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Ocean Newsletter
第354号(2015.05.05発行)
- 国立研究開発法人日本原子力研究開発機構核融合研究開発部門増殖機能材料開発グループ◆星野 毅
- 鴨川シーワールド館長◆荒井一利
- 国立研究開発法人海洋研究開発機構深海・地殻内生物圏研究分野分野長◆高井 研
- ニューズレター編集代表(総合地球環境学研究所名誉教授)◆秋道智彌
日本発の「海の微生物革命」を目指して
[KEYWORDS]マイクロバイオーム(microbiome)/微生物革命/水産業国立研究開発法人海洋研究開発機構深海・地殻内生物圏研究分野分野長◆高井 研
近年の微生物学研究の一大トピックにマイクロバイオーム(微生物群集)研究がある。例えば私たちヒトの身体には、ヒトの細胞の1-10倍の数を誇る様々な微生物細胞が生息しており、それら微生物の機能が実は私たちが健康に生きる上でとても重要な役割を果たしている。
農業における土と作物におけるマイクロバイオームは、作物の増産や品質向上などの観点から研究が進んでおり「微生物革命」と呼ばれている。次は海の「微生物革命」が期待されている。
ワインの味は畑の土から
テロワール(Terroir)という言葉をご存知の方も多いと思いますが、もともとはワイン、コーヒー、茶などの品種における、生育地の地理、地勢、気候による特徴をさすフランス語です。同じ地域の農地は土壌、気候、地形、農業技術が共通するため、作物にその土地特有の性格を与えると考えられています。テロワールはその作物における「生育環境」ということもできますが、ワインやコーヒーやお茶にこだわりを持つ愛好家にとって、その言葉は、単に「生育環境」で片付けるにはあまりにも大きな意味や価値を持っています。そこには単なる植物の生育に適しているとか作物生産量が大きいといった学術的な「生育環境」だけでなく、味や香りといった食品の品質や計り知れない経済的な価値を生み出す社会的な「価値創造」までもが含まれるからです。
私は、漫画『美味しんぼ』(原作:雁屋哲、作画:花咲アキラ)が結構好きなのですが、その第35巻に収録されている「豊饒なる大地」編では、主人公の一人である海原雄山がカンガルー料理に合わせる力の強い赤ワインを探すためにブドウ畑を回りながら、その畑の土を食べるシーンが描かれています。海原雄山はおもむろに畑の土を口に含み味を確かめた後、「ブッ、こんな畑では力の強いワインはできん......」というセリフを吐きます。つまり畑の土を味見しただけで、そこから生産されるワインのテロワールを、その味と本質を、見抜くことができるのです。しかし実際のところ、海原雄山は畑の土の何を知覚したというのでしょうか?
2014年に米国科学アカデミー紀要という影響力の大きい学術雑誌に、「ワイン作りにおける品種、ビンテージ、気候が及ぼす微生物地理学」という論文が発表されました※。この論文はカリフォルニアの主要なワイン生産地での、ブドウ品種、ワイン生産過程、ブドウ園における微小気候の違いが、ワイン発酵初期段階におけるマイクロバイオームに明確な違いを引き起こし、それぞれワイン生産地での特徴的なテロワールの形成に大きな役割を果たしていることを世界で初めて示唆する成果でした。ブドウ果実のマイクロバイオームは、元々ブドウが生育する土壌のマイクロバイオームに由来し、生育過程において植物との相互作用と温度、降水、湿度や日照量などの微小生育環境条件によって形成されたと考えられています(図1)。
この研究は、数千年以上の歴史を持つワイン作りのなかで生まれたテロワールという「次元が異なる多くの事象から構成されるメタ概念」を有機的に結びつける重要な要素の一つが、土壌と植物におけるマイクロバイオームであることを示した画期的な成果と言えます。つまり、ワイン作りには「微生物テロワール」が重要であると。そう考えると、『美味しんぼ』マニアの私には、畑の土を味見した海原雄山はその類い稀な感覚で微生物テロワールを確かめていたに違いないと思えるのです。
農業における「緑の革命」から「微生物革命」へ
農業におけるマイクロバイオームの重要性は近年次々に明らかになっています。1950年代以降、灌漑技術の発展、作業の機械化・大型化、化学肥料や農薬の導入、遺伝子組み換えを含む作物の品種改良によって、世界的な農業生産は急速に増大し、人口増加を賄う食糧供給を担ってきました。これは「緑の革命」と呼ばれる現象で、科学技術の発展が世界的な人類の発展に直接的に貢献してきた顕著な例と言えます。ところが最近、この人為的な「緑の革命」は長期的には持続しない劇薬効果であることが分かりつつあります。つまり、環境の持つ調和的なエネルギー・物質循環や生態系機能を乱すような方法論は、長期的かつ大局的な観点から見た人類の発展に寄与しないどころか大きな損失となると考えられるようになってきました。環境調和型の持続的な農業生産の発展を目指して、土壌と植物におけるマイクロバイオームの理解とその有効利用を目指す研究は「緑の革命」に対するアンチテーゼとして「微生物革命」と呼ばれています。
マイクロバイオームの理解と制御による「微生物革命」は、すでに作物の収量の増加、病気や害虫の抵抗性向上、化学肥料添加の低減といった従来の科学技術の直接的な利活用としての生産性の拡大に寄与しているだけでなく、ワイン生産における「微生物テロワール」のような作物や食品の味や香りといった品質の向上やプロダクト・アイデンティティやブランディングの創成といった付加価値創造にも結びつく新しい科学技術の応用展開の可能性を切り開いています。
「海の微生物革命」を日本から発信する
翻って、私の研究フィールドである海に目を移してみた場合、現在のところ「微生物革命」の気配は感じません。しかし逆に言えば、それは計り知れない可能性が足下に転がっていることの裏返しと言えるのではないでしょうか。そもそも、「深海熱水域での原始持続的生態系の誕生と初期進化」や「暗黒の世界における地球生命の限界」といった研究をしている私が、なぜ自身の研究とはあまり関係のない「微生物革命」についてOcean Newsletterで力説しているのか?そこに新しい研究の可能性を感じていることに他なりません。
水産業におけるマイクロバイオームは、魚介類の養殖におけるプロバイオティクスや病気に対する抵抗性向上についての研究は進みつつあるようですが、魚介類の味や品質の向上といった付加価値創造に結びつく新しい研究展開はほとんど行われていません。インターネットで検索すると、岩手県大船渡市末崎町で獲れる高品質のワカメを育む海の様々な環境を「海のテロワール」と考えて、商品価値の創造や地元水産業の振興に活かそうと活動している組合もあるようです(http://niji-wakame.com/?p=152)。高品質の水産物を産する漁場に特有の「海のテロワール」があると考えることは生産者や消費者にとっても感覚的には捉えやすいことだと思います。私自身、その「海のテロワール」には海水に生息する微生物やワカメと相互作用する微生物といったマイクロバイオームが含まれるべきであり、味や食感、香りのような品質に大きな影響が与えている可能性があるのではないかと考えます。つまり、現在研究が行われつつある養殖業における「微生物革命」だけでなく、天然の魚介類の味や品質に決定的役割を果たす「生育物理・化学環境」や「海水と生物のマイクロバイオーム」といった「海のテロワール」が、産地における魚介類のプロダクト・アイデンティティやブランディングの創成といった新しい社会的「価値創造」に結びつけることができるのではないかと期待しています。そして、その「海のテロワール」研究や「海の微生物革命」が、わが国から始まることを強く願っています。(了)
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