Ocean Newsletter
第225号(2009.12.20発行)
- 愛知県水産試験場長、名城大学総合学術研究科特任教授◆鈴木輝明
- 東京大学大学院法学政治学研究科 教授◆中谷和弘
- 元海上保安庁羽田特殊救難隊隊長◆古谷健太郎
- ニューズレター編集代表(総合地球環境学研究所副所長・教授)◆秋道智彌
海難の発生に備えて ~海上保安庁羽田特殊救難隊の活動について~
[KEYWORDS] 海難救助/特殊救難隊/不確実性元海上保安庁羽田特殊救難隊隊長◆古谷健太郎
日本全国で発生する特殊な海難に対応するため、羽田空港に隣接して海上保安庁特殊救難隊が24時間体制で待機している。
彼らは危険な現場での救助作業を敢行するため、厳しい訓練に耐え自らの技術の向上に努めるとともに不測の事態に対応できる能力を涵養している。
プロローグ:特救隊出動
ある冬の未明のことであった。
「現場海域まであと15分」「特救隊、了解。救助準備にかかります」
当時、私は海上保安庁特殊救難隊(略して「特救隊」)に所属していた。ちょうど5名乗組の199トン型貨物船が座礁して横転する可能性ありとの海難情報に接し、救助へ赴くところであった。座礁した船が横転や転覆した際には乗組員の生命は保証できない。また折からの猛烈な冬型の気圧配置により海上は大シケであり、巡視船艇は出港不可能であり、ヘリコプターと特救隊に出動が下命された。
「現場到着。座礁船の状況確認を行う」「了解」
同時に無線を通じて座礁船の乗組員にヘリコプターのクルーが呼びかける。
「こちらは海上保安庁ヘリコプターです。○○丸の皆さん、救助に来ました。ライフジャケットをしっかりと装着し、もうしばらく頑張ってください」
現場付近は20~30メートルの猛烈な風が吹いていた。また船の甲板上には青波が激しく打ちつけ、船体は今にも破壊されそうな状況である。いつ横転・転覆するか分からない乗組員の救助に躊躇する余裕はない。
「特救隊の降下地点は左舷側、船橋前面の3メートルぐらいのところ。降下後は乗組員に救助用のハーネスを装着して2人ずつ吊上げます」
それだけクルーに伝えて、われわれは激しく揺れる座礁船へとヘリコプターから降下した。
海難救助の特殊性:訓練による対応能力強化

吊上げ救助訓練

転覆漁船救助作業。オレンジ色は魚網
特救隊は転覆船からの人命救助、ヘリコプターと連携しての救助、船舶火災の消火や危険物が漏洩している船舶での救助など、特殊で高度な知識と技術が要求される海難に対応するべく羽田空港に隣接して設置され、24時間体制で日本中の海難に備えている。映画『海猿』で潜水士の活躍が紹介されたが、特殊救難隊員はその中から選抜され厳しい訓練を受けて誕生する、まさに海難救助のプロフェッショナルである。
海上での救助作業は陸上の救助作業と大きく異なり、巡視船艇で現場に到着するまで相当の時間を要することがある。そのため至近の空港からヘリコプターで現場まで赴き、高度約15メートルでホバリング(空中静止)するヘリコプターからロープを使って現場へ降下する手法を多用する。ところが漁船の救助へ向かうのであれば、降下できる場所が甲板機械に囲まれた座布団1枚分の大きさしかない。帆船などはマストが動揺しヘリコプターが接近できないため、近くの海面へ降下して泳いで移乗することもある。
さらに海難が発生するときの気象・海象条件は極めて厳しく、時として大型の台風並みの風が吹き荒れ、波の高さは3メートルを超える。ヘリコプターは前後・左右・上下に揺れ、遭難した船舶は波に揺られて激しく動揺している。このような場所で救助作業を行うことが特救隊に求められているのである。このため、救助作業に必要な技術、危険な現場で作業を敢行する気力・体力を養成する訓練を幅広く実施している。例えば厚い氷が張った湖や流氷が存在する海域での潜水訓練、ヘリコプターから限定された狭い場所への降下訓練、火災船や危険物を積載した船舶における作業を行うための呼吸器、検知器や化学防護衣などの取扱い訓練、さらに適切な救急措置を行うための訓練などがそれである。
また海難は、気象・海象条件、場所、遭難者の有無などのさまざまな状況で発生する。このため過去の事例、想定しうる状況を基に厳しい訓練を繰り返し、救助作業のシミュレーションをしている。例えば厚い氷の張った湖での訓練は、氷に阻まれ容易に水面に浮上できない水域でもある。これは特救隊が実施する容易に浮上することが許されない転覆船内における救助作業に通じる。さらに南北に長い日本列島すべての海域で発生しうる海難に対応するためには、極寒地での潜水作業を想定した訓練も必要となる。
不確実性への対処:直感力の養成
ところで、もう一つの非常に重要な要素は「不確実性」への適切な対処ではないだろうか。すなわち海難救助を行う際には予想可能なリスクと予測不可能な事柄が存在する。例えば、ヘリコプターがホバリングする際のダウンウォッシュ(ヘリコプターが飛行に伴い作り出す下降気流)により小型船を転覆させるリスクがある。一方、まったく予測不可能であった突風によるヘリコプターの動揺により救助者自身が船体に激突する、あるいはロープが切れるかもしれないという不確実性も存在するのである。
この不確実性に対処するには、救助作業にあたる隊員が、まず、その経験・知識・技術を最大限に活用して現場の状況を細かく観察してリスクを判断しなければならない。その上で最後は、不確実性を五感を研ぎ澄ませて察知し、直感に基づき即断するのである。例えば降下前の観察によりダウンウォッシュの状況を確認する。さらにヘリコプターの安定度を五感で感じ、不測の動揺などに対処する必要があるのである。
この不確実性に対処する「直感力」を簡単に鍛えることができればどんなに素晴らしいことであろう。しかしこの救助作業の能力を強化する方法は、継続的な苦しい訓練に耐え、また自己に潜む恐怖と対峙する訓練を通じて涵養されるものである。簡単には鍛えられるものではない。今日も彼らは将来の海難に備え、自らを鍛えていることであろう。
エピローグ
「おはようございます。海上保安庁特殊救難隊です。皆さんの救助に参りました。怪我をされた方はいらっしゃいませんか?」
緊張感に満ちる船橋に突然の来客で雰囲気が変わる。座礁した船に取り残された乗組員は、このままでは本船の横転・転覆は免れずと死を覚悟したところだったであろう。船長が答える。
「幸いかすり傷程度です......どうやって、来たのですか?」「ヘリコプターから降りて来ました。ちょっと風が強いのですが、ヘリコプターへ吊上げますので。もう少し辛抱してくださいね」
あっけに取られる乗組員の方に救助器具を装着しヘリコプターへ吊り上げ、最後に現場へ出動した特救隊員2名がヘリコプターに吊り上がり現場から離脱。
ちょうど東の空の雲の切れ目から顔を出した太陽が映し出した乗組員は緊張から解放され、頬は涙のあとが深く残っていた。特救隊員も「生」を感じる充実したひと時である。救助を終えたヘリコプターは羽田へと帰還した。(了)
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