Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第307号(2013.05.20発行)

第307号(2013.05.20 発行)

ホルムズ海峡の大島ケシム島に見るイランのソフトパワー

[KEYWORDS]ペルシャ湾の安全保障/ホルムズ海峡/対イラン経済制裁
同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科教授◆中西久枝

核開発問題で経済制裁下にあるイランは、2011年末、欧米のイラン石油禁輸措置に対抗し、ホルムズ海峡の封鎖を行うと宣言した。政治的にも軍事的にも、ホルムズ海峡は国際的な要衝であるが、ホルムズ海峡の重要性はそれだけではない。ケシム島における人々の自由な交流が経済活動を可能にし、経済制裁下にあってもイラン経済を陰で支えているのである。

はじめに

核開発問題で経済制裁下にあるイランは、2011年末、欧米のイラン石油禁輸措置に対抗し、ホルムズ海峡の封鎖を行うと宣言した。実際に海峡は封鎖されなかったが、その重要性が浮き彫りになった。世界の石油タンカーの3分の1以上、日本の石油需要量の8割の石油タンカーが、ここを通過する。そのホルムズ海峡には、数々の島々があり、その領有権をめぐってイランとアラブ首長国連邦が対立している。しかし、海峡の中央に位置するイラン領のケシム島ほど重要な島はないであろう。ケシム島は、ホルムズ海峡をコントロールするイラン海軍の重要拠点である。筆者は2012年9月、経済特区(自由区)の現状を視察するため、ケシム島を訪ねた。

東西貿易海路の歴史的な拠点―ケシム島

イランのペルシャ湾に面する港町バンダル・アッバースから、300人乗り程度の高速船に揺られて1時間10分、そこにケシム島がある。ホルムズ海峡が何と広大なことか、どれほど大きな艦隊が何百隻配備されようと、海峡を封鎖することは困難であろう。また予想外に波が荒かった。揺れが激しいので、船内を移動するのはむずかしい。波しぶきがザワーザワーとデッキに入って来る。こんなに水が入ったら船が沈むのではないかと思いつつ海峡に目をやると、難破船が幽霊のように漂っている。船体の左端3分の1だけが残り、海に浮かんでいる。
難破船を放置したままのところが、ホルムズ海峡の雄大さと自由奔放さを物語っている。ホルムズ海峡は、何千年も前から、海路の起点としてインド洋を越え中国まで続く重要な海路であった。この海峡の覇権をめぐり、多くの国家が興亡した。その中で遺跡として現存するのは、ポルトガルの要塞跡である。要塞跡はケシム島の北部にあり、ポルトガルのいわゆる大航海時代の栄華期の1507年に建築された。その後1621年、サファヴィー朝ペルシャの最盛期の王シャーアッバースが、要塞を占領し、ササン朝以来領有していたとされるケシム島を奪回した。

多民族が行き交うオールド・バザールと近代的モール

■ケシム島オールド・バザール前の路地でナツメヤシを売る女性。後ろ側に座っている女性は服装がパンジャービードレス風(筆者撮影)

ケシム島は、一言でいえば、「ここがイランとは思えない」という印象を与える。まずは、人々の顔立ちと言葉である。公用語のペルシャ語は通じるが、方言のせいか、テヘランで聞くようなペルシャ語とはかなり違う。
昔からあるオールド・バザールでものを売り買いする人々は、肌の色が濃く、服装も顔立ちも、パキスタン南部のカラチで見たスィンド人※のようだったり、オマーン人のようだったり様々である。実際に、パキスタンから出稼ぎに来ているという女性にも出会ったが、大半は地元の人たちである。地元の女性たちも、パキスタンのパンジャービードレスを着ている人が多い。パジャマ下のようなズボンに、ふわっとしたひざ下より長い色鮮やかなドレスをまとい、パキスタンで言う「ドバッタ」という大きなストールを頭からかぶって肩に流している。
ケシム島には、大型の近代的なショッピングモールもいくつかある。ケシム島の中央部にあるショッピングセンターに行ってみた。1階から5階までは普通のイランのショッピングモールと変わらない。ところが、地下に行くと、地下の食料品売り場の奥の方に、中国語の看板が立っている。数十メートルほど店舗が並ぶが、イラン人業者はひとりもいない。買い物をするときの通貨はイランのリアルだが、商いをしている人すべてが中国人で、みな中国語を話している。ペルシャ語の表記はどこにもない。日本の百円ショップが、衣類から子ども用の三輪車に自転車、家具から庭道具に至るまで拡大したような景色だが、すべてが中国製である。モールの地下の片隅の奥まったところにあるところが、何か怪しげな雰囲気を醸し出している。

のびやかな交易に従事する人的資本―ソフトパワー

インド、中国が、欧米が課すイラン禁輸措置に事実上それほど応じていないことが、イランへの経済制裁の効果を薄めていることは確かであろう。しかしながら、経済制裁が続くイランが概して物不足に陥らないのは、一つにはこうした中国との貿易がある。ケシム島はキーシュ島と並び、経済自由区となっている。経済の自由化はキーシュ島ほど進んでいないとイラン人外交官たちは言う。しかし、古くから中国、インド、ペルシャ湾、アフリカへと伸びる、海路の拠点のひとつであるケシム島は、経済特区などという用語が生まれる前から、自由奔放な貿易が脈々と続いてきた。対岸のアラブ首長国連邦は、基本的には親米国家である。だが、アラブ首長国連邦の一つであるドバイにはファールス(ペルシャの意味)・ケシム・エアーというイラン人が経営する航空会社が存在し、ドバイとケシム島はほぼ毎日便が飛んでいる。イラン人商人たちはドバイにこぞって投資をしている。アフリカやインド・パキスタンから出稼ぎに来た人たちがこの島で生活するのも、今始まったことではない。そうした人々とお金とモノの移動によって、フォーマル、インフォーマルの両方の経済活動が担われている。
ホルムズ海峡の封鎖には、イラン海軍が力を振るうとイランは主張する。そうしたイランを牽制するように、アメリカ艦隊がホルムズ海峡に停泊している。確かに、政治的にも軍事的にも、ホルムズ海峡は国際的な要衝である。しかし、ホルムズ海峡の重要性はそれだけではない。経済制裁下のイラン経済を影で支えるケシム島で自由な経済活動を可能にしてきた、人々の交流である。そこには、二千年以上脈々と続いてきた歴史の重みがある。ホルムズ海峡の安全保障問題や経済制裁の効果が対イラン戦略として議論されているが、こうした長い歴史の蓄積から来る人々のネットワークこそが、当該地域の活力となっているのである。(了)

※ スィンド人=パキスタン南部のSuindi地方に住み、スインディー語を話す。

第307号(2013.05.20発行)のその他の記事

ページトップ