Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第603号(2026.03.20発行)

南大洋の炭素循環研究と長年の宿題

KEYWORDS セジメントトラップ係留系/沈降粒子/窒素循環
東京大学大気海洋研究所教授◆原田尚美

第33次南極地域観測隊(1991〜1992年)で南大洋にてセジメントトラップ係留観測を行ったが、機器の亡失により成果を出すことは叶わなかった。34年後、研究費を獲得し、若手研究者らの協力の下、第66次隊(2024〜2025年)で、第33次は開発されていなかった新たなセンサー類とともにセジメントトラップ係留システムの設置に成功した。第67次隊(2025〜2026年)で回収されてくる予定であり、東南極南大洋の炭素循環の新たな描像を捉えることを目指している。
南大洋の物質循環観測研究の挑戦と失敗
南大洋は基礎生産が豊富で、生物の光合成を介した炭素吸収量が高い海域である。日本の南極地域観測隊による南大洋海洋炭素循環の研究は、筆者が初めて南極地域観測隊に参加した34年前の第33次隊(1991~1992年)にさかのぼる。当時の南極観測事業計画は5年ごとの中期計画であり、第33次はその初年次として「海氷圏生物の総合研究」計画を開始した。目的は、「海氷および海洋表層での生物生産物質の海底への輸送過程の解明」であり、南極研究科学委員会(SCAR)や地球圏—生物圏国際共同研究計画(IGBP)にも資する観測研究である。筆者の派遣は、この目的を達成するため、セジメントトラップ係留観測を実施するためであった。リュツオ・ホルム湾の北側(64°S、38°E、水深4,983m地点)に重りをつけた係留系を海底から立ち上げ、水深1,000m、2,200m、3,400mにセジメントトラップ係留系を設置し、水深1,000mのトラップについては生物が主に作り出す有機物粒子を夏の期間だけ捕捉したのち第33次の復路で回収し、残り2つのトラップは第34次で回収しようという計画であった。大学院博士後期課程1年で乗船や観測の経験はまだまだ未熟である。現場を任された責任を感じながら係留系システム全体の準備に意気揚々と励んでいた。1991年12月21日、係留系を設置し、水中音響切り離し装置など各部の作動は正常であった。ところが、翌年2月27日、設置点にて回収を試みたが、系に搭載している3台の水中音響切り離し装置からの応答がいずれも全くない。焦りが募る中、何時間か捜索に時間を費やしていただいた。翌日28日も回収を試みたが他の観測へのシップタイムの確保もあるため、夕方に回収を断念した。第33次隊の福地光男隊長肝入りの観測計画。なのに観測機器は全て海の藻くずとなってしまった。重りと浮力のバランスが悪かったのではないか?部品間の接続部はしっかりできていたか?悔やまれることばかりで自分の未熟さを痛感するとともに、このような大きな失敗をしてしまい、もう二度と南極に来ることはできないだろう。そう思っていた。
海洋物質循環観測研究の再びの挑戦
それから27年を経て第60次隊(2018〜2019年)で2度目の南極派遣の機会をいただいた。この時は副隊長としてマネジメントが主な仕事であったが、現場に到着して生き生きと観測や設営仕事に精を出す隊員たちの姿を見てうらやましく思い、筆者は自らの研究テーマを持ってこなかったことを悔やんだ。封印していた自分の大きな失敗である第33次の観測を思い出し、「私は南極でまだ何の研究もできていない」そう改めて思った。それから急ぎ準備を進める。第X期中期計画にはサブテーマ2として南大洋の海洋観測も重点研究観測に含まれていた。南大洋で大きく変化する海洋環境が物質循環にどう影響を及ぼすのか? それを明らかにする研究に挑戦したい。そのためには再びセジメントトラップ係留系を準備する必要がある。職場を異動し研究に専念できる時間を捻出し、科研費の申請書を書く時間を作ることができた。採択された研究費で機器を購入し、一緒に研究を推進してくれる若手研究者に支えられ国立極地研究所の重点研究観測の端に加えていただいた。そして3度目の南極行きである第66次隊(2024~2025年)の機会を頂戴し、別働隊により東京海洋大学練習船「海鷹丸」でセジメントトラップ係留系を設置していただいた。その目的は、変化が現れ始め、かつ観測の空白域である東南極南大洋の環境変化を把握し、物質循環と海洋生態系(低次生態系)を結び付けるミッシングリンクを現場観測と数値シミュレーションから明らかにし、将来予測を含む包括的な実態を解明することである。
セジメントトラップ自体は34年前とほぼ変わらない形であるが係留系に搭載している観測機器は34年前と様変わりし、当時には開発されていなかった機器もある。その代表がセジメントトラップでは捕集することができない懸濁粒子を含む多様な粒子を定性・定量的に観測を行うセンサーである。ソニーが開発したインテリジェントセンサー(Event-Based Vision Sensor:EVS)で1/10,000秒の超ハイスピード撮影により、粒子のサイズおよび頻度分布と時空間分布、生物・非生物の分類推定を行い、世界に類を見ない粒子の定性・定量調査観測を実現したいと考えている。これまで未測定のサイズの粒子を捉えることが可能となり、セジメントトラップで捕集する巨大粒子の観測と併せて海洋生物由来の粒子全体量の推定に近づけるのではないかと大きな期待を寄せている。加えて、第60次で一緒に参加した塩崎拓平准教授(東京大学大気海洋研究所)も研究分担者として参画している。塩崎准教授は第60次で南極周辺海氷域にて亜熱帯海域に生息する窒素固定生物を世界に先駆けて発見してきた。本研究では、窒素系栄養塩が豊富にある南極の海氷下で窒素固定生物による基礎生産を再評価し、全く新しい南極窒素循環像を創り上げることを計画している。これらのアイデアは34年前には想定されていない生物地球化学循環のプロセスであり、古くて新しい命題にオールドファッションの機器と最新鋭の機器による観測で挑む。
上記のセジメントトラップ係留システムが、南大洋(インド洋側)より無事に回収され、沈降粒子試料やEVSセンサーデータが日本に戻ってきたら元素分析や同位体比に加えて環境遺伝子、ウイルス遺伝子、微量金属元素などの各種化学分析を計画している。得られたデータの解析から筆者の南極研究が始まるのだと考えただけでもワクワクしてくる。
近い将来、東南極・南大洋では温暖化の影響があらわになり始めるだろう。その直前のデータとして、今、南大洋で起きている海洋炭素循環の描像を世の中に公表するのだ。そうしてようやく筆者は長年の宿題を終えたことになる。(了)

■東京海洋大学練習船「海鷹丸」の航海(第66次南極観測隊の別動隊としての行動)にて行われたセジメントトラップ係留系の設置作業風景。

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