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オーシャンニューズレター

第244号(2010.10.05発行)

第244号(2010.10.05 発行)

函館の「水産・海洋」による"まちおこし"

[KEYWORDS] まちおこし/産官学民協働/産業創成
一般財団法人函館国際水産・海洋都市推進機構 推進機構長◆伏谷 伸宏

国際的な水産・海洋に関する学術研究の拠点都市を目指すため、平成21年4月、産学官が一体となって「一般財団法人函館国際水産・海洋都市推進機構」は設立された。
いま函館で進められている、「海をテーマとするまちおこし」について紹介したい。

函館の繁栄と衰退

"箱館"※には、「小開港」と「大開港」があった。ペリーが1854年に幕府と締結した「神奈川条約」により、翌年4月から他に先駆けて外国と交易を始めたのが小開港である。そして、続々と外国船が押し寄せ、開港後2年間だけでも、7カ国43隻が入港したという。さらに、1859年の大開港に伴い、ますます多くの外国船が入港するようになり、1860年には税関もできた。米、英、露など17カ国が次々と外交業務を行うようになった。この頃までには、高田屋嘉兵衛などの活躍により、北前船を中心とする国内交易が盛んになっており、港内には千隻もの和船が停泊するのもまれでなかった。箱館からは昆布、鮭、鱈、木炭などが関西方面に送られた。一方、昆布、海参(いりこ)、干鮑(ほしあわび)などが、主に香港や上海に輸出され、港は活況を呈した。海岸から山の手にかけて洋館が建ち並んだ様は壮観であったろう。今でも残るカトリック教会などが建設されたのもこの頃である。明治36年(1903年)に、記者として来函した幸徳秋水は、「東京の方が恥ずかしく思われる」と報告しているほど函館は栄えていた。さらに、日露戦争(1904~05年)の勝利に加え、1868年から始まった北洋漁業が、日露漁業協約による拡大、青函連絡船の開通(1908年)、および造船、鉄工業などの工業生産の伸びにより、北海道屈指の大都市に成長した。人口も昭和5年には22万人を超えた。
しかし、第二次世界大戦は、函館に大きな打撃を与えた。造船不況に加え、北洋漁業の衰退、さらには1988年の連絡船の廃止が拍車をかけ、函館の繁栄は衰退の一途を辿った。なお、函館空港の滑走路の延長に伴う大型ジェット機の就航により、観光に活路が見いだされるかと思われたが、観光客数も年々減少し、2005年には500万人を割った。人口も1980年に34万5,000人を超えたが、2004年には4地域と合併して一時もち直したものの、年々減少しており、2010年6月現在、28万2,000人余りになった。


■明治20年頃の函館。(函館市中央図書館所蔵、函館の古写真「田本写真帳(田本アルバム)」より)

国際水産・海洋都市構想


■都市エリア事業で開発されたがごめ製品

このような状況の下、函館の活性化には水産・海洋研究による新産業の創成しかないと考えた産官学民の有志により、2002年に「ナポリ・函館・ウッズホール」という突拍子もない標語を合い言葉とする「函館海洋科学創成研究会」が設立され、豊富な水産資源の研究・開発による産業の創成、観光産業の亢進などによる函館市の活性化について検討が開始された。翌年には、函館国際水産・海洋都市構想が策定され、研究会が本構想推進協議会となり、「地域再生計画」の認定、「オーシャンウィーク」の開催、「函館市臨海研究所」の開所など、構想実現に向けて活動を行ってきた。この間、函館市は内閣府より「マリン・フロンティア科学技術研究特区」に認定され(2003年)、続いて文科省の都市エリア産学官連携促進事業 一般型(2003~2005年)および発展型(2006~2008年)が採択され、函館特産のガゴメコンブを原料とする食品、化粧品など110を越える様々な製品、イカ墨染料などの開発を行うとともに、海藻成分に新機能を発見するなど、多くの成果を上げた。

一般財団法人函館国際水産・海洋都市推進機構の設立

2009年4月、上記協議会を改組して法人格を持つ機構を設立し、7年間に渡る議論で醸成された構想の具現化に向けて一歩を踏み出した。本機構は、函館に立地する北海道大学大学院水産科学研究院、はこだて未来大学、函館工業高等専門学校、北海道立工業技術センター、道立函館水産試験場などの研究者の交流を計り、水産・海洋研究プロジェクトを立ち上げ、国内外の研究者との情報交換や共同研究の仲介あるいは国際会議の誘致などを図って、函館が国際的な水産・海洋研究の拠点都市に変容することを推進するものである。
機構の出発と同時に、函館市から提案した3つのプロジェクト、すなわち内閣府の"はこだて「水産・海洋」で元気なまちづくり推進事業"、文科省の"新水産・海洋都市はこだてを支える人材育成事業"および"函館マリンバイオクラスター"(地域イノベーションクラスタープログラム「グローバル型」)がそれぞれ採択され、すばらしい餞(はなむけ)をいただいた。なお、"マリンバイオクラスター"については、民主党政権の事業仕分けに、消滅の危機に瀕したが、市長がいち早く異議を唱えるとともに、市民有志が署名活動を行って集めた36,000人余の署名を携え、政府と交渉した結果、復活したというおまけまでついた。
さて、機構の最も重要な役割は、旧函館ドック跡地に建設される研究センター(平成25年供用開始)において、異分野融合形の研究チームによる函館の水産資源を対象とする研究・開発を基盤とした新産業の創成を目指すことである。そこでは、産官学を問わず国内外から研究者を招聘し、地元研究者との共同研究をしてもらう。得られた研究成果を広く世界に発信して、多くの学会や国際会議を誘致する。研究や会議のために多数の研究者とその家族が函館を訪れるようになり、まちがいなく街は活性化されるであろう。
具体的には、次のようなことを考えている。函館は、平成16年に、戸井(とい)、恵山(えさん)、椴法華(とどほっけ)および南茅部(みなみかやべ)と合併して広い海域を持つようになり、他に例を見ない豊富な海藻資源を手に入れることができた。最近、シオミドロという褐藻の全ゲノムが海藻として初めて解読されたが、海藻については分かっていないことが多い。例えば、磯焼けの問題も未だに解決されていない。また、海藻について"育種"という概念が無い。コンブの優良品種があるのだろうか?もし、このようなものがあれば、それを選別して、さらに優良な品種を作り、保存して海水温上昇などの環境変動に備える必要があるであろう。もちろん、海藻の有用成分には、未知のものがたくさんあるはずである。これらを特定して、産業に結びつけることも可能である。やるべきことはたくさんある。幸い、函館には優秀な海藻研究者がそろっているので、函館は海藻研究の総本山となりえることは間違いない。そして、国内はもとより、世界中から海藻研究者が函館詣でをする日が来るのを期待したい。(了)

※ 「箱館」が「函館」になったのは、明治2年(1869)に『蝦夷地』が『北海道』に改称されて開拓使出張所の函館開設がなされた時とされている。
詳しくは、函館市HP「市史余話」を参照下さい。

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