Ocean Newsletter
第229号(2010.02.20発行)
- 佐渡市長◆髙野宏一郎
- 海洋・東アジア研究会◆冨賀見栄一
- 名古屋大学地球水循環研究センター 教授◆安成哲三
- ニューズレター編集代表(総合地球環境学研究所副所長・教授)◆秋道智彌
島を語る
[KEYWORDS] 海が伝えた文化/北前船/トキも渡る海佐渡市長◆髙野宏一郎
佐渡は海に囲まれ、トキに代表される自然豊かな島である。
海を語ることなしに佐渡を語ることはできない。
かつて、佐渡金銀山の開発、発展により全国各地から多くの人が海を渡り、また、北前船交易の要衝として数多くの人々が行き交い、多くの文化、芸能が佐渡へもたらされた。
佐渡で生まれ育った者は島を離れても、故郷佐渡への想いが強く、私も島へ戻って早40年、これからもこの島で暮らしてゆく。
歴史と文化

復元された北前船、白山丸。ふだんは千石船展示館内に展示されるが、年に一度の白山丸祭りの際には屋外展示が行われ、帆揚げがされる。
私の住んでいる佐渡島は本土から約40キロメートルはなれた日本海に浮かび、新潟県に属している。周囲約280キロメートル、面積約855平方キロメートル、東京23区の1.4倍の広さで、離島としては日本一大きな島である。
佐渡の歴史はふるく、『古事記』『日本書紀』の国生み物語に登場する由緒ある島で、真野地区には奈良時代後半に建立された佐渡国分寺跡が残る。また『今昔物語』には佐渡で砂金が採れた記事がみえ、真偽のほどは別として、建立当初の東大寺の大仏に佐渡の金も使われたのではないかといわれている。『東方見聞録』でマルコ・ポーロが「ジパングは、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど財宝にあふれている」と記載した日本の金には、奥州と並んで佐渡も含まれていたに違いない。一方、神亀元年(724年)に遠流の地に定められた佐渡には、順徳上皇、日蓮上人、世阿弥など、時の政権との対立によって数多くの政治犯や知識人が流され、島国佐渡に悲しい物語をのこしている。
西三川(にしみかわ)砂金山に始まる佐渡の鉱山は、中世の新穂(にいぼ)・鶴子(つるし)銀山の発見、近世初頭の相川金銀山の開発へと進展し、以後平成元年までその歴史を刻み続けた。特に、坑道堀りや灰吹法といった採鉱・精錬の新技術の導入によって驚異的な発展を遂げた相川金銀山は日本最大の金銀山としてその名をとどろかせ、江戸幕府の財政を支えた。
日本海の孤島に突如現れた金銀山を目指して、全国各地から荒海をものともせず大勢の人々が集まり、佐渡相川はまたたく間に「京、江戸にも御座なきほど」の繁栄を誇る鉱山都市となった。鉱山の最盛期、島は人口10万とも20万人とも言われるほどの大賑わいをみせた。人が集まればそれだけ物資が必要となる。人や物をのせて日本海を往来する船は、この島に多様な文化を運び込んだ。さらに北前船のメインルート上に位置し、小木(おぎ)という良港を持った佐渡は、今の新幹線の駅や高速道路のジャンクションにも相当する日本海交易の拠点であった。
日本を代表する民謡の一つである「佐渡おけさ」は、小木の港で歌い始められたと伝えられるが、風待ちの港で、船乗りたちが無聊の慰めに各地で聞き覚えた一節を遊女に伝えたものだろう。その元唄は九州天草の「牛深(うしぶか)ハイヤ」だと言われている。佐渡赤泊地域では「ハイヤ」が昔のままに歌い継がれていて、テンポや節回しなどにそれが偲ばれる。
1,000キロメートルも離れた牛深から、いとも容易に伝わるには海のルート以外に考えられない。牛深のハイヤもその原点は奄美らしい。奄美の六調(ろくちょう)がそれで、テンポの早い、心が浮き立つような民謡で、これがハイヤの原点だという説がある。そうなると六調はどこから来たのか、そして北上するにつれて哀調を帯びてくるのはなぜか、興味がつきない。
海に囲まれた島
佐渡の冬は厳しい。しかし時に風がおさまれば、対馬暖流が洗う佐渡の南側海岸は驚くほど暖かい。冬の平均気温は本土に比べ2~3度高い。最近では温暖化のせいか、みかんも本格的に栽培されだした。少々酸味が強いが、味が濃い。もちろん「おけさ柿」の生産は有名で、洋ナシのル・レクチェも毎年品質の良さで名をあげている。その一方で北西の季節風がスジ雲を伴って佐渡の上空を行過ぎると、海岸には風に吹かれて、対岸からの珍しい贈り物が流れ着く。流木が多いのだが、最近はハングル文字の書かれたプラスティックの漁具(アナゴ籠、浮きなど)が多い。ペットボトルをはじめ何か薬品が入った容器も目に付く。注射針やたまには重油ボールもある。何年に一度かは北朝鮮の木の小船も流れ着き、ほんのたまには遺体が乗っている。そういえば、佐渡には対岸の韓国などの地名とおぼしき地名が多く残っている。たとえば白木(しらき)は、新羅に由来していると言われ、北狄(きたえびす)は古代中国の北方異民族をさしているようだ。ロシアのダッタン人の塚もある。昔から対岸とは一衣帯水、対岸から流れ着いて住みついた人びとによってつくられた集落もあったに違いない。
平成14年の秋、朝7時、出庁前にシャワーを浴びた後何気なくNHKのニュースを見ていた私は、脳天を断ち割られるような衝撃を受けた。行方不明とされていた曽我ひとみさんが拉致被害者として北朝鮮から帰ってくることになったのである。行方不明から24年が過ぎていて、彼女と母親が突然この世から消えうせた不思議について思い出す者は少なかった。
人を人と思わないたくらみによって袋に詰められた彼女は、沖合いに停留していた親船に乗せかえられ、翌日には北朝鮮に着いていた。連れ去られた先がわずか800キロメートルの対岸であることなど、誰の意識の中にもなかった。着船したとき、彼女の母親はその船にはいなかったという。それ以来曽我さんは母親に会っていない。四方が海だという島の意識がいつの間にか私たちの意識から消え、本土や東京だけを向くようになっていたのだ。
佐渡から飛び立ち、再び佐渡へ
平成20年の9月25日トキが放鳥された。1年間飛翔訓練を受けた10羽のトキが秋篠宮殿下、妃殿下をお迎えして大空に放たれた。どういうわけか、そのうちの4羽のメスだけが海を渡った。そういえば小高い山に登れば本土は指呼の間にある。トキは昔は渡りの習性を持っていたという。あまりにも美しい佐渡の海をみて、トキはまた渡りの本能を呼び覚まされたのだろうか。
佐渡は海に囲まれた島である。海を語ることなしに佐渡を語ることはできない。島に生まれた者は、海で湯浴みをし、海に看取られる。佐渡の火葬場は必ず海が見える丘にある。島を離れた者の多くは、母なる故郷の海の呼ぶ声にあらがえず、ことあるごとに舞い戻ってくるのだ。若いとき、島を後にした私も島に戻ってすでに40年、もうすっかり海に囲まれた佐渡で人生を終える気持ちになっている。(了)
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