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オーシャンニューズレター

第359号(2015.07.20発行)

第359号(2015.07.20 発行)

日本で船大工弟子入り修業

[KEYWORDS] 和船/技能継承/伝統技術の文書化
木造船研究家◆Douglas Brooks

木造船づくりの技術は、他の多くの職人技術の場合と同様に秘伝に包まれており、徒弟制度によって師から弟子へと伝えられてきた。現在私は、アメリカにおいて船大工として多くのプロジェクトを手がけ、和船の復活を願っている一人だが、その技術の継承と保存のためには旧来の徒弟制度だけでは無理である。
和船の図面を広い範囲にわたって蒐集、記録し、アマチュア造船家たちが伝統技術にふれることができる機会を増やすことだと考える。


日本の船大工との出会い

『職人の技法―佐渡のたらい舟』(鼓童叢書刊)

現在私は、アメリカにおいて船大工として多くのプロジェクトを手がけているが、その大半は、各地の博物館や地方自治体との共同企画によるもので、それぞれの地域に伝わる伝統船を復元建造し、その技法を市民に公開することを内容とする。具体的には、伝統船の構造に関する研究、技術の指導、そして造船の実践などを行っている。自分の手を動かして船をつくり出すこと、造船の指導を通して人々との接触を持つこと、自分が関わっているプロジェクトに関して執筆を行うことなど、多面な側面を持つこうした活動には心楽しいものがある。このほか注文による船の建造、またカナダのスキフ※から三本マストスクーナーに至るまで各種木造船の修復なども手がけている。
私がこうした道に入ることになった最大のきっかけは、1990年に大学の寮友の誘いによって彼の故国、日本を初めて訪れたことだった。この旅の中で幾人かの船大工たちに出会い、この不可思議で心引かれることの多い世界に初めて出会った。きわめて特異な技を持つ大工たちに出会い、しかもその技は古来の徒弟方式によってのみ伝えられてきたものであることを知った。やがてとある船大工に弟子入りして、1996年日本海に浮かぶ小島で今なお使われている珍しい小舟「たらい舟」をこの師匠の下で製作。2003年には、日本財団の助成によって鼓童文化財団より、初めての著作『職人の技法 ― 佐渡のたらい舟』を出版した。

木造船技術の文書化

以後25年間に18回の訪日を重ね、佐渡ヶ島、浦安、東京、青森、沖縄において5人の船大工に弟子入りした。さらに、合計45都道府県を訪れて50人以上の船大工をたずね、話を聞いた。私が教えを乞うた人々はいずれも当時70~80代で、どの師の場合も私以外に弟子はいなかった。20世紀は、木造船づくりにとって重大な意味を持つ時代であった。第二次世界大戦による社会の疲弊の中で旧来の船づくりの技術がもうひと世代長く受け継がれることになったが、1960年代以降、日本経済が急速に回復し、さらに成長を遂げていったことによって若い世代の男子たちが、新生日本の企業体制の中へと吸収されていった。こうして、木造船づくりが技術伝承のよりどころとしていた「弟子」というものの存在が、わずか一世代で消えてしまったのである。
木造船づくりの技術は、他の多くの職人技術の場合と同様に秘伝に包まれている。私が教えを乞うた棟梁たちのほとんどが紙に書いた図というものを用いず、記憶のみによって作業していた。時に作図が行われていることがあっても、図面は意図して不完全なままに残されているのだった。私は、木造船の設計図と造船技術の保存のためにできるだけ多くを文字化すること、すなわち、秘伝を書き記すことを目標とした。造船の知恵が今まさに消えようとしていることをだれよりもよく理解していたわが師たちは、文字化への協力に積極的であった。

三陸での取り組み

左/独特の湾曲をした柄が特徴の釿(ちょうな)
右/村上氏とキゴロシという作業する筆者(写真2点とも:Angela Robins)

私の日本における最近の取り組みは、津波の被災地三陸に残っておられる最後の船大工の一人である村上 央(ひろし)氏の仕事を記述することであった。村上氏は、三陸海岸でよく見られる小型漁船「磯船」の建造に取り組んでおられた。木造船の建造は私も日本各地で見てきたが、2011年前まで三陸はほかのどこよりも木造船が数多く集積している場所だった。ところが津波によってこの地域の漁船団の90%以上が破壊または破損の被害を受けた。津波の究極の犠牲者は、この地域文化だったと言えよう。
今、この地域一帯で復興作業が進められ、最小規模の漁港に至るまで、より大きく、より高い防波堤で守られ、インフラの整備が進められて、重要な産業である漁業がやっと元通りの規模に回復することが期待されるまでになったが、この津波によって、すでに引退していた村上氏が現役復帰することになったということは、皮肉な成り行きだった。震災以来村上氏は、およそ20隻の磯船を建造したが、先細りとなって終わってしまった。
今回のプロジェクトでも従来と同様に、船の設計や各部の寸法など村上氏のみが知る情報をできる限り詳細に記録していった。こうした情報は、製作者に密着して作業するのでなければおそらく記録することは不可能であろう。例えばさまざまな棚板の角度などの重要な情報はすべて作業場の壁に記されているが、それがどの板の情報なのかは明記されておらず、村上氏のみがその意味を理解することができる、といった具合である。そこにある情報を読み解くことはいかにも不可能に見えるが、それでもなお、自分自身木造船の製作者として私は、日本の船大工たちが自らの頭の中にある設計図を「墨付け」という形で簡潔に記してきたその創造性に魅力を感じずにいられない。墨付けは、一隻の船をつくり上げる上で必要な一切の寸法を記憶に刻み付けるためには欠かせない過程なのである。日本の船大工として最後の世代に属する人々は、戦後の激しい変化の時代に船をつくり続け、変わりゆく日本のあり方によく順応する能力を備えていた。村上氏は、ごく最近まで現役の船大工として働いており、現代式電動工具を用いながら、なお古来の技法を実践するだけのきわめて高い技量を身に付けていったのだった。現役時代を通じて常に、より効率よく造船作業を進めることが求められ、最終的に量産のファイバーグラス(FRP)製漁船との競争の前に屈することになったが、村上氏の造船技術の中で、特に電動工具を用い、接着剤を使用する技法は、アマチュアの間に船づくりを広める上で有効ではないかと思われる。

和船技術の継承に向けて

伝統技術による造船の復活はすでにヨーロッパやアメリカで行われており、これと同じことが日本でも起こってほしいと思うが、従来の徒弟制度では伝統技術の保存にはつながらないと思う。今必要なことは、和船の図面を広い範囲にわたって蒐集、記録し、アマチュア造船家たちが伝統技術にふれることができる機会を多くすることである。この三年間、私は高松市において瀬戸内国際芸術祭の一環として、また亀岡市みずのき美術館において和船づくりを行い、指導も行った。さらに今年はじめ、アメリカの大学において学生たちと共に二隻の和船の建造を行った。今後も続けて研修の成果を論文として発表し、また、さまざまな場所で和船の建造に関わり、技術の指導を行いたいと思う。それが少なくとも、私の師であり、船大工として最後の世代である人々が私に対して示してくれた寛大さに報いるために行い得ることだと思うのである。私たちは、先人たちの偉大な技を前にして臆するのでなく、この輝かしい遺産を受け継いでいくための手立てがそこにあるのだ、と考えなければならない。(了)

※1 スキフ(skiff):船首が尖り、船尾が四角の、一人乗りの甲板の無い小型平底船
● Douglas Brooks HP(英語/日本語): http://www.douglasbrooksboatbuilding.com/
● 本稿は英語で寄稿いただいた原文を翻訳・まとめたものです。原文は当財団HP(/opri/projects/information/newsletter/backnumber/2015/359_3.html)でご覧頂けます。

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