研究基盤を7個設定した(図)。ここでは、各戦略目標の概要に絞って紹介する。
戦略目標1は主に自然科学研究を通して達成される。ここで言う「情報創出」とは、研究ベースの科学的データにとどまらず、社会的ニーズに沿ったデータの付加価値化を指す。たとえて言えば、気象予報を気温や風速で示すにとどまらず、洗濯指数といった実用的指標に加工するイメージである。その意味において、研究課題の構成も社会的課題に直結する情報という観点に基づいている。従来のプロジェクトでは大気や海洋といった伝統的な分野により課題が分けられていたが、今回は温室効果ガスなど情報としての出口に基づいている。
戦略目標3は人文科学と社会科学に根差した研究課題を通して達成される。特に、今回は新たに歴史という視点を取り入れた。ロシアによるウクライナ侵攻をはじめ、社会変化やそれに起因する社会的課題には地政学的要因が大きく作用し、その背景の根本には北極域社会の歴史的成立過程が存在する。北極域社会の成立過程を理解しながらガバナンスや先住民に係る社会変化を捉えることは、わが国の北極域社会に対する国際的貢献や政策を考える上でも有用であろう。
戦略目標2は、戦略目標1・3に向けた取り組みと連携した分野横断研究により達成される。ターゲット領域は大きく陸域・海洋・沿岸に分けられる。陸域では、永久凍土融解など陸域環境の変化が居住環境や社会インフラにもたらす影響を広域的に可視化し、適応に直結する地理情報を提供する。海洋では、海氷を含む海況の予測を軸に、北極海の保全と持続可能な利用に向けた知見を提供する。沿岸では、陸域と海洋の双方から大きな影響を受ける沿岸コミュニティを対象に、持続可能な社会システムを探求する。
こうした研究を実施する一方で、北極域の環境や社会の変化に関する現状やその重要性に関する情報発信、および次世代の北極域研究を担う研究者等の育成もArCS IIIの重要ミッションと位置付けている。詳細は割愛するが、人材育成に関する特長的な試みを一点だけ述べると、将来有望な若手研究者に国立極地研究所特任助教という形のキャリアパスを提供し、メンターの指導の下で次世代北極研究のリーダーを戦略的に養成する活動を進めている。
ArCS IIIが2029年度末に終了するまでの5年間、こうしたさまざまな取り組みを有機的に連携させながら、プロジェクトゴールの達成を目指していく。(了)

■プロジェクトゴール、3個の戦略目標、10個の研究課題、7個の研究基盤からなるArCS IIIの全体像。個々の研究課題や研究基盤の実施内容に関してはArCS IIIのウェブサイト(www.arcs3.nipr.ac.jp)を参照されたい。

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