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オーシャンニューズレター

第27号(2001.09.20発行)

第27号(2001.09.20 発行)

津軽海峡にマグロ漁の復活はあるか

大畑町小型定置網組合組合長◆濱田照男

かつてマグロの豊漁にわいた津軽海峡から、マグロがまったく消えてしまった時期があった。2~3年前から津軽海峡、特に大間においては、マグロ漁の復活が見られ、その恩恵は、近隣の漁業者にも潤いをもたらしはじめている。では、なぜ二十数年の間海峡からマグロが減少したのか。青函トンネル工事の推移と抱き合わせて考えてみたい。

海峡におけるマグロ漁

八大龍王碑
マグロの大漁祈願と供養のために明治40年5月に建立された八大龍王碑。

津軽海峡は、現在においては、大間のマグロとしてテレビ(私の青空)等で紹介されている通り、日本一又は世界一のマグロのとれる海であることはいうまでもありません。さらに、海峡をはさみ、太平洋、日本海と海峡の近くの浜では、マグロによりその恩恵を受ける漁業者は、多数に上ります。

元来マグロは、5、6月に太平洋、日本海を北上し、北限を太平洋では噴火湾、日本海側では積丹半島付近として、7月~10月頃まで滞遊をつづけ、11、12月には南下する回遊魚です。特に海峡においては、マグロの一本釣り漁業が盛んに行われており、マグロとの勇壮なる格闘は、零細漁業者に大きな潤いをもたらしています。また、北上するマグロ、南下するマグロ、海峡を通過するマグロは、海峡周辺の定置網に入網し、漁業者を歓喜させることもしばしばあります。

八大龍王石碑への思い

津軽海峡に面した、海岸線の大間崎と尻屋崎の中間ぐらいの所に北通り口の大畑町という所があり、その町内北の海岸線に佐助川という浜があります。この場所の杉木立の中に立つ、ひとつの石碑があります。八大龍王と書かれたこの石碑は、明治中期に数年に渡ってこの浜でマグロの万本漁がつづき、マグロの大漁祈願と供養のために明治40年5月に建立されたものだそうです。

現在、この石碑は、漁業者にも忘れられかけ、時に思い出しお神酒を持参し手を合わすだけとなっています。明治後半の写真を眺めると、佐助川海岸に数十本から数百本の大きなマグロが整然と優雅に並べられており、浜の活況の様子が伺われます。石碑建立にあたり、下北半島の大間崎近辺から尻屋崎近辺の12ヵ所の定置網漁業者の協力により、マグロが一番揚がった佐助川漁場に石碑を建立したという背景が鮮明に脳裏に浮かんできます。

大間のマグロと青函トンネル

明治後期の木野部海岸
明治後期の木野部海岸、マグロの大漁に湧く人々の興奮が伝わってくるようだ。

マグロ漁は、明治の後もつづいたものと思われます。私の記憶では最初に大間のマグロを目にしたのは、父がたまたま、大間において漁船漁業を営んでいましたので、私が十歳のころ、昭和32、33年当時だと思います。大間に行き市場に行くと、大きなマグロが揚がり、仲買さんとか漁協の人たちがマグロの肝(心臓)を炭火で焼いていて、それをご馳走になることが度々ありました。昭和の中期まではマグロ漁は続いていたと思われます。

私が25歳からだと思いますが、定置網の船頭として舵を任され、操業において、親や先輩からマグロが定置網に入った時は、騒がず、静かに、できればエンジンを止め、ゆっくりマグロを追い込むようにしなさいと教えられました。マグロ・ぶり類の回遊魚は音や振動に敏感な魚だという技術以上のことを学びました。

次に、大間のマグロ漁獲量と、青函トンネル工事について少しふれてみたいと思います。

既知のとおり昭和46年9月、本工事着工になりました。大間のマグロ漁業は昭和49年からですが、別表のとおり、本工事が進行、また工事が海底部に進むにつれ大間のマグロ漁獲量が少なくなっていることが分かると思います。海底部の工事の影響で、マグロは海峡を通過できないことを学習し、昭和52年頃から津軽海峡線が運行する63年頃まで、また運行してから4~5年の間は大間のマグロは、まったくの不漁にみまわれることになり、平成2年にはゼロという驚異的な数字になっていることは表のとおりです。津軽海峡線が運行する前は、昼夜をとわず工事が行われ、運行後は列車の通過時だけの騒音・振動となるため、運行後3、4年を経て、マグロは海峡の通過可能を学習し、平成6、7年頃より大間マグロの復活が見えだしたものと思われます。平成8、9年の漁獲量には、めざましいものがあります。

回遊魚にとって、昼夜を問わない振動はいかに深刻なものであったか。上述の私の体験も裏付けとなるでしょう。これが海峡からマグロが消えた真相であれば、それは漁業者にとっては耐え難いものがあると推察されます。

海岸線における公共事業と漁業者

青函トンネルという大きな公共事業が回遊性の魚類に及ぼした影響ははかり知れないと思います。そして、その影響で、漁業者は10年~20年もの長きの間、耐えしのぐ必要があったのです。回遊魚そのものにも周期的な漁獲変動がありますが、こうした影響が加味されることにより、漁業者一代ではその漁獲事業を満足に営むことは到底不可能でしょう。さらに時代の流れ、文化の発展などやむを得ないたくさんの公共事業が海岸線を複雑にし、潮流を変え、海を変えていっている現状は、漁業者の持っている構想とかけ離れているように思われるのです。

特に、われわれ沿岸で生計をなす漁業者にとってある程度の開発発展は望ましいが、それ以前に生態系や生活している者の意見を重視した公共事業にしてほしいと思います。

最後に、緑深かった秘境の下北半島、特に国有林が90%を超える大畑町においては、近年激伐が進み磯焼け現象との因果関係の解明が緊急課題であり、これが下北沿岸全域に及んでいる時、八大龍王碑のある佐助川浜の魚林が見え隠れして、なつかしくも憂える日々と次世代への継承の使命感に身の引き締まる思いがいたします。(了)

■大間マグロ漁獲量と青函トンネル工事
大間マグロ漁獲量と青函トンネル工事グラフ

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