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オーシャンニューズレター

第307号(2013.05.20発行)

第307号(2013.05.20 発行)

尖閣諸島に対する日本の領有権

[KEYWORDS]先占/発見/歴史的権原
筑波大学名誉教授◆尾﨑重義

尖閣諸島が、歴史的経緯からしても国際法から見ても日本の領土であることに疑いはない。決して係争地などではないのである。つまり、尖閣紛争の本質は、日本の領土としてこれまで認められてきた地域について、突然に中国側が領有権を主張したことにより生じた外交・政治上の問題なのであって、国際法上の国家間の「法律的紛争」としての領土紛争ではない。

先占による日本の尖閣諸島領有

1895年1月以降日本政府が尖閣諸島に対してとった一連の措置は国際法上の先占の要件を満たしており、日本は同諸島に対する領有権を取得するに至ったということができる。すなわち、(1)尖閣諸島を「沖縄県の所轄」と認めた閣議決定(1895年1月)と、それにより許可された民間人が現地で開拓に従事し、標柱を建て日常的に国旗を掲揚していたこと、および同諸島に対する日本の領有意思を黙示的に表示する一連の統治行為により、わが国の領有意思は十分明確に表明された。(2)実効的占有の要件に関しては、次のようなさまざまな統治行為を挙げることができる。明治政府が尖閣諸島を国有地に編入し、同地で民間人が国の指定する土地利用を独占的に行うのを許可したことを始め、国有地台帳への登録と地番の設定、地租の徴収、国や県による現地調査・遭難者の救助など一連の行政行為である。

尖閣諸島は国際法上の無主地であったか、それとも歴史的に中国の領土であったか

中国・台湾は1971年に突然「尖閣諸島は歴史的に中国の領土であったが、日清戦争中に日本が一方的に自国領土に編入した」と主張し始めた。そもそも国家が自国の領土を一方的に他国に併合されたまま75年間も放置してきたとはとても信じられない話であるが、中国は76年後にこのように主張して日本の領有を否定したのであった。
尖閣諸島がどのような法的地位にあったのか考えるときには、時代を明代(1368~1644年)と清代(1644~1912年)とに分けて、(1)「明代において尖閣諸島は中国の領土であったのか」、(2)(そうではないとしたら)「それでは、清代に同諸島は中国の領土となったのか」と順を追って考えていくと分かり易い。
まず、明代について。ここでは、明代には台湾島がまだ中国領土ではなかったという紛れもない歴史的事実を前提に考える必要がある。そうとすると、その台湾よりはるか遠方に位置する尖閣諸島が当時中国の領土であったことはありえないのである。もちろん、同諸島はそれよりはるか遠方の福建省の一部でも北京の中央政府の直轄領でもなかった。
それでは、明代に中国が国際法的な意味で尖閣諸島を「発見」したという主張についてはどうか。中国側は、1534年に冊封使陳侃が明朝の使節として琉球に赴く途中で尖閣諸島を望見し、これを中国語の島名で冊封使録に記載したことが国際法上の「発見」に当たると主張する。しかし、この主張は認められない。陳侃使録の記事からは、尖閣諸島に対する領有意思が全く認められないからである。陳侃はただ久米島を見て「これすなわち琉球に属する島なり」と述べているだけである。実は、陳侃は途中の島など何も知らずに久米島まで来て、そこで琉球人に教えられて初めてその島が琉球領であることを知ったのである。当時冊封使船の航海は琉球王国から派遣された水先案内人や熟練の水夫に頼り切りであった。島名も彼らから聞いてそれを中国語に訳したものと記事から推測される。当時琉中間の通航は、琉球の官船らによって古くから圧倒的な量で行われていたのであった。
その次の冊封使郭汝霖の「赤嶼は琉球地方を界(さかい)する島なり」の文言(1561年)については、同じ郭汝霖の『石泉山房文集』の中に「赤尾嶼は琉球領内にある境界の島であり、その島名は琉球人によってつけられた」と述べた一節があることが最近指摘されている。他に『籌海図編』、『日本一鑑』等の明代後期の海防書からも、明代に尖閣諸島が中国領土であったとする証拠を見出すことはできない。かくして、明代の中国史料からは、明代に尖閣諸島が中国の領土ではなかったことが明らかにされるのである。次に清代について。一般論として、明代に中国領ではなかった尖閣諸島が清代に新たに中国領となったことを立証することは困難である。清国が同諸島を領有したり、そこに実効支配を及ぼしていたりした事実は認められないからである。清代の中国史料で同諸島を中国領土と明記したものはないし、そのことを立証する直接的な証拠は見出せない。中国側が引用する文献の文言は多義的で比喩的な表現が多く、間接的な証拠として見ることも困難である。
関連して、清代を通じて尖閣諸島が地理的に台湾島の附属島嶼として、中国の政府や一般の間で認識されていたことは決して確認されない。明代後期の『日本一鑑』にある「釣魚嶼小東小嶼也」の文言を「尖閣諸島は台湾附属の島嶼である」と読む解釈が中国側によって提唱されているが、(筆者が別稿で詳論したように)、文理解釈からも時代背景からも無理であると考える。中国や琉球・日本および西洋人による文献や地図・海図から示されるのは、むしろ19世紀においては、尖閣諸島が地理的に琉球諸島の一部と見なされていたと推測させる資料の方がずっと多いということである。
かくして、中国その他の史料の分析を通じて得られる結論は、「尖閣諸島は、明・清代を通じて中国の領土となったことはないし、また、台湾の附属島嶼としてみなされていなかった」というものである。

75年間の黙認ないし抗議の欠如

尖閣諸島は沖縄先島の石垣島や与那国島に最も近く、古くから島民の往来があった(台湾からも等距離であるが、この時代台湾からはるか遠方の尖閣諸島に渡航する島民はほとんどいなかった)。また、尖閣航路での琉球官船の圧倒的な通航量、中国の冊封使船も琉球人の水先案内に頼り切っていたこと、これら全ては、尖閣諸島が琉球国の歴史的領域であり(準領域。国際法的な国家領域ではないが)、その周辺海域は歴史的水域(1550年代ポルトガル人は「琉球の海Mare leucorum」と呼んだ)と位置付けられることを示している。そのような島を明治政府は「先占」して自国領土に編入したのであるが(1895年)、清国政府はこれになんら反応を示していない(この点は、ほぼ同時期の南シナ海の東沙群島における「西澤島」問題に対する清国の反応と対照的である)。爾来1970年までの75年間、中国は日本の尖閣諸島領有に異義を唱えず、かえって黙認してきた。かくして、日本が歴史的権原をもつとみなしうる同諸島を「先占」し、かつ平穏公然と占有を続けたことによって、日本の同諸島に対する領有権は十分に確立した。
以上によって、国際法的に日本の尖閣諸島に対する領有権は確立していると判断する。あとは外交・政治の領域である。日本は東アジア地域の平和と安定には十分に配慮しつつ、毅然とした、かつ、公正な態度を維持すべきである。同時に、尖閣諸島に対する実効支配を決して失うことのないよう一段の配慮が必要であろう。(了)

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