Ocean Newsletter
第246号(2010.11.05発行)
- 金沢大学理工研究域環境デザイン学系教授、第3回海洋立国推進功労者表彰受賞◆石田啓(はじめ)
- 東京大学大学院理学系研究科 附属臨海実験所 所長、海洋基礎生物学研究推進センター センター長◆赤坂甲治
- 東京大学大学院人文社会系研究科 附属北海文化研究常呂実習施設 准教授◆熊木俊朗(としあき)
- ニューズレター編集代表(東京大学大学院理学系研究科教授・研究科長)◆山形俊男
海洋教育に不可欠な地域密着型教材の開発
[KEYWORDS] 海洋教育の普及/海洋教育人材育成/地域密着型観察マニュアル東京大学大学院理学系研究科 附属臨海実験所 所長、海洋基礎生物学研究推進センター センター長◆赤坂甲治
海の体験学習は、海洋教育に有効であるが、ほとんどの先生は海を知らない。海洋生物の解説書は市販されているが、網羅的なため使い勝手が悪い。地元に特化した観察マニュアルがあれば、海と生物にアクセスしやすく、生徒に繰り返し体験させられる。観察した生物リストが蓄積されれば環境指標にもなる。全国の地域密着型教材を集めれば、日本海洋教育教材大全集ともなる。海洋教育の普及のためには、地域密着型教材の開発が必要である。
海洋教育の必要性
海は宝庫である。海に囲まれたわが国は、海を活用すべきことはいうまでもない。2007年に海洋基本法が制定され、海の諸問題に取り組む枠組みができた。しかし、人々の意識は「海洋国日本」とはかけ離れているように思える。東京の麻布や六本木は、海を意味する港区にあるが、海を感じさせる気配すらない。フェリーに乗ったり、屋形船で遊覧したりすることがあれば、海を身近で見ることになる。しかし、乗客には、自然の海ではなく、安全でエアコンの効いた快適な空間の背景としか映らない。人々が海から遠ざかっていったのは、近年の社会の意識変化が要因の一つと考えられる。
高度成長期を経て社会が安定期に入ると、人命が尊重され、安全管理の徹底が求められるようになってきた。教育現場では、海は危険であるとして、海の体験学習が敬遠され、臨海学校という言葉もほとんど死語になっているという。中高年の多くの方々は、夏には学校行事として、海で合宿した記憶をお持ちのことと思う。波にもまれ、足の立たないところまで遠泳させられ、溺れる危険すらあった。ようやく岸に上がると、冷えて鉛のように重たくなった体に、砂浜の暖かさが心地よく感じたことが思い出される。海を身近に感じるとともに、海の怖さを知るよい機会であった。安全管理は重要であるが、危険を知り、危険を回避する十分な対策を整え、海に踏み込めば、限りない恩恵に浴すことができる。ただ危険から背を向けるだけでは何も得るものはない。このままでは、海という宝庫を見失う恐れすらある。
地域密着型の海洋教材を

■図1: 自然観察会の様子。海の生物に目を輝かせる子供たち
次世代をになう子供たちが海を知り、海を活用する人材に成長するにはどのようにすればよいだろうか。海洋政策研究財団は21世紀の海洋教育に関するグランドデザインを発表し、学習指導要領に海洋教育を組み込むよう提言している。海洋が必修項目に入れば、海洋教育のしくみはできるが、問題は指導できる教員の数が決定的に足りないことにある。東京大学は、海洋生物学研究施設として神奈川県三浦市に臨海実験所を有しており、研究・大学教育に加え一般市民を対象とする自然観察会を開催している。そこでは、海と海の生物に感動する子供たちの姿をまのあたりにすることができる(図1参照)。初等中等教育における体験学習は、海への関心を引き出すために有効なことは自明である。しかし、教育現場の若い先生方の大部分は海を知らない。大学で生物学を専攻した理科の先生も、分子生物学を学ぶことはあっても海の生物については経験がないという。指導書にも問題がある。図鑑や解説書は市販されているが、掲載されている生物は、地元の海に生息するものが意外と少ない。全国の読者を対象とする図鑑では、遠い海の世界にしか感じられない。
海の生物は、遠くまで足を運ばなくても見ることができる。街の近くの港の岸壁、河口にも、一見生物とは見えない生物が無数に棲息しており、海洋教育の恰好の教材になる。彼らは潮が満ちてくると活発に動き出す(図2参照)。学校の近くの海に生息する生物に特化したマニュアル的な解説書、図鑑、動画があれば、先生方にとって生物にアクセスしやすく、授業や課外活動として子供たちに体験させることもできる。幸いなことに、全国各地に地元の海の生物を独自に調査されている先生方がおられると聞いている。協力が得られ、大学や博物館の研究員と連携すれば、詳細な生物分布図と図鑑ができあがる。ニーズに則した地域密着型の教材が開発されれば、教育現場で活用されるはずである。その教材を活用して、地元で繰り返し体験学習が行われ、観察した生物名のリストが蓄積されれば環境指標にもなる。地質、海運、水産、漁業なども教材として取り上げたいところである。地域密着型の体験学習マニュアルを作成し、全国のマニュアルを集めれば、日本海洋教育教材大全集ともなり、より広く海を理解することが可能になる。

■図2: どこでも見ることができる海の動物

海洋教育のその先に
海と、海の生物に関心をもつ子供たちが増えれば、海洋生物基礎研究を志す若者も増えると期待される。クラゲの光るタンパク質の研究が、生命科学研究で威力を発揮するツールGFPの創出に発展し、ノーベル賞を受賞したことは記憶に新しい。しかし、海洋生物基礎研究の成果の多くが特許を生み、バイオ・医学・産業に波及することは、わが国では意外と知られていない。
軟体動物のアメフラシの脳の単純さを利用した記憶のメカニズム、ウニで発見された癌の発症ともかかわる細胞周期調節タンパク質、イカの太い神経を利用した神経伝達機構、ヒトデの食細胞(白血球)の研究はバイオ・医学に発展し、いずれもノーベル生理学・医学賞を受賞している。他にも海洋生物を活用した優れた研究成果は枚挙にいとまがない。海洋生物の基礎研究は、大きな波及効果を秘めているものの、応用技術研究とは異なり、一朝一夕で成果が得られるものではない。したがって、競争的研究資金の獲得は難しい。欧米では海洋生物の重要性が認識されており、民間が多額の寄付金を投じて海洋生物基礎研究を推進している。
海洋生物は多様である。多様な海洋生物を探せば、特定の研究に適したものが見つかる。欧米には、海洋生物学を専門としない研究者も、夏休みやサバティカルを利用して海洋研究施設に長期間滞在し、実験研究をする文化がある。海洋生物研究でヒントをつかみ、それを研究室に持ち帰りバイオ・医学研究に発展させるのである。日本の研究の中心を担う大学教授は、大学の運営・講義で忙殺され、短期間で成果を求められる目の前の研究に追われている。宝庫と認識していても海の生物を研究する余裕がない。このままでは、海洋基礎生物学研究をシーズとする特許と、そこから生まれる富を欧米に独占されかねない。国策として大学のシステム改革を推進する必要がある。
東京大学では日本財団の支援のもと、海洋教育の大規模なプロジェクトが始まった。また全国のNPO法人、各学会、大学でも子供たちへの海洋教育のプロジェクトが検討・実施されている。次は、国家プロジェクトも立ち上がることが望まれる。
地域密着型の教材で学んだ子供たちから、海洋政策に携わる人材が育つことを期待したい。(了)
第246号(2010.11.05発行)のその他の記事
- 海洋の環境保全と開発が人類を救う 金沢大学理工研究域環境デザイン学系教授、第3回海洋立国推進功労者表彰受賞◆石田啓
- 海洋教育に不可欠な地域密着型教材の開発 東京大学大学院理学系研究科 附属臨海実験所 所長、海洋基礎生物学研究推進センター センター長◆赤坂甲治
- 環オホーツク海地域をめぐる古代の交流 東京大学大学院人文社会系研究科 附属北海文化研究常呂実習施設 准教授◆熊木俊朗
- 編集後記 ニューズレター編集代表(東京大学大学院理学系研究科教授・研究科長)◆山形俊男