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オーシャンニューズレター

第232号(2010.04.05発行)

第232号(2010.04.05 発行)

事実と真実 - 海洋調査が危うい

[KEYWORDS] 海洋調査/海洋観測/海洋データ
東京大学大学院農学生命科学研究科教授◆黒倉 壽

船舶による海洋調査は、これまで各地方自治体によって半世紀以上にわたって行われてきたが、これからは、国がなすべきこと、地方自治体がなすべきこと、民間がなすべきことを明確に分けるという視点からなされなければならない。
国には、予算措置を含めて、わが国の領海および排他的経済水域の海洋調査の体制整備に取り組み、海洋立国実現の礎となる海洋データ存続の危機に対応することを求めたい。

観測から真実を見つける

事実と真実の関係に関する感覚は人によって違いがある。乱暴に整理してしまえば、一般人の感覚では、生のデータそのもの(事実)が自らの感性を納得させる根拠である。研究者が持っている感覚はそれとは少し違う。
キーリング曲線は、前世紀から今世紀にかけての大気中の二酸化炭素濃度の急激な上昇という事実を世界に示した。この曲線は、キーリングがハワイのマウナ・ロア山の山頂で、1958年から始めた長期間にわたる大気中の二酸化炭素濃度変化の精密な記録に基づいて作られた。大気中の二酸化炭素の濃度は測定場所周辺の動植物や人間の活動によって大きく影響を受けている。天気や火山活動などの影響なども大きい。測定された生データは、時々刻々生ずる不規則な変動、季節的な変動、長期的なトレンドを含んでいたはずであるが、そこから季節的な変動を取り出し、長期的な変化を示したところに科学者としてのキーリングの手柄がある。長期にわたる連続的な観測とその記録があって初めて真実としての変化がわかる。

海洋観測の特性

海水の成分や物性も、生物や人間の活動、気候や季節などさまざまな要因によって変化する。そのこと自体は大気と同じであるが、その変動の仕方は若干異なる。最も重要な違いは混ざりやすさであろう。もちろん、天気図の前線のように大きなスケールでは大気もまた容易に混合しないが、海水はそれよりももっと小さな空間スケールで混合しにくい。海辺で海水浴をしているときに、急に温度の違う水に遭遇した経験はないだろうか。
海洋環境は大気環境よりももう少し小さい空間スケールで変動している。比熱の大きさなどを考えると、海水の諸特性の変化は時間的には大気に比べて安定であるが、空間的には変動が大きいと言える。したがって、海洋調査では、大気よりも空間的に密に配置された測点で観測を行わなければ全体像が分からない。
衛星によるリモートセンシングは二次元的に情報を広くカバーできる有力な調査手法である。しかし、その情報は直接的には海面の情報に限られるだけでなく、衛星軌道の関係からいつでも利用可能ではないし、すべての海面をカバーできるわけでもない。また、水中のデータは得られない。さらに、リモートセンシングによって得られたデータを、海の現場において直接に得られた情報と照らし合わせることによってはじめて真実がわかる。現代の海洋調査は、衛星によるリモートセンシング、観測ブイなどによる連続的な定点観測、そしてそれらをつなぎ補うものとしての船舶による海洋調査によって構成されている。それぞれに特性があり、それぞれ必要なのであり、技術が進んでも船舶による海洋調査が不要になるわけではない。

わが国の海洋観測と国・地方自治体の役割


■某自治体の海洋調査予算にかかわる予算の変遷(個人的情報交換による)


■水産関係研究機関の数・研究費・研究員の推移

船舶による海洋調査はどのような機関によってどのように行われているのであろうか。量的に最も多いのは地方自治体の水産試験場によって行われている海洋調査である。わが国では、各地方自治体によって半世紀以上にわたって、船舶による海洋調査が行われている。その測点数は年間1万測点程度であると推測される。先ほどのデータとそこから導き出される科学的真実との関係を前提に、わが国の沿岸線の長さと排他的経済水域の広さ、さらに季節的な変動も考えれば、この測点数は決して多いとは言えない。
これらの調査は、(独)水産総合研究センターや各都道府の連携のもと、無駄なく広い海面をカバーするように調整されている。新たに多くの船を建造し、調査要員を確保するには多くの予算が必要である。わが国では、そうした基盤が社会資本としてすでに整備されているのである。これはきわめて頼りになる誇るべき実績である。今後さらに、測定法や機器を整備して、調査内容を充実させていく必要がある。また、より広く利用しやすい形でデータを公開していくことも必要である。
こうしたわが国の誇るべき歴史に最近かげりが生じている。どうやら、各地方自治体における海洋調査の実施が困難になっているらしいのである。個人的に得た未公開情報でも、某自治体の海洋調査に向けられる研究予算は10年前の半分以下になっていた。地方自治体における財政の逼迫という問題もあるが、もう一つの問題として、地方分権化の問題がある。従来、海洋調査は地方自治体の予算と国から配分される予算によって行われてきた。地方分権化によって、国からの予算配分を減少させ、海洋調査に必要な予算の配分を地方自治体の裁量に任せた場合、海洋調査に充てられる費用は確実に減少するだろう。海洋調査は直接に地方の経済には裨益しない。地方財政では最も削減されやすい支出項目の一つである。たとえば国防について考えてみる。他国からの侵略はおそらく局地的に行われる。だからといって、これを一地方の問題として国として対処しないということができるだろうか。同様に、海洋調査データの整備は国全体として行わなければ意味を持たない。国・地方自治体を含めて様々な機関が協力し合うことが必要である。

海洋基本法第22条には国が海洋調査のための体制整備に努めなければならないことが定められている。必要な予算を確保し調査の統合的な調整を行わないことは国の怠慢である。事業仕分けも、地方分権化もそれなりに結構なことである。それらは、国がなすべきこと、地方自治体がなすべきこと、民間がなすべきことを明確に分けるという視点からなされなければならない。
国連海洋法246条の3には、平和目的のための科学調査については、排他的経済水域内で行われる他国の海洋調査に対して、通常の状態においては沿岸国が同意を与えることが定められている。また同条の4には、調査実施国との間に外交関係がない場合にも、通常の状態と見なすとある(ただし、調査実施には沿岸国への通報・情報提供義務がある)。国際社会の現状において、平和目的の科学調査とは何かという国際合意は明確に存在しない。実際問題として、科学調査と経済目的の調査・軍事目的の調査を、調査内容から明確に区別することは不可能であろう。十分な科学調査が行われていない、あるいは、それらの成果が十分に公表されていない状況で、その必要性を根拠にされれば、わが国の排他的経済水域内での他国の海洋調査を拒否することはできないのである。
国には、予算措置を含めて、わが国の領海および排他的経済水域の海洋調査の体制整備に取り組み、海洋立国実現の礎となる海洋データ存続の危機に対応することを求めたい。(了)

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