Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第223号(2009.11.20発行)

第223号(2009.11.20 発行)

海とわたし

[KEYWORDS] 海派/人生観/荒海
プロデューサー◆残間里江子

人によって「山派」と「海派」に分かれるらしいが、私は断然、海派だ。
山は上って下りることから、海は凪いだ日もあれば嵐の日もあることから、しばしば人生と重ねて捉えられるが、海派の私は、波乱万丈・疾風怒濤の荒海を越えてこそ、望みが叶えられると思っており、それが人生観の根幹を占めている。

山派? 海派?

長く生きてくると、何となく好きな言葉と、あまり好感を覚えない言葉というものが存在するものだが、「海」という言葉は「旅」を想起させるせいか、好きな言葉のひとつだ。われら団塊世代は、総じて「旅」という言葉に対する好感度が高く、あの山の彼方、あの水平線の向こうに旅をすれば、そこには新しい出会いや未知なる可能性があるような気がしている。
人によって「山派」と「海派」に分かれるらしいが、私は断然、海派だ。山は上って下りることから、海は凪いだ日もあれば嵐の日もあることから、しばしば人生と重ねて捉えられるが、海派の私は、波乱万丈・疾風怒濤の荒海を越えてこそ、望みが叶えられると思っており、それが人生観の根幹を占めている。
荒波を越えないことには凪いだ平穏な日々はやって来ないと思い込んでいるようなところがあって、波が高ければ高いほど、逆風が吹き荒れればあれるほど、新たな闘志が湧いてくるという人間である。
人は死ぬ直前、生涯が数十秒間に凝縮されて走馬灯のように目の前を行き過ぎると言われているが、いくらハイスピードで回転させたからといって、シミ一つないのっぺらぼうの灯籠より、少々の傷やデコボコがある方がいいと思っている。だから安定志向の強い若い人には「人生、一度や二度なら暗礁に乗り上げてもいいじゃないか!」と檄を飛ばしているのだが、こういう時も頭の中にある人生のイメージは、海なのである。間違っても、「人生、一度や二度なら谷底に落ちたっていいじゃないの!」とは思わないのである。

海との一体感を求めて

こんなにも海が好きなら、海と一体感を持つために、海に入り、海と戯れているのかと言えば、これが駄目なのである。波打ち際を歩くのは大好きなのだが、入れないのである。
つまり、泳げないのである。
幼い時に小児性の関節リウマチに罹り、小中学校時代は心臓弁膜症を併発して、体育の授業は全て見学、中でも体を冷やす水泳は厳禁されていたこともあって、大人になるまで水に入った経験がほとんどないのである。二十歳を過ぎたあたりから健康を回復し、泳ぐこともできるようになったのだが、長い間運動をしてこなかったせいで、運動神経が鈍く(親しい友達は「鈍いのではなく、元々運動神経が無い」とも言うのだが)いつしかスポーツ全般が苦手になり、自ら身体を動かすことはしなくなったのである。
ところが、十数年前、オーストラリアのゴールドコーストに行った時、海のあまりの美しさに魅了され、「泳げなくても大丈夫ですよォ~、しっかり教えますから一緒にやりませんかァ~。ナポレオンフィッシュと記念写真も撮れますよ」と言う、巧みなダイビングクラブの人の「誘われ言葉」に乗ってしまい、スキューバダイビングに挑戦したのだった。海の中を見るのも大好きで、グラスボートがある場所に行ったら必ず乗って、水中遊覧をすることにしている。ここでうまくいったら東京に帰って、ダイビングスクールに通おうかしらなどと、夢をふくらませながら装具を着け、水深1メートルくらいのところに張られたネットの上で、まずは呼吸法を習った。
ところが海面に顔をつけた瞬間、夢は即刻破れたのである。教わった通りにやっても息ができないのである。パニック状態になっている私を横目に見ながら、一緒に挑戦した女友達はものの一秒、顔を海水につけただけで「私、向いていないわ」と言って、さっさと帰り支度を始めたのだった。すでに私もナポレオンフィッシュまで到達できる自信はなかったが、ここまで来たからには小魚の一匹でも見ないうちには引き下がれないという意地があって、苦しさを我慢して海の中に顔を沈め2、3分も経っただろうか。30センチくらいの黒い魚が一匹、目の前を横切ったのである。何も見なかった女友達に比べたら私の方がずっとマシだと思い、黒い魚を脳裏に焼きつけて、私もギブアップを決めたのだった。わずか数分間の海中生体験ではあったが、「泳げない人でも大丈夫」というのがウソだということだけは解った。
この「後遺症」のせいで、すぐには行く気になれなかったのだが、数年後、海にもう少し近づくためには「泳ぎたい」と思い、一念発起して水泳を習いに行ったのである。足掛け8年、仕事の都合で飛び飛びながらではあるが、トレーナーからレッスンを受けているのだが、まだ泳げないのである。厳密に言えば、かろうじて泳げるようにはなったのだが「息継ぎ」ができないのである。
だから今もって海は、「見るもの」であって「入るもの」ではないのである。
「入る海」は気長に待つとして、できるだけ海のそばに居たいとは思っている。

グレートバリアリーフのナポレオンフィッシュ。
グレートバリアリーフのナポレオンフィッシュ。
(写真:Stepen B. Goodwin)
住むなら嵐の日に荒れた波頭が見えるような場所がいい。
住むなら嵐の日に荒れた波頭が見えるような場所がいい。
(写真:bierchen)

いつか海の見える家に

東京湾ディナークルーズの著者(2009年夏)
東京湾ディナークルーズの著者(2009年夏)

この夏、私は新しく始めたプロジェクト(新しい大人文化創造のために作ったネットワーク「club willbe」※)が忙しく、夏休みもとれず、同居する母をどこにも連れていけないことが気になっていたのだが、時間のない中で「遠出」の気分を味わうには「海に行くしかない」と思って、母と2人で東京湾ディナークルーズに出かけた。夜の東京湾は、陸地側はネオンが重なり、都会そのものの景観だが、デッキに立って外洋側を見ると、遠くに霞む灯が一瞬海外の港町にいるような錯覚をもたらし、疲弊した心身が解放させられた。
110歳まで生きると豪語している93歳の母も海が好きで、いつか海の見える家に住みたいと願っている。私の理想の住まいも窓の下にすぐ海があるような空間で、それもできれば穏やかな海ではなく、嵐の日には荒れた波頭が見えるような場所がいい。
......そこから過ぎ去った嵐のように激しく生きた日々を、ロウスピードで思い起こしてみたい。(了)

第223号(2009.11.20発行)のその他の記事

ページトップ