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オーシャンニューズレター

第59号(2003.01.20発行)

第59号(2003.01.20 発行)

竹島の領土権確立を

島根県隠岐郡知夫(ちぶ)村長◆大原正則

日本海に浮かぶ「竹島」は、歴史的に見ても日本固有の領土でありながら、戦後その領土権が不当に奪われている状況にある。全国民がこの事実をよく認識し、竹島の領土権確立に対する国民的運動の展開を切に願う。

「竹島」は日本固有の領土

西島と東島の写真
やや大きい右の島が西島、左が東島。

日本海に浮かぶ隠岐諸島は、本土から約45~80kmの沖合いにあり、四つの有人島と180余りの小島からなっている。そしてさらに遠く「竹島」がある。「竹島」は隠岐諸島の最も大きい島である島後の五箇村に所属し、同村の北西157kmの沖合い(北緯37度9分、東経131度55分)に位置し、二つの小島と数十の岩礁からなり、面積0.23km2の無人島である。

この「竹島」こそ、北方四島とともに、日本の固有の領土でありながら、その主権が行使され得ない状況となっている国境の島である。その領有権について、平成15年の現在も韓国との間で未解決のままとなっているからである。

どうしてこのような状況になってしまったのか。

前述のとおり、竹島は島根県隠岐郡五箇村に所属している。同村発行の「五箇村誌」によれば、「竹島」は古くから島根、鳥取両県の人々と深いつながりがあり、すでに室町、江戸時代から「鬱陵島(うつりょうとう)」とともに島根、鳥取両県人の「竹島」への往来が記録されているところである。

元和4年(1618年)には江戸幕府から許可を受けた米子の在人である大谷、村上両家が「鬱陵島」でアワビ、アシカ等の漁猟や木材伐採を行っていた。本土から、隠岐島を経て「鬱陵島」へ向かう途中の寄港地としてこの「竹島」に立ち寄っていたのである。そしてここでもアワビ、アシカ等の漁猟が行われていた。

明治20年代終わり頃から隠岐の島人が竹島で漁猟に従事していて、明治37年(1904年)には竹島でアシカ猟を行っていた西郷町の中井養三郎から明治政府に対し、領土編入及び貸与の願いが出された。これに対して政府は、明治38年(1905年)1月28日に閣議で同島を正式に「竹島」と命名し、島根県隠岐島司の所管とする旨を決定し、島根県の管轄に編入した。これによって「竹島」は近代国際法の無地主先占(国家が無主の土地を占有して領土とすること)により、領土権の確立がなされたところである。

そして、昭和14年(1939年)に五箇村の議会において「竹島」は同村の区域に編入されることとなった。ところが、第二次世界大戦後の占領下にあって、日本の行政権は本土に限っていて、対日平和条約の領土条項も何ら規定するところがなかったので、韓国側は昭和27年(1952年)1月、李承晩ラインを宣言するとともに、このラインの内側にある「竹島」を韓国側であるとして一方的に占拠してしまった。日本側もこれに対してその領有権を主張し、国際司法裁判所への負託を提議したが、韓国側はこれを拒否し、昭和40年(1965年)日韓国交正常化後も竹島の占拠が続けられ現在に至っているところである。以上が、「竹島」の所属する隠岐郡五箇村の「五箇村誌」に記述されている竹島問題の経緯である。

さらに、昭和53年(1978年)に韓国が領海12カイリを実施し、日本の漁船は「竹島」周辺の海域から締め出され、同海域で操業できない状況が現在も続いている。それによりわが国の水産業は多大な影響を受けているのである。

「竹島」の領土権の確立を願って、これまで隠岐郡五箇村を始め、島根、鳥取両県、両県の漁業関係者の政府に対する陳情等の活動が続けられている。しかしながら、北方四島の返還問題と竹島問題を比べると、政府の対応においても、国民の関心度においても大きな差があるように思われる。これは何故か。四方を海に囲まれた島国の日本に住んでいると、国境というものをあまり意識することはない。したがって国境を接することによる緊張感もないのが現実であろう。しかし、日本のように海洋によって他国より隔たれて一国を形成する国はむしろ例外的で、多くの国は、その領土の端に国境線をおいて隣国と接している。国によっては数国との国境線を有するところもある。そして国境を接することにより、現在もなお深刻な国家間の紛争が数多く見られるのは周知のとおりである。そこでは、まさに国境線が国の死活問題となっているのである。

■竹島周辺の想定境界線
竹島周辺想定境界線の図
資料協力:(社)海洋産業研究会
原典:米国国務省作成資料(なお本資料は1980年代に作成されたため、国名等は当時のまま)

領土権確立のための幅広い国民的運動を

わが国は、1983年に「国連海洋法条約」を批准し、領海12カイリ、排他的経済水域200カイリに定められている。さらには近い将来に大陸棚350カイリ自国管理時代を迎えようとしている。

このような時代にこそ、われわれ日本人にとって国境とは何かを見つめ直す必要があるのではないか。わが国の最前線に位置しているのが離島である。日本を取り巻く離島。そこが日本の国境である。この離島によって日本は守られていると言っても過言ではない。

「竹島」は、隠岐の北西157kmの沖合いに浮かぶ小さな島であるが、わが国の国防、漁業、経済水域や海洋資源の確保等を考える時、その与える影響は図り知れないものであり、「竹島」の領土権確立が持つ意味は、実に大きなものであると考える。

北方四島とともにわが国のもう一つの領土問題である「竹島」の領土権確立に対する運動が、島根県民はもちろん、全国民の悲願として大きく展開されることを願うものである。(了)

上/昭和29年(1954年)に竹島に立てられた日本領土の標柱。五箇村竹島と記されている。
中/アワビ、アシカなどの漁猟を行っていた島人たちの番所。
下/漁猟に従事していた隠岐の島人たち。昭和9年(1934年)6月、仮設住居があった東島の浜にて。
(写真提供:隠岐郷土館)

●島根県ホームページ( http://www.pref.shimane.jp)の「竹島関係」の項を参照。

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