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オーシャンニューズレター

第282号(2012.05.05発行)

第282号(2012.05.05 発行)

海が生んだ生命の基本戦略

[KEYWORDS] 生命の起源/水/蛋白質
東京大学大学院新領域創成科学研究科 研究科長◆上田卓也

水の惑星であるから生命は生まれたのであるが、不思議なことに、水は生命活動にとって必ずしも味方ではない。生命の基本分子である蛋白質や核酸の合成に対して、水分子はきわめて阻害的に働く。
水は有害である故に生命活動を支えることができる逆説的な存在であり、生命の存在は、水との緊張関係の上に成り立っている。そうした認識に立つことが、生命の戦略の基本原理の理解につながる。

はじめに

海は生命の故郷である。地球外生命を探索する時、液体としての水、つまり海の存在が前提とされる。水は、生命にとって必要不可欠であるという、誰もが自明とする前提には、私のような生物学、特に蛋白質、核酸などの生体高分子の研究者が不可解と感じる、ジレンマがある。海が生命を生んだことの不思議さを十分に理解することは、生命とは何かという問いかけへの回答に繋がるとともに、現在の生命体やそのネットワークである社会の特性を考える上での、重要な示唆を与えてくれる。

水惑星のジレンマ

生命を構成する生体高分子は、単量体が重合したものである。例えば、アミノ酸の重合体である蛋白質は、次の反応式で表される重合反応※の産物である。
  アミノ酸 ↔ 蛋白質+水
この反応は、重合のたびに水分子が発生するいわゆる脱水反応である。遺伝物質である核酸は単量体であるヌクレオチドが、エネルギーを蓄積するデンプンなどの多糖類はブドウ糖などの単糖が、それぞれ脱水重合によって合成されているものである。
さて、この反応式は水が大量に存在する環境では、反応は右辺へは進まない。海の中では、生命を構成する生体高分子は絶えず分解され、DNAのような巨大なポリマーは、生まれえない。実際、生体分子を有機化学的に合成しようとする際に最も配慮することは、水を反応系から除去することであり、そのために有機溶媒を多用する。生命の起源の研究の大きな障害は、水の惑星は生命の誕生にはまったく適さないという化学上のジレンマである。ある意味、蛋白質や核酸は、地球の鬼っ子の分子とも言える。

ジレンマの克服

水にあふれた環境の中で、こうした鬼っ子達が、なぜ生まれたのであろうか。原始地球はさておき、現在の生細胞の中での生合成について見てみよう。ヌクレオチドからの核酸の合成は酵素によって触媒され、蛋白質の重合はリボソームと呼ばれるRNAと蛋白質からなる巨大分子の中でアミノ酸が重合する。注目すべき点は、ヌクレオチドもアミノ酸も小さな分子であるにもかかわらず、触媒する酵素やリボソームは、そうした分子に対して数千倍以上に巨大であることである。こうした巨大な分子が、アミノ酸やヌクレオチドを包み込むことで、反応場から水分子を完全に排除しているのである。有機化学者が、有機溶媒で水を除去しているのと同じことである。

自我の目覚めとしての蛋白質

なぜ、酵素やリボソームは水分子を排除することができるのであろうか。その秘密は、その構造にある。これらの触媒分子は自発的な構造形成能力を持っているが、その原動力は疎水結合である。H2Oは大変不思議な分子で、液体の状態でも強力なネットワークを形成する。氷より水の比重が高いのもそれが原因である。水のネットワークから排除された分子は自分で閉鎖的な社会を形成するが、それが疎水結合である。水と油という言葉があるが、油は自分で引きつけ合うのではなく、水の社会からはじき出され仕方なしに集まるしかないのである。細胞の境目である細胞膜は油である脂質から成り立っているが、膜状になるのは水から逃れて集合することで二重膜構造を保つことができる。酵素やリボソームも同様で、本来は紐状であるのに、水の社会からはじき出されることで水が疎む-疎水的-部分を中心にして、毛糸の玉のように丸まった構造をとる(図)。この中心部分にはまったく水分子は侵入できず、高効率で脱水重合反応を行う反応場を形成する。生体高分子は、水という冷徹な社会から排除されることで、独自の閉鎖的なシステムを育んでいると言える。
では、原始地球上で、どのように蛋白質や核酸が生まれたのであろうか?残念なことに、未だ化学進化についての定説はないが、次のように考えることができるのではないだろうか。
原始地球は高温であったと考えられる。この状態では、海はなく乾燥した惑星であったであろう。もしアミノ酸やヌクレオチドがあれば、高温でどんどんと重合反応で進み、地表を覆い尽くすほどであったのかもしれない。地球が冷えてくると大量の水が液体となって降り注ぎ、海が生まれると、核酸や蛋白質は、今までにない水に包囲された環境に、大騒ぎであっただろう。海の水のネットワークは、こうした高分子を排除したに違いない。蛋白質や核酸は、水の迫害から逃れるために、構造をつくりまた集合することで、疎水的な空間を内部に作り出したのであろう。あたかも迫害が隠れキリシタンという秘密組織を作ったようなものであったと想像される。海が生まれる前は、自由を謳歌していた生体高分子が、突然の水の出現という逆境の中で、強固な水への防衛システムを構築したのかもしれない。それが生命システムの原点である。つまり、水は生命にとって味方ではなく、まずは敵対的な存在として現れ、生体高分子がそれに対応するために生命という社会を形成することで、何とか生き残りに成功したのである。

毒と薬

生命現象において、水と同様に、元来有害であるものが、必要不可欠な有用なものへと化ける例はいくつもある。酸素も同様である。本来、酸素は生体高分子を傷つける有害性の高い分子であるが、現在はその酸素を呼吸によって電子の受容体として最大限に利用している。原発事故以降、放射能は危険か安全かという議論が活発に行われている。放射線は突然変異の頻度を上げ、当然発がん率は上昇させるが、同時に突然変異がなければ生命は進化できない。紫外線も同様である。生物のいままでの営みは、こうした危険を有用なものへと変換する歴史であったと言える。
敵を味方として利用するという生命のしたたかな基本戦略の出発点が、海の誕生にある。リスクがあってこその生命であり、毒を薬に換えるリスクマネージメントこそが、生命の本質と言える。安全神話という神話を作り出すことは、生命の本質に反することである。

※ 重合反応=重合体(ポリマー)を合成することを目的にした一群の化学反応の呼称

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