Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第48号(2002.08.05発行)

第48号(2002.08.05 発行)

海にも「健康診断」の導入を

シップ・アンド・オーシャン財団海洋政策研究所 研究員◆大川 光

環境破壊を早期に発見し、適切な対応をとるためには、海洋環境モニタリングは非常に重要な意味をもつ。しかしながら、これまでのモニタリングは「結果」を監視するものが中心であったため、人間に例えるならば、体調が悪くなった後に診察を受けて、病状の程度を見るようなものではなかったか。これからは、具体的な症状が現れる前に必要な処置を講じる「予防医学的」発想への転換を図るべきと考え、『海の健康診断』と名付けた新しいモニタリングおよび評価手法をまとめた。

はじめに

海洋、とりわけわが国の沿岸域は水産資源の宝庫であり、自国内において動物性タンパク質を確保できる貴重なエリアである。21世紀初頭には、アジア・アフリカ地域を中心に世界的な人口爆発も予想されている現在、他国からの輸入に依存することなく動物性タンパク源を安定的に確保することは、食糧安全保障の観点からも大変重要であると考えられる。また、海洋環境は一旦破壊されるとその回復には多大な費用と歳月を要するため、危険を早期に発見し、適切なる対応を取る上で最も基礎となるモニタリングは、国家戦略から言っても大変重要な行為だと言える。

日本における海洋環境モニタリングの現状および問題点

海は、人体が行う食物の摂取から排出に至る一連の営みにも似て、河川等から流入する栄養塩を流れによって各部へ輸送し、食物網を通じて分解・生産・浄化を行っているほか、一部を漁獲により系外へ排出することによって、全体として環境のバランスを保ち、われわれに様々な恩恵を与えている。その仕組みは図1に示すとおりであるが、近年、沿岸域では生物の生息にとって重要な干潟や藻場を含む浅海域が消失し、生物による浄化や物質循環の働きが阻害されてきているなど、環境のバランスが崩れてきたところが多くなっている。特に閉鎖性の海湾においては、湾外との海水交換が小さいことなどから、この食物網による物質循環機能の低下は深刻な問題にある。

このような現状において、わが国では運輸、通産、環境、農林水産など、各行政の観点から様々な海洋環境モニタリングが行われているが、その多くは(1)調査項目が水質中心、(2)物質循環機能や生物生産機能を対象とした調査が少ない、(3)深さ方向のモニタリングが十分に行われていない等があり、加えて、これらモニタリングはそれぞれの実施体で特定目的のもとに行われているため、データは必ずしも総合的に分析されてこなかった。しかも最近では、行政における海洋モニタリングの予算は法律で規定されているものを除き縮小傾向にさえあり、火山噴火や地震といった国民の財産に直接損害を与える現象のモニタリングに比べてその重要性が必ずしも認識されてこなかったように思える。

■図1 沿岸域の基本構造(クリックで拡大)
■図1 沿岸域の基本構造

新しい海洋環境の評価 ―海の健康診断―の提案

このような現状を踏まえ、私たちは新しい海洋環境モニタリングのありかたとして、これまで個々に分析されてきたモニタリングのデータを相互に関連づけることにより、海洋環境を包括的に評価する仕組みとそのために必要なモニタリングを『海の健康診断』と名付け診断方法をまとめた。

同診断のセールスポイントは、(1)海洋環境を構成している海洋の構造と機能の両面から診断を加えている点、(2)現在各行政を中心に行われているモニタリングのデータを活用することで、基本的に行政に新たな負担をかけないで行える点、(3)同診断を大きく2段階に分け、濃淡を付けることで診断の効率化を図っている点などを挙げることができる。

まず、"海域の健康な状態"の定義として「物質循環が円滑で、生態系の安定性が大きいこと」とした。これまで環境基準やモニタリングに使われてきた環境指標の多くが、「濃度」等といった、ある特定の場所や時間における「点」の情報でしかなかったのに比べ、同診断では、ある「濃度」に至るまでの変遷もモニタリング項目として取り上げ、海洋環境を構成する機能や構造を総合的、系統的に見ていこうとするものである。

「海の健康診断」ではまず、診断の対象となる海湾が有する「体質」ともいうべき、地理的情報、気象的情報、社会的情報などの基本情報を把握した上で「物質循環の円滑さ」と「生態系の安定性」の観点からモニタリングのデータを整理し、調査及び評価を行うものである。具体的には前者は「流入負荷」「海水交換」「基礎生産」「堆積・分解」「除去」を、後者は「生物組成」「生息空間」「生息環境」に着目して現状の検査を実施する。

その手法は、1次検査として水産統計や法令などで実施が義務づけられている調査などの現存するデータで環境の経年変化の把握や必要に応じて簡易な現場調査を行い、各項目について「健康」、「不健康」のあたりを付ける。この段階で不健康であると判断された項目に対しては、「本当に不健康な状態と言えるか」の判断をもう一度、基本情報などを踏まえて「精密検査」(2次検査)を実施する。1次検査の診断の結果「一応健康」と判断されれば、今後の推移を見守るといった経過観察とし、精密検査は行わない。要するに検査の効率化を図るため、いきなり、全部の項目に対して、精密検査を実施するのではなく、まずは「目の粗いザル」で振るい、残ったものについて、再確認、精密検査を行う2段階の検査で構成している。

おわりに

これまでわが国で行われてきた主な海洋環境モニタリング調査は、高度経済成長期に公害問題が表面化した後に急速に整備されたものであり、その内容は海洋の環境を構成する個々の因子(構造を形成する因子)による動的な営み(機能)の「結果」を監視するものが中心であったと言える。人間に例えるならば、体調が悪くなった後に診察を受けて、病状の程度を見るようなものであったわけであるが、これでは自覚症状が出てから診察・治療が始まるため、多くの時間と労力を要することになる。これからは、「結果」だけではなく、結果に至る「過程」をも評価することにより、具体的な症状が現れる前に必要な処置を講じる予防医学的なセンスが重要になってくると思うが、そのためには、これまでの「人間を中心においた価値判断による様態把握」の考えから、「海本来が持つ様態把握」へとパラダイムを転換する必要があると考える。

加えて、海洋環境モニタリングは、長年記録を取ることにより、現状が「改善の途上にあるのか」、「悪化の途上にあるのか」の判断が可能となるなど、その価値が高まることから、長期間の実施を担保するためにも納税者たる国民にも判りやすい内容で情報を発信していくことが重要であると考える。(了)

■図2 「海の健康診断」の構成
■図2 「海の健康診断」の構成

第48号(2002.08.05発行)のその他の記事

ページトップ