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オーシャンニューズレター

第22号(2001.07.05発行)

第22号(2001.07.05 発行)

海の開放性と閉鎖性

横浜国立大学大学院国際社会科学研究科助教授・アジア経済史◆飯島 渉

私は、「国際化」という言葉よりは、「世界化」ないしは「全球化(グローバル化)」という言葉に親近感を持っている。「国際化」は、無前提に近代国家を前提としているからである。現在につらなる近代国家(ないしは、その統治した植民地においても宗主国は同様の論理を主張した)は、わずか100年ほどの歴史しか持っていない。現在、海をどのように理解するかをめぐっては、近代国家的な制度の問題点が顕在化しているように思われる。

歴史における海―「つなぐ海」―

海を媒介とするヒトの移動や交易は、文化、宗教、技術などを伝え、それ故、海の覇権をめぐる興亡が陸の政権の盛衰に大きな影響を与えてきた。このため、ヒトは、海をコントロールするためのさまざまな技術を生み出してきた。海上交易からの徴税を行う税関が、陸の政権の財政を支えた事例は数多い。例えば、華僑につらなる中国商人の活動の中で、中華帝国は、海上交易から大きな収入を得ていた。

しかし、海が運んできたものは、文化、宗教、技術だけではない。現在のわが国ではあまり意識されることはないが、天然痘やマラリア、コレラといった病気も多くの場合、海を媒介として、ヒトの移動や交易によって伝えられたのである。

天然痘、マラリア、コレラ―「コロンブスの交換」―

病気の交流の事例としては、16世紀にヨーロッパからもたらされた天然痘が南アメリカの原住民の人口を激減させたことによって、スペインによる植民地化を促進したことがよく知られている。植民地化の影の主役は、実は天然痘だったのである。こうした事例をあげればきりがない。ハワイがヨーロッパに知られるようになったのは、18世紀後半のことであったが、原住民はヨーロッパ人がもたらした病気の犠牲となり、この結果、サトウキビなどの農業プランテーションの労働者として、中国人や日本人の労働力が求められることになった。現在のハワイがもつマルチ・カルチャーの淵源は、ここに求められる。この分野のパイオニアであるクロスビー氏は、歴史の中のこうした現象を「コロンブスの交換(ColumbianExchange)」と呼んでいる。

目を東アジアに転じてみよう。琉球王朝は、14世紀から中国の明王朝への朝貢貿易を行うとともに、琉球商人は、薩摩による琉球王朝の支配が行われる17世紀はじめまで、東アジア・東南アジアの港をかけめぐって交易を行った。この時代は、琉球王朝の「大交易時代」と呼ばれる。琉球商人は、東南アジアを代表する海洋国家であったマラッカ王国も訪れていた。こうして、琉球王朝は、東南アジア産品を中国、日本(やまと)と交易することによって大きな利益をあげていた。

こうした中で、琉球では、周辺地域から海を通じてもたらされた天然痘、麻疹(はしか)、さらにはマラリアが流行し、人口動態や社会に大きな影響を与えた。琉球王朝は、ちょうど現在のシンガポールや香港のように、中国、日本や東南アジアをつなぐ役割をはたし、さまざまなヒト、モノを流通させた。この結果、病気の交流も顕著であった。19世紀後半のいわゆる琉球処分の際にはコレラが流行した。ちなみにこの時のコレラは、鹿児島からの感染であり、琉球の政治的な位置の変化を反映していた。

検疫という海のしかけ―「へだてる海」―

検疫の様子
20世紀初頭、中国東北部、営口での検疫の様子
(出典:奉天全省防疫総局『東三省疫事報告書』奉天図書館印刷所、1911年)

19世紀初頭のコレラの世界的大流行は、病気が政治、経済、文化にもっとも大きな影響を与えた事例のひとつである。この時期のコレラは、現在も流行することのあるエルトール型コレラではなく、致死率のきわめて高いアジア型コレラであり、もともとインドの地方病であった。アジア型コレラは、インド国内の巡礼によるヒトの移動とイギリスによる植民地化と連動することによって、グローバル化する。

インドでコレラの感染爆発が発生したのは、1817年のことであった。その後、コレラが東南アジア、中国をへて、琉球や日本に到達したのは、1820年代のはじめであり、わずか数年しかかかっていない。このことは、インド洋海域世界や東シナ海海域世界での活発なヒトやモノの交流を反映したものであった。

コレラの流行は、ヨーロッパでは都市における水道事業を発達させ、都市計画などのさまざまな「しかけ」を生むことになった。税関での検疫は、こうした「しかけ」のひとつである。検疫は、インド、トルコからのコレラの感染を防ぐためにヨーロッパで整備され、国境でのヒトやモノの移動を管理する制度のひとつとなった。日本の税関は、港湾に設置されたが(現在では、これに空港が加わり、ヒトに対する検疫は空港のほうが一般的であろう)、このことは、一面では、税関の置かれている場所以外でのヒトやモノの交流が制限されたことを意味していた。

近代国家は、以上のような歴史の中で、税関を通じてヒトやモノの移動を管理する制度を確立させた。また、19世紀末には、国籍概念が明確化される中で、検疫、パスポート・コントロール、税関という、出入国の制度が整備される。

海の開放性―「つなぐ海」へ―

柳田國男の『海上の道』のモチーフとなった椰子の実のエピソードはよく知られている。ある海岸に打ち寄せられた「名も知らぬ遠き島より流れ着いた」椰子の実から、柳田は、はるか古代の日本列島に住む人々が琉球を経由して南方から日本列島に辿り着いたのではないかと考えた。しかし、近代国家は、こうした海が本来持っていた開放性を制限する方向性を志向した。20世紀に入ってからは、国際連盟や国際連合を通じての管理がこれに加わる。

しばらくの間は、国家が海を管理するという制度は維持されるであろう。しかし、将来的な制度は、20世紀的な制度の延長線上に展望されるものなのであろうか。歴史を学ぶものとして、将来展望はこれを慎みたい。しかし、歴史に学ぶことは、現在を生きる私たちの義務である。その際、現在の制度の基礎となった制度がどのような契機の中で登場したのか、そして、海をめぐっては、海洋覇権をめぐる紛争があいついで起ったことはいますこし銘記されてもよいであろう。20世紀は、ある意味では、海を「へだてる海」として管理した。海を「つなぐ海」とするためには、いったいどのような制度が展望されるべきなのであろうか。(了)

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