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オーシャンニューズレター

第24号(2001.08.05発行)

第24号(2001.08.05 発行)

海洋の生態系と生物多様性を守る『予防原則』

阿嘉島臨海研究所所長◆大森 信
環境保護団体SeaWeb科学アドヴァイザー◆Boyce Thorne-Miller

生物多様性は海の健全さの鍵である。このことに私たちはようやく気がつき始めた。海の生態系を守るには、関係機関を横断した総合的な枠組みを作り、政策決定に予防原則のアプローチを導入する必要がある。

海の生物環境の問題は、なぜ改善されないのか

世界各地で漁獲量が頭打ちになり、大西洋西部のジョージスバンクのように、各地で、かつての好漁場が疲弊している。一方、陸地の開発などによって水産資源涵養の場であるサンゴ礁やマングローブ林やアマモ場や海中林などの沿岸域は著しく荒廃してしまった。このような産卵場や生息地の破壊と乱獲による大型魚類の減少が生態系の劣化と生物多様性の低下を招く大きな原因となっている。

しかしながら、こうした海の生物環境の問題に対して、政策者もメデイアもあまり懸念している様子はない。それにはいくつもの理由がある。たとえば、海の生物生産量の変化は、食べている魚が獲れているかどうかで表わされていることが多い。また産地が変わっても総漁獲量が変わらなければ世間に関心を持たれることは少ない。市場に並ぶ数種類の魚についての情報で、他の生物の様子が推し測れるわけではないし、また漁獲量は生産量ではなく、漁業活動の規模や漁具の性能などによって大きく変化するから、これで海の本当の姿を示すことはできないのだが。

海の行政を司る機関がいくつにも分かれていて、総合的な施策ができないのも大きな問題である。米国の場合、沿岸3マイルまでの漁業資源の管理は州政府が、排他的経済水域の境界200マイルまでは連邦政府の海洋漁業局が行い、海底油田掘削関係は内務省、潜水艦の活動水域は海軍、汚染は環境保護局とコーストガードが担当している。日本の場合も似たようなもので、漁業資源の管理には漁協と地方自治体と水産庁が複雑に関係し、海運や汚染には海上保安庁や環境省などが携わっている。問題は、生態系や生物多様性には行政の枠がはまらないことと、その保全についてこれらの機関がほとんどなにもしていないこと、そして複数の機関が共同で海の環境問題に当たることは極めてまれということだ。

生物多様性を一般の人々がどのように考えているかについても問題がある。生物多様性には生態系や生息場や種類や遺伝子の多様性があるが、この中で種の多様性がもっとも分かり易いので、種類が揃っていればよいと思われていることが多い。だから大型の絶滅危惧種の保護には関心を払うが、ほかの生きものたちの繁殖や成長を左右する生息場が少なくなったり、食物網に関わる生物(食うものと食われるものとの関係)や相互依存の種(ミツバチと受粉が必要な植物とのような関係)の個体数が減ったりすることによっても多様性が失われる事実にはなかなか気がつかない。

「予防原則」という考え方

サンゴ
海の生物多様性の宝庫サンゴ礁。人間活動によって世界のサンゴ礁の27%はすでに死滅したか、その寸前にあり、さらに31%が危機にさらされている。(写真:阿嘉島臨海研究所)

漁業や汚染のような環境に影響を及ぼす行為の規制は、これまでリスクアセスメントに基づいておこなわれることが多かった。リスクの判定基準をどこに定めるかはアセスメントに大きく影響する。例えば、試験対象種を選んで汚染物質や問題としているストレスに暴露するバイオアッセイ(生物学的反応測定)で、判定基準が死亡に置かれてしまうと、死に至る途中でみられる行動の異常とか再生産率の低下というような、より敏感な変化は隠されてしまう。しかも、一つや二つの対象種のバイオアッセイの結果から、はるかに複雑な生物群集からなる自然界全体への影響を判断することは難しい。さらに、生態学的な予測や仮説は最も起こりそうな結果を選んで立てられるので、予測に付随する「不確かさ」は無視されることが多い。その結果、取り返しのつかない害が発生した例を私たちはいくつも経験した。政策決定者はリスクアセスメントのアプロ-チにおけるこうした問題を十分に考慮して決定を行うべきであるが、現実にはそうしたことはほとんどなされない。

ヒトの健康や環境の保全に関する政策決定は、科学的な考えに基づいてなされなければならないが、その上で、たとえ科学といえども不確かさがあり予測に誤りが少なくないことを認めて、最終的な決定は倫理的な判断に裏打ちされたものであることが望ましい。

「予防原則」Precautionalprincipleはこうした考えから、1990年のロンドン廃棄物条約や1992年のリオ宣言のような海洋環境保護に関する国際的な合意事項のなかで原則的には認められるようになってきた。その趣旨を反映する規定は生物多様性条約や地域的な環境関連の宣言にも見出すことができるが、法的に援用されるケースはあまりなかった。これが米国の政策決定者の間や経済界でも話題にされるようになったのは、1998年、NPOの"Scienceand Environmental HealthNetwork"がウイスコンシン州ウイングスプレッドで主催した集会で、予防原則のアプロ-チを次のように定義してからである。

「ある開発事業がヒトの健康や環境に害をもたらす恐れがあるときは、原因と結果の関係が科学的に十分に証明されていない場合でも、予防的措置が取られるべきである。その意味において、証明の義務は、一般の人々よりも事業者が負うべきである。予防原則適用のためのプロセスは開示的で十分に説明され、民主的なものであり、影響を受ける可能性のあるもの全てを含まなければならない。また、事業の取りやめを含んだすべての範囲の代替手段について検討しなければならない。」

米国ではいくつものNPOが、その活動に予防原則のアプローチを適用しているが、これが遺伝子組み換え農産物輸出の障害となったこともあって、政府関係者の一部は、予防原則を反科学的な理念で技術開発の障害となるものと非難している。また、予防原則は本来、汚染のように、もたらされる結果がマイナスであることが前提であるが、資源の持続的利用を意図して結ばれている漁業条約などでは、結果がマイナスであるとは限らないとして、予防原則の適用に疑問を投げる人もいる。予防原則が一部の沿岸国による資源の囲い込みに利用され、他国の漁業機会が減るのではないかというものである。たしかに資源をめぐる各国の利害を法解釈や法政策の面から論じれば、このような心配も出てくるだろう。しかし、実際に人間活動の結果が生態系や生物多様性にマイナスの結果をもたらし、ほとんどの漁業条約や取り決めが水産資源の減少傾向を覆すほどの効果をあげていない現状を見れば、予防原則の法的導入に否定的にはなれないはずである。

「予防原則」にもとづく政策の決定を

船の写真
予防原則のアプローチでは、漁業の目標を、生態系を損なうことなく人々に食糧を供給するためには、「どのくらいたくさんの魚を獲るか」から、「どれだけの稼ぎでよいのか」に変える必要がある。

生物多様性は環境の健全さの鍵である。このことに私たちはようやく気がつき始めた。だからこれまで海の生物多様性の保全を考える政策が欠けていたことは驚くに当たらない。海の生態系を護るには、これまでの誤りへの反省にたって、関係機関を横断して総合的な枠組みを作り、海洋環境に害を与えるおそれのある事業活動には、あらゆる生物の生態系でのはたらきと、生息場の確保や遺伝子の多様性(個体群間あるいは個体群内の違い)を考えながら、政策決定を行う必要がある。予防原則はこうした戦略に最も有効なものとなろう。

リスクアセスメントでは、問題が発生するまではどのぐらいの魚を獲ってもよいかとか、どこまで沿岸を改変してもよいかとかが検討されてきた。つまり、どのぐらいの害までヒトや自然が耐えられるかが測られてきたといえよう。これに対して、予防原則のアプローチでは、個人や経験にもとづく情報も取り上げ、科学的な不確かさがあってもできる限りの注意と予見をもって、どのぐらいの害の発生を防ぐことができるかを問う。それは決して科学技術の発展を妨げるものではなく、事業者にもっと安全な事業や開発ができないのかどうかの検討を求め、害の発生を防止するための"緩衝装置"の役割を果たすものと考えてよい。予防原則のアプローチを拘束力のある規範や法のルールに組み込んで、海洋環境が悲鳴を上げる前に政策に反映させてこそ、生態系や生物多様性の保全ができるだろうと私たちは考える。

海の生態系と生物多様性の保全についての政策が遅すぎないことを祈りたい。先進国の人々は技術力と経済力によって自然の脅威から守られているが、自然にもっと依存して生活している人々は、最初に生態系の劣化や生物多様性の損失の影響を受ける。彼らは、現に影響を受けているにもかかわらず、その恐ろしさを最後に聞かされる人びとである。(了)

参考文献

1.兼原敦子1994.地球環境保護における損害予防の法理.国際法外

2.O'Brien M. 2000. Making BetterEnvironmental Decision - AnAlternative to Risk Assessment.286pp. The MIT Press, Cambridge,Massachusetts

3.Reffensperger, C., T. Schettler, andN. Myers 2000. Precaution: belief,regulatory system, and overarchingprinciple. Intel. J. Occup. Environ.Health. 6:266-269.

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