Ocean Newsletter
第240号(2010.08.05発行)
- 内閣官房 総合海洋政策本部事務局 内閣参事官◆金澤裕勝
- 山形県庄内総合支庁保健福祉環境部環境課海岸漂着物対策主査◆小松弘幸
- ハウステンボス株式会社 アクティビティセンター◆大熊 豪
- インフォメーション
第3回海洋立国推進功労者表彰の受賞者決定 - ニューズレター編集代表(東京大学大学院理学系研究科教授・研究科長)◆山形 俊男
カブトガニは問いかける
[KEYWORDS] カブトガニ/大村湾/干潟の観察会ハウステンボス株式会社 アクティビティセンター◆大熊 豪
長崎県の大村湾北部を流れる「早岐瀬戸」という場所でカブトガニの産卵行動を追いかけるようになって10年。研究者という立場ではなく、一生活者としての視点に立った生活圏でのカブトガニ探しの日々は、自らの自然に対する眼差しを深化させられる日々でもある。
科学的な視点から生物多様性の保全に目を向けられることが多いが、私たちはこの稀有な存在に思いを寄せてもいいのではないのか。カブトガニは私たちに社会の在りようを問いかけている。
「早岐瀬戸」というフィールド

大村湾は長崎県本土の中央に位置する、まるで湖のような海である。琵琶湖の半分程度の大きさしかなく、その特異な形状から、二重性閉鎖海域、あるいは超閉鎖内湾とも呼ばれている。これは、入口にある佐世保湾と大村湾との間に栓をするように針尾島が位置していることに起因する。大村湾が外海と通じるのは、島の東西を流れる極端に狭い二つの海峡、針尾瀬戸(伊ノ浦瀬戸)と早岐(はいき)瀬戸の2カ所のみしかない。ラムネのビンのような構造と例えるならば、理解してもらいやすいかもしれない。その結果、大潮のときでも一日の潮の干満差が最大1mにも満たないという非常にユニークな特徴をもつ。これは魚介類を始めとする海洋生物の生育にとっての「海のゆりかご」であると同時に、海水の入れ替わりが少ないために、常に環境悪化の問題と背中合わせという宿命を抱えることにもなる。全長11kmに対して、20m程度しか幅のない一見細長い川、この早岐瀬戸に接して暮らし、カブトガニの産卵行動を追いかけるようになって10年が経つ。
カブトガニとの邂逅
私は、大学時代と、卒業後の青年海外協力隊時代を沖縄、ボルネオ島で10年近く過ごした。そんな私にとって、戻ってきた地元の自然は地味にしか映らず興味の対象外だった。今からさかのぼること10年前のことである。自宅の横にある江戸時代の新田開発の遺構である潮遊池のほとりをカメラ片手に散策していた。かつて接した亜熱帯、熱帯地域の強烈な自然に比べるならば、心動かされるような生物はこの地には存在しないものだと思いを巡らせながら、濁った水面を眺めていた。そのとき不意に、オレンジ色の大きな物体が悠々と泳ぐのが視界に入り、度肝を抜かれた。カブトガニとの衝撃的な出会いだった。
私はそれまで自分が暮らすようになった目の前の瀬戸を「海」だと認識していなかったし、コンクリート護岸で覆われた「汚れた川」と決めつけて、目を背け否定していた。「こんな汚れた川のほとりに暮らすのは何かの間違いだ」と。その勝手な思い込みが、漁師の網に引っ掛かって潮遊池に放り込まれたと思われる変色したカブトガニの存在によって大きくひっくり返されることになった。それからは、休日と帰宅後の夜を使って、ひたすらコンクリート護岸の上を歩いて回り、干潟に下りては幻のカブトガニを追い求めるフィールドワークの日々が始まった。

産卵するカブトガニ。2005年7月、早岐瀬戸にて撮影。7月上旬から中旬にかけての新月、満月前後の大潮の時期で、満潮の時間帯に合わせて産卵に訪れる。
最初の数年間は試行錯誤の連続だったが、古くから地元に暮らす人達との話を通して、かつてこの地でも方言名で「ハチガシャ」と呼ばれ親しまれるほどカブトガニが身近な存在であり、今では絶滅したと思われていることも初めて知った。その中でも、約30年前に地元の小学生の姉妹が祖父と一緒にカブトガニの産卵の様子を観察した自由研究作品に偶然めぐり会ったときのことは忘れがたい。このことがきっかけとなって、活動の今日的意味は現在の地元の子供たちと一緒にすることにしかないと気付かされ、「早岐瀬戸しほさゐクラブ」と名付けた干潟の観察会を数年間主宰することになった。彼らとの活動を通して、この地でのカブトガニの幼生の生息を再発見することができ、産卵行動の確認に至ったといえる。また、ともに干潟を歩いた少年の一人が、古生物学に興味を持ち、地元の大学の水産学部に進学した。予想もしていなかった出来事で、自分の辿ってきた道程の来し方行く末を見るような感慨がある。カブトガニと少年たちの眼差しが、私自身の眼差しを変えてくれたように思う。
消えゆく汀の影法師の行方
現在、カブトガニは環境省の絶滅危惧種 Ⅰ類に指定されている。今や水族館や図鑑の中でしかお目にかかれない、保全されるべき哀れな生物の代表格というイメージの方が一般的になってしまったかのようだ。この地でも局所的に毎年1、2ペアが狭い砂地へ産卵に訪れるのを観察するのみである。幼生もまれにしか確認できない。狭い瀬戸の周辺は開発に伴い人口の密集化が進み、両岸はコンクリート護岸に阻まれて降りるどころか、のぞき見ることすらままならない。人々の意識から遠のいた渚は、生活排水、大量のごみで誰も見向きをしなくなり、日常生活とは無縁の海と化している。浜辺で遊ぶ人影もない物寂しい風景だけが残されている。カブトガニの生息環境としても限りなく絶望に近い......。
カブトガニという生物は、成体になるまで15年以上かかるという節足動物としては非常に長い生活史をもつ。産卵は河口近くの砂地で行われ、孵化した幼生は餌の豊富な干潟で過ごし、成長に応じて、藻場、内湾の沖合いへと生息域を変えていく。カブトガニはこのように内湾の連続した水辺の環境を必要とする生物である。従って、種の保全に関して述べるならば、水質も含めて、陸上から海域までの広い範囲を考えなければならないといえよう。しかしながら見方を変えて見れば、カブトガニが私たちに提示してくれるのは、卵が成長するのに適した潮間帯に位置する砂地、幼生が脱皮を繰り返しながら育つ干潟、さらなる成長に必要となる藻場、沖合い、そしてつがいとなって再び砂地へ産卵に訪れるという生活史の絵巻であり、そこにこそ生命の一生の在るべき姿の一つの解答が示唆されているように思える。
そのユーモラスな姿には環境破壊の被害者というよりも、渚で出会える懐かしい友人を思わせる趣が似つかわしい。カブトガニが消失していく渚の光景は、実は私たちの痩せていく社会の似姿に他ならないのではないか。科学的な視点からの生物多様性の保全に目を向けるだけではなく、私たちの社会の在りようも省みさせるこの稀有な存在に思いを寄せてもいいのではないのか。渚に悠然と姿を現す影法師のようなカブトガニは、私たちにそう問いかけているような気がする(了)。
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