Ocean Newsletter

【Ocean Newsletter】バックナンバー

第221号( 2009.10.20 発行)
第221号(2009.10.20 発行)

日本最初の洋式船「戸田号」の建造とロシア人との友好

[KEYWORDS] 戸田号/日ロ交流/近代造船
宝泉寺 住職◆伊藤一雄
名古屋大学理学部事務長◆伊藤正彦

ロシア帝国の極東外交で活躍した人物として知られるロシアのプチャーチン提督は、日露和親条約を締結するなど幕府との外交交渉にあたっただけではなく、民間レベルで日本と友好関係を築いていた史実はあまり知られていない。
軍艦ディアナ号の遭難、戸田の船大工が作った初の洋式船「戸田(へだ)号」、プチャーチン提督らと戸田村民との友好の歴史について紹介したい。

はじめに

静岡県沼津市戸田(へだ)(旧田方郡戸田村)は、東側に達磨山(981.9m)などの山々があり、西側に駿河湾と内海の戸田湾に面する西伊豆の漁村である。駿河湾は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界が接する地震が発生しやすいところである。今から155年ほど遡る嘉永7年(1854年)11月4日に安政の東海大地震(マグニチュード8クラス)と言われる巨大地震が起こっている。この地震に運悪く遭遇したロシアのプチャーチン提督が率いる軍艦ディアナ号は、地震による津波により沈没している。以下に、プチャーチンの来航とディアナ号の遭難、戸田付近の船大工が作った初の洋式船「戸田(へだ)号」、プチャーチンらロシア人と戸田村民との友好の史実について紹介したい。

プチャーチンの来航とディアナ号の遭難

嘉永6年(1853年)7月ロシアの使節プチャーチン提督は、軍艦4隻を率いて長崎に来航し、国書を長崎奉行に提出し出航した後、再び、翌年10月ディアナ号単艦で下田に入港した。その目的は、北海道・千島・樺太方面の国境問題を解決することと通商条約を結ぶことであった。ところが、11月4日の朝9時ごろ大地震が起こった。港内に碇泊中のディアナ号は、津波(波の高低差約11.6mと記録)で艦底を破損し激しく浸水した。この津波で大砲の下じきとなり水兵1名が死亡、2名が重傷を負った。
大きな損傷を受けたディアナ号は、沈没の恐れもあり修理が急がれたが、下田では英仏の軍艦に見つかる危険があったため、伊豆半島の浦々を調査した結果、戸田浦(田方郡戸田村)を修理地として決定した。理由は、御浜岬が突き出ており内側は砂浜で良湾であること、三方が山に囲まれていて交戦国の英仏の目に触れにくいことなどであった。ディアナ号は戸田浦へ向かうため下田を出航したが、途中で大しけに遭い、戸田と反対方向へ押し流され、宮島村(富士市)沖合で沈没した。日本人の献身的な救助活動により1名の死者もなく全員上陸できた。
上陸したロシア人約500名は陸路戸田村へ入った。プチャーチンやスリゲート公爵など上官は宝泉寺を宿所とし、士官は本善寺に、他の者は付近に長屋4棟を急造して3カ月余の戸田村の生活を始めた。プチャーチンは宝泉寺に百余日滞在し、日露交渉に当たる一方、造船を指揮した。5回の会談の結果、12月21日には下田長楽寺で日露和親条約の締結に至っている。

「戸田号」の建造

ディアナ号が沈没し、代船の建造が必要になったため、造船場所として戸田港牛が洞が建造地として決定された。設計は、技術将校モジャイスキー大尉指導のもとに、工学士、士官が担当し、これに日本人大工が同席した。設計にあたっては、所持品の中にあった『海事集録』(1849年第1号)という雑誌が参考にされた。作業は露天で、テーブル代わりに樽を逆さまにして戸板をのせ、その上で行われた。日本側も西洋式造船術を会得する絶好のチャンスと考えて積極的に協力した。設計図ができあがると、仕事は日に夜をついて強行された。日本側からは戸田の7人の船匠(船大工の棟梁)、船大工約40人、人夫150人が招集された。日本側の者は、洋式造船は未経験で何もわからず、直接帆船の建造に参加したのはこのときが初めてであった。
この船の建造を開始したのは安政元年(1854)12月24日であったが、仕事は順調に進行し、設計から百日余の翌安政2年3月15日ころに竣工した。この船はプチャーチンにより「戸田号」と命名された。2本マストの帆船で87トン、50人乗りで建造費は三千百両二分と記録されている。
プチャーチンと部下47人は、3月22日この戸田号で帰国の途につき、7カ月後の11月末に首都サンクトペテルブルグに到着している。その他は、下田に入港していたアメリカ船を雇い、2月に159名の部下をペトロパブロフスク・カムチャツキーへ先発させており、残りの乗組員300名程は、戸田号出航後、ドイツ船で帰国し、途中でイギリス船に拿捕され捕虜となっている。なお、下田で1名、戸田で2名のロシア人が死亡している。

「ディアナ号」の模型(戸田造船郷土資料博物館所蔵)
「ディアナ号」の模型(戸田造船郷土資料博物館所蔵)
「戸田号」の模型(戸田造船郷土資料博物館所蔵)
「戸田号」の模型(戸田造船郷土資料博物館所蔵)

ロシア人と戸田村民との友好

滞在中のロシア人に対しては、「もらうな、やるな(与えるな)、つきあうな」という禁制があったにもかかわらず、戸田村民は人情豊に面倒をみた。マホフ神父の記録の中にも、「かれらは客好きで善良である。オランダ人以外の外国人を入国させないという法をまげてまで、私たちを愛想よく迎え、住居を提供して、生活に必要なものをすべて持ってきてくれた。かれらは友情に厚く同情心に富み、私たちは滞在中、誰一人として侮辱を受けた者はいない。常に好意と尊敬を示し、日本を去るときにも友情を示し別れを惜しんでくれた」と記している。

おわりに

「露國人之墓」(宝泉寺)
「露國人之墓」(宝泉寺)

その130余年後の平成4年(1992年)9月12日には、プチャーチン提督のひ孫に当たるディミトリー・プチャーチン夫妻が宝泉寺や戸田造船郷土資料博物館※1ほかを訪問している。また平成17年4月16日には、日露修好150周年記念式典が下田市のまどが浜海遊公園で開催され、式典には、小泉総理、ロシュコフ駐日ロシア大使、町村外務大臣、小池北方対策担当大臣らが挨拶に立ち、再びディミトリー・プチャーチン夫妻と当時の交渉役であった江戸幕府川路聖謨(としあきら)勘定奉行の子孫とともに、河津桜の記念植樹を行った※2。このように戸田村とは今日においても友好関係が続いている。宝泉寺のしだれ桜の下に「露國人之墓」が北の方角に向いて祀られている。亡くなった水兵の母国に帰ることができなかった、家族と再会できなかった無念が伝わってくるが、日々住職らが供養している。(了)

●  『全国の伝承江戸時代 人づくり風土記(22) ふるさとの人と知恵 静岡』社団法人農山漁村文化協会、1990
●  (社)日本船主協会HP日本に近代造船技術をもたらしたロシア軍艦ディアナ号の遭難事件
※2  首相官邸HP「日露通好条約の締結150周年式典(H17.4.16)」
ページトップ