Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第233号(2010.04.20発行)

第233号(2010.04.20 発行)

環境哲学から海への提言

[KEYWORDS] ローカル・コモンズ/グローバル・コモンズ/恵みとリスク
東京工業大学大学院社会理工学研究科・価値システム専攻教授◆桑子敏雄

海岸整備における合意形成の問題を地域空間の「恵みとリスク」の管理の問題と捉え、多様な主体が包括的に管理するための合意形成の思想と技術の必要性を述べる。
また、海岸というローカル・コモンズの問題が地球規模のグローバル・コモンズの問題と繋がっていることを踏まえて、地球環境問題における「恵みとリスク」の包括的管理に向けた合意形成の思想と技術の必要性を述べる。

沓尾海岸の海岸整備


■沓尾海岸

九州の英彦(ひこ)山の複雑な山容から流れ出す豊かな川の一つ、祓川(はらいがわ)は、北に流れて瀬戸内海へと注ぐ。祓川河口左岸の簑島神社と右岸の龍姫神社には、山と海を結ぶ海幸・山幸伝説が残る。神武天皇の祖父にあたる山幸彦が簑島神社に祀られ、その妻である海神の娘、豊玉姫が龍姫神社に鎮座する。祓川右岸は、沓尾(くつお)と言われ、地形が文字通り、祓川の段丘の尻尾のようになって海にせり出している。こうした地形は、その地下に豊かな真水の流れを潜ませ、海底からわき出して、豊かな生態系と生物資源の源になっている。山と海をつなぎ、海の恵みと航行リスクの回避という古代人の願いが龍神の娘・豊玉姫の龍姫神社に象徴されている。問題は、その沓尾海岸に建設された道路と橋梁である。「姥ヶ懐(うばがふところ)」と呼ばれる美しい風景の海岸が道路の建設によって破壊されたのである。沓尾地区から海岸に伸びる道路建設は、海岸に豊かな恵みをもたらす地形を断ち切るような計画になっていた。沓尾の姥ヶ懐海岸で環境教育活動を行っていた市民たちは、道路計画におどろき、その変更を行政に求めた。市民の願いは、行政もまたこの海岸の価値を深く認識し、その上で計画の変更を行うことであった。ところが、行政は、地域の文化や歴史的伝承をもつ空間の価値と道路建設という空間改変の公共事業を直接に結びつける思考回路をもたなかった。市民の粘り強い活動の結果として、もっとも大切な岩場を破壊することは回避されたが、巨大な道路は海岸を覆い、美しかった景観も失われた。
わたしは、姥ヶ懐の市民活動の支援をしながら、空間の価値構造認識(「ふるさと見分け」)という考え方に思い至った。空間の価値は、地理上、地学上どのような空間の構造をしているか、山、川、海がどのような空間構造でつながっているかを認識し、そこで自然と人間がどのような営みを繰り広げてきたか、すなわち、空間にどのような履歴が潜んでいるかを知り、また、そこに暮らす人びとや、土木工事でかかわる人びとがどのような関心・懸念をもっているかを掘り起こすことで理解される。このことが空間をめぐる意見の対立・紛争を回避し、また解決するために不可欠な作業であると考えるようになった。とくに空間の履歴を認識することが市民にとっても、行政担当者にとっても不可欠であると思うようになった。その後、行橋(ゆくはし)市は、姥が懐の問題をきっかけとして、市民と行政が連携しながら、地域の価値を高める活動を展開するようになったが、払った犠牲はあまりにも大きかった。

合意形成の過程


■道路工事前(H6.2.4)と建設途中(H7.12.30)の沓尾海岸

いま、わたしがプロジェクト・アドバイザーとしてかかわっている国土交通省宮崎河川国道事務所・宮崎海岸浸食対策事業プロジェクト・チームは、海岸のもつ多様な価値の存在を見据えつつ、どのようにすれば行政と住民・市民、そして専門家が最適なコミュニケーションによる合意形成を図りながら、海岸侵食対策を有効に進めることができるかという課題に取り組んでいる。コミュニケーションの根幹は、海岸事業を進めるにあたって、関心・懸念をもつ人びと(ステークホルダー)がどのような意見をもち、その背後にどのような「意見の理由」をもっているかを把握することである。海岸付近に居住して、波の砕ける音をつねに聞いている人びとと、宮崎の市街地に住んでいる人びとでは、浸食対策に対する意見が異なっている。また、サーファーや漁業関係者は、異なった意見とその理由をもっている。意見とその理由が同じであったとしても、その理由を形成した経緯が異なっている場合もある。
行政担当者で、海岸、港湾、農政、林野、漁港などの担当部署に配属されている人びとも、それぞれ異なった意見、その理由をもっている。理由の背景にあるのは、担当者の意見を制約する制度、関係する技術、それぞれの知識・経験・情報、個人の経験などである。さらに、海岸事業の専門家といわれる人びと、たとえば、海岸侵食対策のための防波堤や護岸の技術、いわゆる河川工学の専門家や海岸生物の専門家など理工系の専門家は、それぞれの専門領域と学説を背景に意見を述べる。海岸浸食は、沿岸流の変化や河川などからの土砂供給の問題(ダムにもかかわっている)とも深くつながっている。海岸の問題は、海岸だけの問題だけでなく、ひろく海流の問題や山から川の国土全体にもつながる問題なのである。

海洋空間を包括的に管理するための思想

海のもつ「恵みとリスク」という点から見ると、海岸侵食対策事業は、波浪による国土の侵食というリスクへの対応である。だが、海は、古代人も見ていたように、災害をもたらすばかりではなく、多くの恵みの源泉でもある。だからこそ、海にも恵みとリスクの配分をめぐって対立・紛争がつねに存在するのである。その対立・紛争を解決するために必要なのは、多様な利害を調整・調停するだけの合意形成ではない。合意が合意形成の綱引きだけで終わるならば、海岸のもつ多様な価値の包括的管理は不可能である。
海岸は、地域共同管理空間(ローカル・コモンズ)であるが、海そのものは、一地域だけに属する空間ではない。地球共有財産という意味でのグローバル・コモンズとしての海洋に連続している。地球環境問題とは、大気や海洋というグローバル・コモンズが地球環境と人類にもたらす恵みとリスクの負担の問題である。言い換えれば、地球規模の恵みの配分とリスクの負担の配分をめぐる対立・紛争とその解決への道筋を決めるのが現在の地球環境問題である。地球温暖化や生物多様性の喪失というリスクをどう回避するかという問題の解決が求められている。
地球の危機をどう克服するかという問題は、たんに技術的な問題ではない。なぜなら、グローバル・コモンズをめぐる意見の対立は、ローカル・コモンズの場合と同じように、技術だけの問題ではないからである。温暖化対策には、多様な主体の多様な意見が存在する。問題に対する各国の意見、その理由、理由の来歴はそれぞれ異なっている。背景には、制度、技術、知識・情報・経験、財力などの意見の形成理由が存在する。そればかりか、先進諸国と途上国のもつ多様な歴史が意見の理由の違いを生み出す要因となっている。グローバル・コモンズとしての海洋の恵みとリスクに対しても、海岸と同様に、海洋空間を包括的に管理するための思想、技術が必要である。それは、利害の対立する多様な主体の間の意見の違い、その理由、理由の来歴を踏まえた合意形成の思想と技術でもある。(了)

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